第二十六章 儀式を終えて(1)
何かが、動いた感触がした。
「あれ……?」
あたしは目を開いてぱちぱちと瞬きをした。今自分がどこにいて何をしているのか、すぐには思い出せない。
どうやら寝台の傍の椅子に座って、寝台に突っ伏すようにして眠っていたらしい。視線を動かせば、開いたいくつもの窓から差し込む夕日に照らされた、きっちりと整えられた広くて清潔な部屋とそこに配置されたいくつもの寝台が目に入ってきた。
そっか、ここ診療所だ。
視線を更に動かすと、寝台に横たわるシアの顔が目に映る。あたし、シアの傍についているうちに眠っちゃったんだ。
体を起こして小さくあくびをする。でも何でいきなり目が覚めたんだっけ? 何かがあったような気がしたんだけど……。
考えていると、また手の中で何かが動いた。あたしは手に視線を落とす。シアの手を握りしめている、手に。
まさか……。期待で鼓動が速くなる。シアの手を凝視していると、それがぴくぴくと動いた。
あたしは、ばっと振り向いてシアの顔を見つめた。
「シア……?」
おそるおそる声をかける。あたしの声に返ってくるのは沈黙ばかりで、シアの手が動いたのは気のせいだったんだろうか、って思い始めた頃、シアの瞼がぴくりと動いた。
息をつめて見守るあたしの前で、シアの紫の瞳がゆっくりと姿を現す。それは夜が明けて朝になるような当たり前の光景で、だけど奇跡のように尊い眺めだった。
「シ、ア……」
ちゃんとシアの瞳を見つめたいのに、景色が歪んでぼやけて、うまく見えない。
「ルリ……?」
ぼんやりとしたシアの声が聞こえる。天上の音楽もきっとこれより美しくはない。
「シア、良かった……良かった……」
あたしは空いている左手でひたすら涙をぬぐいながら、シアに笑いかけた。
「ここ……どこ? わたし、どうして……」
シアはまだ覚醒しきっていないみたいで、言葉が覚束ない。
「ここは診療所。シア、儀式の後二日も眠っていたんだよ。全然目が覚めなくて……もう起きないかもしれない、って何度も思ったんだから……」
あたしはこらえきれなくなって、シアの上に覆いかぶさるように抱きついた。
「シア……シア……大好き……」
嗚咽があふれ出して、それ以上は言葉にならない。シアがなだめるように頭をなでてくれる。もう片方の手であたしの体を抱き返してくれる。
「心配かけたのね。ごめんなさい。わたしも大好きよ」
シアの手の感触に涙が更に止まらなくなる。あたしは積もり積もった不安を全て吐き出すように、ひたすら泣いた。シアはその間ずっとあたしを抱きしめて頭をなでていてくれた。
ようやく涙の波が引いて、気持ちが落ち着いてくる。あたしは体を起こすと、ポケットからハンカチを取り出して顔をふいた。
「ご、ごめんね、シ、シア。お、起きたばっかりなのに、い、いきなり泣きついちゃって」
大泣きした後遺症で、うまく喋れない。ちょっと恥ずかしいけど、シアが微笑みながら頬をなでてくれるから、いいことにする。
「いいのよ。わたしが泣かせちゃったんだもの」
「リ、リーナス先生、呼んでくるね。し、診察してもらわないと」
あたしは立ち上がって、がらんとした部屋の中を、診察室に続く扉に向かって歩いた。
シアと一緒に診療所に運ばれてきた、儀式の最中に意識を失った人たちは皆、すでに意識を取り戻して退院したり、あるいは意識が戻らずにそのまま亡くなってしまったりして、今入院しているのはシアだけだ。
リーナス先生は患者さんを診察中だったので、ちょっと待つ。手が空いたところに声をかけて、シアが起きたことを伝えて、一緒にシアの所に戻った。シアは体を起こしてあたしたちを迎えた。
「シ、シア、お、起きて大丈夫なの? ま、まだ寝てた方がいいんじゃ……」
「大丈夫よ。もう体は何ともないの」
「で、でも……」
あたしはシアとリーナス先生を交互に見た。リーナス先生が穏和な笑みを浮かべる。
「気分が悪くないのはいいことだが、念のため診察させてもらうよ。いいかな?」
「はい。お願いします」
一通りシアの診察をしたリーナス先生は、うん、とうなずいた。
「確かにどこも悪いところはなさそうだ。でも、一応退院は明日の朝まで待とうか。もう夕方だしね」
「わかりました」
「弟子に言って消化のいい食事を持ってこさせるから、しっかり食べてよく休むこと。いいね?」
「はい。お世話になります」
「ああ、そうだ。瘴気の浄化を助ける薬もあと数日の間は飲み続けた方がいいらしいね。ルチルさんに最後にあの薬を飲ませたのは……いつになるかな、リューリア?」
「え、えっと、い、今何時ですか?」
「さっき十二の鐘が鳴ったところだね」
「じゃ、じゃあ、よ、四時間前です」
