第二章 帰郷(2)
そして神殿を出て、家に帰る。「ただいま」と声をかけながら中に入ると、台所から母様が出てきた。家事の邪魔にならないよう首の後ろで束ねられた薄緑の髪。緑の瞳。わたしと似ていると言われる顔には、笑みを浮かべている。
「シア、まあ、本当に帰ってきたのね。おかえりなさい。長く里を離れていたから、心配していたのよ」
「心配かけてごめんなさい、母様。でも手紙に書いたとおり、クラディムでの暮らしはとても楽しいのよ。ルリの家族も町の人たちも、本当に良くしてくれるし」
母様は少し顔を曇らせて「そう……」と言った。何か言いたげな顔だったけれど、気持ちを切り替えるように一つ頭を振る。
「そういえば、色々買ってきてくれてありがとうね。お昼は食べたの? まだなら何か作るけれど」
「大丈夫よ。山道の途中で食べたわ」
「そう。じゃあ、夕食はあなたの好きな物を作りましょう。カウィナ鳥のもも肉があるから、炙り焼きにしましょうか」
「それ、いいわね。楽しみ。そうだ母様。食材だけじゃなくて布地も色々買ってきたのよ。納戸にしまってあるわ」
「あら、それは助かるわ。ちょうどザジの服を新しく作りたいと思っていたのよ」
「じゃあ、ザジが学校から帰ってきたら、好きな布地を選ばせてあげましょう」
「そうね。それがいいわね。でもその前に一通り見ておきたいわ」
そういうわけでわたしと母様は納戸に行って、布地を見ながら、どれを何に使おうか色々案を出しあった。
「この薄手の緑の布は夏服にぴったりね。シア、これで新しいワンピースでも作ったら?」
母様のその言葉にわたしは曖昧に笑うだけで返した。
来年の夏にはわたしはこの家にいないし、今回の滞在だって、その間にワンピースを一着作れるほど長い期間にはならないでしょう。でもその話は、今夜皆がそろっている時に、って決めているから、今は母様に何も言わなかった。
その後居間に場所を移して、針仕事をする。母様は新しい布地の一つでさっそく父様のシャツを作り始めている。
破れた服を繕いながら、わたしはクラディムでの暮らしについて色々と話した。母様に、クラディムはいい所なんだって知ってほしかった。それで、わたしの結婚に関する母様の意見が変わるとは思わないけれど、それでもわたしがこれから暮らしていく場所だから。
でも母様は、わたしの話を聞くのがあまり楽しくないようで、言葉少なに相槌を打つだけ。これまで、旅から帰ってきて訪れた場所の話をした時は、もう少し興味を持ってくれたのだけれど。わたしが、手紙で帰ってくるように言われても聞かずクラディムに留まり続けていたことで、クラディムに否定的な感情を持ってしまっているのかしら。
母様の態度にわたしも話を続けづらくなって、黙りがちになってしまう。二人で黙々と針仕事をしていると、玄関が開く音と「ただいまー」という声が聞こえてきた。弟のザジだわ。
わたしは繕っていた服を置くと、居間から顔を出した。
「おかえりなさい」
「シア姉様! 帰ってきてたんだ!」
ザジが顔を輝かせて駆け寄ってくる。
「ええ、ただいま、ザジ。久しぶりね。元気そうで何よりだわ」
わたしの腰に抱きついたザジの頭をなでる。
「あら、もしかして背が伸びた? 前より頭の位置が高い気がするわ」
「シア姉様、半年もいないんだもん。そりゃ、背も伸びるよ」
ザジが少し唇を尖らせて言う。わたしは微笑んだ。
「さびしい思いをさせてごめんなさいね。ザジに会いたかったわ」
「うん。僕も会いたかった」
「お土産に布地を色々買ってきたのよ。それで、母様がザジに新しい服を作ろうって。今納戸から持ってくるから、好きな布地を選ぶといいわ」
ザジが手洗いうがいをして荷物を自分の部屋に置きに行っている間に布地を取ってきて、戻ってきたザジの体に当てたりしながら、三人でザジの新しい服用の布地を選ぶ。濃い青の布地でシャツを、薄茶色の布地でズボンを作ることになった。
わたしと母様は針仕事に戻る。ザジも簡単な繕い物を手に取った。
