第四章 家族との話
家の前に立って、わたしは深呼吸をした。一度追い出された家に入るのには、相応の覚悟が必要になる。もっとも、わたし、確か一昨日も家に入る前に心の準備をしていたけれど。
あの時の心配は杞憂に終わったけれど、今回は歓迎されないだろうことをわかっている。だけど、それでも家族ともう一度話さなくては。父様とは無理だろうけれど、母様やユト、ザジとは話す機会が欲しい。
わたしはそっと家の扉を開けた。「ただいま」と言おうか迷って、結局やめた。父様に追い出された以上、ここはもうわたしの家とは呼べない気がしたから。
大きな音を立てないように扉を閉めて、足音を殺して廊下を歩く。朝食の後片づけを終えて父様が工房にこもる時間を見計らって来たけれど、わたしが来たことに気づいたら、父様が出てきて追い払われてしまうかもしれない。それは避けたい。
居間をのぞくと、母様が針仕事をしていた。ザジもテーブルに座っている。宿題をしているみたい。
今日は学校が休みの日だから、ザジとユトも家にいることを期待していた。遊びに行っているかもしれないとも思ったけれど、少なくともザジは行かなかったようね。……わたしのせいで、無邪気に遊び回る気分になれない、という理由ではないといいのだけれど。
一つ頭を振って気持ちを切り替えて、口を開く。
「母様、ザジ」
声をかけると、母様が跳ね上がるように大きく体を揺らした。ばっとこちらに振り向く。
「シ、シア。びっくりしたわ」
「驚かせてごめんなさい、母様。おはよう」
「ええ、おはよう」
挨拶を終えると、気まずい沈黙が落ちる。わたしは、声をかけた時にこっちを一度見たきりまた宿題に目を落としているザジに声をかけた。
「ザジも、おはよう」
「……おはよう、シア姉様」
ザジが、ぼそぼそと言う。あまりわたしと話したくなさそうな様子。返事を返してくれただけ良かったと思うべきかしら。
わたしは外套なんかを外套掛けにかけてから、自分の椅子に腰かけた。
「母様、一昨日の話の続きをしたいのだけれど、いい?」
邪魔が入る前に話をしなければいけないから、単刀直入に切り出す。
母様はうろたえるように視線をさまよわせてから、立ち上がった。
「ちょっと待っていて。今お茶を淹れるから」
わたしはお茶を飲みたい気分ではなかったけれど、母様にも心の準備が必要だろうから、何も言わずにうなずいた。
台所に向かった母様を見送って、わたしは首を伸ばしてザジが広げている教科書と帳面をのぞき込んだ。数学の宿題をしているようだけれど、その手は全く動いていない。
「どこかわからないところがあるの? 教えてあげましょうか?」
「……いい」
ザジは思い出したように手を動かして計算問題を解き始めたけれど、明らかに集中できていない。何度も計算を間違えているようで、そのたびに鉛筆でぐしゃぐしゃと帳面の一部を塗りつぶしている。
母様より先にザジと話した方がいいかしら。でも母様がクラディムに引っ越すつもりがあるかどうかを聞かないと、ザジに何て言えばいいかわからないのよね。
わたしは結局黙って、宿題と奮闘しているザジを見守っていた。
普通にお茶を淹れるより長い時間が経ってようやく、母様が居間に戻ってくる。自分とわたし、それからザジの分のティーカップをテーブルに置いて、椅子に座った。
わたしはお茶を一口飲んでから、母様を見つめた。
「母様、クラディムに引っ越す話だけれど、考えは変わった? 怖いのはわかるけれど、勇気を出して踏み出してみればいいことがあると思うの」
母様はため息をついて首を振る。
「わたしの考えは変わらないわ。里の外に引っ越す気はないわ」
「……そう」
わたしもため息をついた。そんな気はしていたけれど、やっぱり無理だったわね。
でも仕方がない。母様の人生だもの。他の人たちに冷遇されながらでも里で暮らす方が幸せだと母様が言うなら、それを受け入れるしかない。母様の選ぶ幸せを、母様の考えを尊重しなければいけない。
「ザジ、ちょっと部屋に行っていてちょうだい。わたしはシアと、大人の話をしたいの」
母様の言葉に、わたしは首を傾けた。ザジがいてはできない話って、何かしら。
ザジが無言でうなずいて、勉強道具を持って居間を出ていく。