「ねえ、シア姉様、外の話をしてよ」
ザジにねだられて、わたしはまたクラディムでの生活について話し始めた。同じ年頃の子が町ではどんな暮らしをしているのかザジは興味があるのじゃないかと思って、ラピスくんのことを中心に話していると、話が途切れたところでザジがすねたように言った。
「シア姉様、そのラピスって子と随分仲良くなったんだね」
「そうね。会ってすぐから懐いてくれて、わたしを姉みたいに慕ってくれているわ」
「……僕とその子とどっちが好き?」
その言葉に、わたしは、あら、と瞬いた。焼き餅を焼かせてしまったみたい。微笑んでザジの肩を抱き寄せる。
「どっちも大好きよ。ラピスくんと仲良くなったからって、ザジを大切に思う気持ちが変わるわけじゃないわ。ザジはわたしの大事な弟だもの」
ザジはまだ不満そうな顔をしていたけれど、わたしと同じ黒銀の髪に口づけて、いい子いい子と頭をなでてあげると、顔が緩んだ。
「まあいいや。シア姉様はもううちに帰ってきたんだもんね。次に旅に出るまでには、しばらくあるよね?」
ザジの言葉に、わたしはどう答えようか迷った。クラディムに移り住むことはまだ話したくないけれど、ザジの質問を無視もできない。
でもそこでちょうど、玄関の扉が開いて閉じる音が聞こえて、ザジの意識がそれた。
「あ、きっとユト姉様だよ。ユト姉様ー、シア姉様が帰ってきてるよー」
ザジが居間から声をかけると、妹のユトが居間の入口から顔をのぞかせた。
「姉様、やっと帰ってきたのね。遅いのよ。姉様がいない間、あたしの仕事が増えて大変だったんだから」
ユトは相変わらずみたいね。緑の目を細め、唇を尖らせて文句を言ってくる。一年くらい前から、こういうことが増えたのよね。
慣れているし腹を立てるような内容でもないから、わたしは微笑んで返した。
「それはごめんなさい。お土産に布地をいくつか買ってきたから、ユトも好きなのを選んだらどう? この緑の布なんて、ユトの目の色を引き立てて、とても似合うと思うわ」
ユトはまだ文句を言い足りなさそうな顔をしていたけれど、布地を見たい気持ちには逆らえなかったみたいで、おとなしく居間に入ってきて外套やなんかを外套掛けにかけると、緑の布地を手に取った。顔には出さないようにしているけれど、目がきらきらと輝いている。
「……悪くないわね」
「でしょう? 夏服にぴったりの生地だから、来年の夏用にワンピースでも作ったらどうかって、母様が」
「うん、そうしようかな。母様、この布あたしが貰ってもいいでしょう? ワンピース作って、余った分は返すから」
流れで母様に目を向けると、母様はまた物言いたげな表情でわたしを見ていた。でも結局何も言わず、ユトに視線を移す。
「いいわよ。でもワンピースは、大きめに作らないとだめよ。あなたは成長期なんだから、今の体に合わせて作ったら、来年の夏には着れなくなっているかもしれないもの」
「一々言われなくてもわかってるわよ、それくらい」
ユトはまた不機嫌な顔になって、ぷいっと顔を背けると立ち上がった。緑の布を持ったまま、居間を出ていってしまう。母様がため息を吐き出した。
「やれやれ。ころころと機嫌が変わるんだから、年頃の子は扱いづらいわ」
「ユトは自立心が旺盛なのよ。あまり口出しせずに放っておいてあげたらいいと思うわ」
「でもあんまり放っておいて、ジドみたいになったら……」
母様が、苦い物を口にしたような顔になって、言葉を途切らせる。ザジが横目で窺うように母様を見た。
わたしは何も聞かなかったかのような平然とした声を作って、話題を変えた。
「母様、わたしもうすぐここの繕い終わるから、そうしたら夕食の準備にかからない?」
「え、ええ、そうね。そうしましょう」
母様がぎこちない笑顔を浮かべて、同意する。
そのままもう少しの間針仕事をして、それから夕食を作り始めた。台所に三人は狭いので、ユトには声をかけない。といっても家事を全くやらせないわけではなく、後片づけをやってもらう予定。