母様がわたしに視線を戻して、大きく息を吸った。緊張しているような居心地の悪そうな顔をしている。
「あのね、わたし、色々と考えたのだけれど……リューリアと別れなくていいわ、シア。結婚してもいい。でも子どもは作って。お願いよ。それならきっと、里の人たちの目もそこまで厳しくならずに済むと思うの」
わたしは唖然と母様を見つめた。考えるより先に、言葉が口をついて出る。
「嫌よ。そんなのは嫌。ルリを裏切るなんてできない」
それだけじゃない。今のわたしにはもう、好きでもない人と肌を合わせるなんて、考えるだけでも嫌。以前は我慢できると思っていたけれど、愛する人と抱きあう幸せを知ってしまった今では、とても無理。
「家族のためなのよ、シア。譲歩してちょうだい」
わたしは歯を食いしばった。
「……母様は、父様以外の人と子どもを作れって言われても平気なの?」
母様が虚をつかれたような顔をする。それから目を伏せた。
「わたしたちとあなたたちとでは、話が違うわ。わたしとユグザには五人も子どもがいるんだもの。他の人と子どもを作れなんて言われないわ」
「もしもの話よ。答えて、母様。もし里長様に、父様以外の人と子どもを作るよう言われたら、どうするの?」
母様はしばらく黙っていた。それから、小さな声で言う。
「それが、一族のためだというなら、里長様の命令なら、従うわ」
わたしは信じられない気持ちで母様を見つめた。氷の塊を呑み込んだような心地がする。
母様と父様は仲のいい夫婦だし、愛しあっているのだと信じてきた。それは実際間違っていないのかもしれない。だけどそれでも母様は、父様以外の人と体を重ねても構わないと言う。
そのことが衝撃で、だけど頭の中の妙に冷静な部分は、しばらく前のわたしだって母様とさほど変わらなかったのだと告げていた。
里長様や父様や母様に望まれるとおり、好きでもない人と結婚して、子どもを作って、そうやって生きていくつもりだったのだから。
でも母様の言葉で改めて実感した。わたしはこの里では暮らしていけない。母様みたいには生きられない。
こう思うのは、わたしが変わったからかもしれないし、前のわたしでもいざとなったらやっぱり無理だと拒否していたのかもしれない。それはわからない。わたしにわかるのは、今のわたしには決してその道を選べないということだけ。
「……わかったわ」
わたしはなるべく感情を出さないようにして声を出した。
「それが母様の生き方なら、口出しはしない。でも、わたしにその生き方を押しつけないで。わたしは絶対にその道は選ばないから」
「シア……」
母様が縋るような目でわたしを見る。わたしは首を振った。
「この話はもうしたくないわ。母様が何を言ってもわたしの決心は変わらないから、しても無駄よ。――他にわたしに言いたいことはある?」
母様はもうしばらくわたしを見つめてから、がっくりと肩を落として首を振った。
「それじゃあ、わたしはザジと話してくるわ」
わたしは母様を置いて居間を出た。二階に上って、ザジの部屋の扉を叩く。
「入っていいよ」
ザジの許可を得て扉を開ける。机の前の椅子に座った状態で振り返っていたザジの顔が、わたしを認めて強張った。わたしだとは思っていなかったみたいね。
わたしは部屋の中に入って、扉を閉めた。
「勉強中に邪魔をしてごめんね。でも、あなたもわたしに言いたいことや訊きたいことがあるんじゃないかと思ったの」
ぎゅっと唇を引き結んだザジは少しの間何も反応せずにいたけれど、やがて思いきったように口を開いた。
「シア姉様は、やっぱり僕たちよりルリって人とその家族の方が好きになっちゃったの? だからうちを出ていくの?」
わたしは少し面食らって瞬きをした。ザジは真剣な、だけど泣き出しそうな顔でわたしを見つめている。
「……そうじゃないのよ、ザジ。わたしが家を出ていくのは、結婚するからよ。結婚したら家を出るのは自然なことなの。セゼ兄様だってそうでしょう?」
「でもセゼ兄様はすぐ近くに住んでて、いつでも会えるじゃないか」
「それは仕方がないわ。ルリは……わたしが好きになって結婚したいと思っている人は、ミラお義姉さんとは違って遠くに住んでいるんだもの」
「じゃあ、その人がこっちに越してくればいいじゃないか」
「そうは行かないわ。わたしとルリはこの里には住めない。それは許されないだろうし、わたしもルリをこの里で暮らさせたくないの」
「それで、僕たちと離れて暮らすことになっても?」
「……ええ、そうよ」
ザジはうつむいてしまった。わたしは歩み寄るとザジの前に膝をついて、その頭に触れた。
「ごめんね、ザジ。でも、一昨日も言ったでしょう? ルリやその家族を好きになっても、それでザジやユト、セゼ兄様や母様、父様のことを好きじゃなくなるわけじゃないのよ。離れていたってずっと好きだし、それにわたしたちが家族であることは変わらないわ」
そう、父様に幻滅しても、母様に失望しても、それで二人への愛情が消えたわけじゃない。家族として大事に思う気持ちだって残っている。だから苦しいのだけれど。
ザジが膝に置いていた両手をぎゅっと握って拳の形にする。
「……僕、おめでとうって言ったの取り消す。シア姉様にルリって人と結婚してほしくない。シア姉様が遠くに行っちゃうの嫌だし、それにその人との結婚は一族の決まりに背くことなんでしょ? 僕……これ以上みんなに嫌なこと言われたくないよ……」
顔を上げたザジの緑の目は涙でいっぱいになっていた。
「だからシア姉様、ルリさんと結婚しないで。お願いだよ」
「ザジ……」
「僕の一生のお願い。僕もうこれから他にお願いしないから……。それでも、だめ……?」
わたしは一度目を閉じて、痛みに備えた。目を開いて、ザジの目をまっすぐに見つめて、告げる。
「ごめんなさい、ザジ。そのお願いは聞けないわ」
ザジの顔がくしゃりと歪む。その瞳から大粒の涙が零れ落ちて頬をつたっていく。その一粒一粒が、わたしの心を切り裂いていくみたい。でもわたしはその涙を見つめ続けた。
わたしの幸せが家族を傷つけるものだったのは、わたしのせいじゃないし仕方がないことだと、セゼ兄様は言ってくれた。確かにわたしの幸せの形を選んだのはわたしじゃない。だけど、その幸せを追い求めることを決めたのはわたし。
だからわたしはこの痛みを、苦しみを、逃げずに引き受けなければいけない。
ザジがわたしの手を振り払って立ち上がった。寝台に駆け寄って、分厚い上掛けの下に潜り込んでしまう。
わたしはずきずきと痛む心を無視して、寝台に腰を下ろした。丸くなったザジの体に上掛け越しに触れる。
「ザジ」
「出てって」涙と上掛けでくぐもった声がする。「シア姉様嫌い。出てって……!」
わたしは迷ったけれど、ザジの言うとおりにすることにした。ザジには心を落ち着かせる時間が必要でしょうから。
「わかった。出ていくわ。でもね、ザジ、わたしは何があってもザジのこと大好きよ。それだけは憶えておいて」
ザジに届くように少し大きめの声で、はっきりとした口調でそう言って、立ち上がる。
ザジの部屋を出て扉を閉める。そのまま扉にもたれかかって目を閉じ、はあ、とため息を吐き出した。
何とか心を落ち着かせようとしばらくその状態でいると、カチャリ、と扉が開く音がした。目を開けると、向かいの部屋の扉が半分開いて、ユトがこちらを見ていた。
「姉様、ザジとの話うまく行かなかったの?」
わたしは苦笑した。
「ええ。泣かせちゃったわ」
「母様とはもう話した?」
「そっちもあまりうまく行かなかったわ。母様は泣きはしなかったけれど」
ユトは少し考えるようにしてから言った。
「あたし今から畑の世話に行くけど、姉様も来る?」
ユトが話す機会をくれたことにほっとして、わたしは微笑んだ。
「ええ、行くわ」
ユトはうなずいて、薄緑の髪を後ろでまとめながら部屋から出てきた。
一階に下りて居間から外套なんかを取ってきて、外に出る準備をする。居間にいる母様は、ちらりとわたしたちを見たけれど、何も言わなかった。
裏口から外に出ると、すぐ畑が広がっている。藁の敷かれた地面に冬野菜が並んでいる。
ユトは水瓶から水を取って水まきを始めた。冬の畑に水のやりすぎは禁物だから、少しずつ丁寧に水をかけていく。
ユトは土いじりが好きで、昔から畑仕事だけは文句を言わずにやるのよね。
妹を見守りながら、わたしは口を開いた。
「わたしに言いたいことや訊きたいことはできた?」
ユトが水まきをやめずに答えた。