ザジにはお風呂の用意を言いつけてある。お風呂ができたら、ユトとザジには夕食前に風呂に入ってもらう。わたしと母様は夕食後。長風呂を好む父様もいつも夕食後に入る。
ちょうどザジがお風呂から上がって居間のテーブルに食器を並べている頃に、料理ができ上がる。工房の父様と二階の自室にいるユトを呼んで、食事を始める。
食べる前には、手と手を重ねるだけでなく、きちんと祈りの言葉も唱える。久しぶりに正式な手順を踏んだので、何だかくすぐったく感じる。
食事中は、ザジにまたねだられてクラディムの町の話をする。今度はラピスくんのこと以外が主だったから、ザジは嫉妬心を刺激されることもないようで、楽しげに話を聞いている。ユトも、隠そうとはしているけれど、外の話に興味津々といった様子。父様は時々相槌を打ちながら、興味のある話題があると口を挟んでくる。母様は、やっぱり不自然に黙り込んでいる。
夕食が終わると、父様とユトが汚れた料理器具や食器を洗う。
この里では男性も家事をすることを推奨されている。妻が使命の旅に出ることがよくあるから、その間問題なく暮らせるように、子どもがいるなら子どもの世話もちゃんとできるように、という理由。
うちでは、父様が仕事を持っていて母様は持っていないから、家事の大半は母様がやっているけれど、父様も一通りの家事はできる。
「シア、まだお風呂に行かないの?」
母様に声をかけられて、わたしは首を振った。
「その前に、みんなに話したいことがあるの。母様もお風呂に入らずに父様とユトが洗い物終わるのを待っていてくれる?」
母様の顔が少し強張った。どこか警戒するような表情でわたしを見ながら、ぎこちなくうなずく。
「……わかったわ」
母様は居間でまた父様のシャツ作りを始めて、わたしは繕い物をしながら、半年分構ってほしがっているザジの相手をする。でも、意識の半分は台所に向けておく。
父様とユトが洗い物を終えた様子が伝わってきて、わたしはザジに「ちょっと待っててね」と言って急ぎ足で台所に入った。台所から出ようとしていた父様とユトの進路をふさぐ格好になる。
「父様、ユト、大事な話があるから居間に来てくれない?」
父様が眉をひそめる。
「大事な話?」
「そう。手紙にも書いたでしょう?」
父様の眉間のしわが深くなった。
「あれか。一体何なんだ」
「ここじゃ何だから、座って話しましょう。あ、でも、セゼ兄様が来るまで待ってね。夕食後に来るよう頼んでおいたから」
「セゼ兄様まで呼んだの? 何よ姉様ってば、何か重大発表でもするつもり?」
「そんなところよ」
居間に行って、それぞれ椅子に座る。テーブルの上のティーポットからティーカップにお茶を注ぎながら、ユトが不満気に言った。
「セゼ兄様、まだ来ないの? ただ待ってるなんて退屈だわ」
母様がさっと顔を上げる
「セゼも呼んだの?」
母様の声はどこか張りつめた響きだった。母様は、わたしの話が何なのかうっすらと察しているのかもしれない。クラディムの話を聞きたがらない様子だったのも、わたしとルリがどういう仲なのか見当がついているからだったのかも。
わたしはまっすぐに母様を見つめた。母様はどこか懇願するような目でこちらを見ている。その眼差しに少し心が痛むけれど、引き下がるわけには行かない。
「ええ。大事な話だから、家族みんなに聞いてもらいたいの」
そこでちょうど、扉が開いて閉まる音がした。足音がして、セゼ兄様が居間の入口から顔をのぞかせる。
「よう、こんばんは。早く来たつもりだったけど、待たせちまったか?」
「ううん。ちょうどいいところよ。座って、セゼ兄様」
「ちょっと待て。カップ取るから」
居間の食器棚からティーカップを取り出したセゼ兄様は、空いている椅子に座ると、ティーポットからお茶を注いだ。お茶を一口飲んで、ティーカップをテーブルに置く。
「それで、シア、大事な話とやらを聞こうか」
「ええ」
わたしは大きく息を吸って吐いた。梟の首飾りをぎゅっと握りしめ、家族一人一人の顔を見つめた後、口を開く。