「姉様は、リューリアさんに会いに行く前から、里を出ていくつもりだったの?」
「いいえ。ルリに……リューリアに会いに行った時は、リューリアに告白するつもりも、ましてや里を出てリューリアの傍に引っ越す気なんてなかったわ」
ユトは少し残念そうな顔になった。
「じゃあ、ほんとにリューリアさんと結婚するためにだけ里を出ていくの? 里の暮らしが嫌になったからってわけじゃなくて?」
わたしは少し考えた。
「里の暮らしが嫌になった……というのとは少し違うのだけれど、わたしにはもう里で暮らしていくことはできない、と思っているわ。ここで求められる生き方は、今のわたしには受け入れられないから」
ユトはしばらく無言でいたけれど、やがてまた口を開いた。
「昨日父様がさ、『生んで育ててやった恩も忘れて』って言ってたの。姉様のこと。でもさ、それって変な話よね。だって姉様もあたしも、誰だって親に生んでくれって頼んで生まれてくる子どもなんていないじゃない。こっちが頼んでもいないのに自分たちの都合で勝手に生んで、勝手に育てて、なのにそのことを恩に着せて縛りつけようとするなんて、ムカつく」
ユトは顔を歪める。わたしはその横顔を見つめた。
「ユトは、一族の掟に縛られるのが嫌なのね」
「まあね。掟がどうのとか決まりがどうのとか、聞くたびに苛々する。ジド兄様のことだってそうよ。確かに人を傷つけたのは悪いことだけど、あの時拳や道具で人を傷つけた人だっていたんでしょ? そういう人たちは良くて、魔法を使ってしまったジド兄様は罪人なの? それが掟だから? それってすっごく納得行かない」
ユトは、溜まっていたものを吐き出すように話し続ける。
「それなのに、あたしたちは罪人の家族って呼ばれてみんなに冷遇されて、それでも文句を言わずに我慢していい子でいなくちゃいけなくて……それがほんと嫌でたまらない。ううん、それだけじゃない。何もかもが嫌。こんな里大嫌い」
「じゃあ、わたしと一緒にクラディムに来る?」
ユトは口をつぐんだ。少しの間を置いて、大きく息を吐く。
「すっごくうなずきたいけど……でもだめ。今の里のあり方を嫌がってるのはあたしだけじゃないもの。少ないけど、あたしと同じように感じてる友達もいる。みんなで一緒に里を変えよう、って約束したの。その約束は破れない。友達は裏切れない」
「そう」わたしは微笑んだ。「あなたにそこまで大事に思える友達がいて良かったわ」
「まあね。友達がいるから、大人たちの嫌味も、馬鹿な奴らの嫌がらせも、父様や母様の小言も我慢できるのよ」
そう言うユトの顔は、さっきまでとは打って変わって穏やかだった。そのことがとても嬉しい。
でも同時に、ただでさえ里での暮らしに生きにくさを感じているユトを更に生きづらくさせてしまうことが申し訳なくなった。
「ごめんね、ユト。わたしのせいで、今よりもっと嫌なことをされたり言われたりするようになるかもしれないわ」
だけどユトは肩をすくめただけだった。
「いいわよ、そんなの。どうせもう色々言われてるんだし、一つ二つ悪口の種類が増えたって気にならないから」
「……ありがとう」
ユトの強さと優しさが胸にしみ入ってきて、目頭が熱くなる。
「別に」
ユトは照れたようにそっぽを向いてしまった。
「あたしは他に姉様に訊きたいことや言いたいことはないわ。ザジともう一回話すの?」
「そうしたいところだけれど、すぐには無理だろうから出直すわ。――後でザジの様子を見てあげてくれる?」
ユトはちょっと嫌そうな顔をしたけれど、しぶしぶといった様子でうなずいた。
「まあ、いいけど……」
「お願いね。それじゃあ、また」
わたしはユトに手を振って、家の敷地を出た。母様とザジとは物別れに終わってしまったけれど、ユトはわたしの決断を理解して受け入れてくれた。それで充分に嬉しい。
里に戻ってくる前は、家族の誰一人としてわたしの気持ちをわかってくれない覚悟もしていたのだもの。
わたしは、ユトとセゼ兄様が護ってくれた小さな灯火を胸に大事に抱きながら、レティおば様とヨルダおじ様の家に戻り始めた。
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