「そうか。じゃあ、食事を終えたら薬を飲んで、それから眠ってくれ」
シアが、はい、とうなずくと、リーナス先生は立ち上がって診察室に戻っていった。
あたしは寝台脇の椅子に腰を下ろして、シアの姿を見つめる。目を覚まして動いているシアが、また見られる。そのことに、神々に心からの感謝を捧げた。
「ルリ」
名前を呼ばれてはっと意識を今いる場所に戻すと、シアが真剣な顔でこっちを見ていた。
「訊きたいことがあるの。……儀式では、何人の人が亡くなったの?」
「……さ、三人」
シアの表情が陰る。
「そう……」
沈痛な表情で目を伏せているシアを見ているうちに、あたしも訊きたいことがあったのを思い出した。本当はシアが落ち着くまで待った方がいいんだろうけど、でも、知りたい気持ちを抑えきれない。
「あ、あたしも訊いていい?」
シアが目を上げる。
「何?」
あたしは大きく息を吸って吐いた。呼吸を整えて、口を開く。
「レティ母様とヨルダ父様が、言ってたの。シアは瘴気の大半を魔力の紐であたしの方に送らずに、自分の体に溜め込んでたんじゃないか、って。それで倒れちゃったんじゃないかって。……本当?」
シアが目をそらした。そのしぐさが、言葉より先に答えを教えてくれた。
「……本当よ」
あたしは何とか落ち着いて喋ろうとした。
「……そんなことしたら、死んじゃう可能性がかなり高くなるって、わかってたんだよね?」
「わかってたわ」
「じゃあ何で!?」
あたしは声が大きくなるのを抑えられなかった。
「死ぬつもりだったの? あたし……あたし、シアは生きる覚悟をしてくれたんだ、って思ってたのに……。あたしと生きたいって言ってくれたのに、やっぱり死ぬ方を選んだの!? それが一族の使命だから?」
自分の言葉に胸が痛くなる。やっぱりあたしとの未来より一族の使命の方が、シアにとっては大事なんだろうか。
「違うわ、ルリ」
シアがあたしの手を取る。一瞬その手を振り払いたい衝動に駆られたけど、シアに触れていたい気持ちの方が勝った。
「わたしはただ、儀式で死ぬ人を一人でも減らしたかったの。死者を減らすために自分にできること全てをしたかったのよ。そうでないと後悔する、って思ったから」
シアはあたしの目をまっすぐ見つめて続ける。
「ルリはわたしに、自分が幸せになれる道を選べ、って言ってくれたでしょう? わたしにとっては、他の人が死ぬ確率をぎりぎりまで下げるためにわたしができる限り瘴気の浄化を引き受けることが、一番幸せになれる道だ、って思ったの。そうすれば、この先後悔しながら生きていくことはせずに済む、って。死んでもいいって思ってたわけじゃない。自分の命を蔑ろにしたわけじゃないわ。それはわかってほしい」
あたしは、目にぐっと力をこめて、シアを見つめ返した。シアは目をそらさずにあたしの視線を受け止める。
「……本当に死ぬつもりはなかった?」
「神々に誓って、なかったわ」
あたしはもうしばらくシアの目を見つめてから、はあ、と息を吐いた。ぽすん、とシアの肩に頭を乗せる。
「ルリ?」
「わかった。それなら、いい」
「……もう怒ってないの?」
「正直に言うと、まだちょっと怒ってる。でも、死者を減らしたかったシアの気持ちはわかるし、そのために全身全霊を傾けて命がけの方法まで取っちゃうのがシアだっていうなら、しょうがないもん。あたしはシアにあたしの理想に合うよう変わってほしいわけじゃないし」
まだ全部納得しきれたわけじゃないけど、後悔せずに生きるために命がけで自分にできる全てのことをしたのは、あたしだって大して変わらないから、そこに文句は言えない。
「あ、でも!」
あたしは、がばっと体を起こして、シアを睨むように見た。
「意識を失いかけてるのに瘴気の浄化を続けようとしたのは、やりすぎだからね。そこは反省して」
「……はい」
シアがばつの悪そうな顔で返事をする。
「本当に反省してるんだよね?」
「してるわ。わたしもあんなに大量の瘴気を浄化するのは初めてだったから、自分の許容量を読み誤っていたのよ。瘴気を取り込みすぎて判断力も鈍っていたし……」
「なら、もし次に似たようなことがあったら、あたしの言うことを聞いて止まってくれる?」
シアは少し考えた。
「ルリの言っていることが正しいと思ったら、そうするわ」
「……そこで安易に『うん』って言わないのが、シアだよね……」
「ルリに嘘はつきたくないもの。それに、ルリだってわたしの立場だったら同じこと言うと思うわ」
「まあ、それはそうかもしれないけどさ」
あたしは少し頬をふくらませつつ、またシアにもたれかかった。でもすぐに、はっとして身を起こす。
「ごめん。重かった?」
シアは目を覚ましたばかりなんだ。体に負担をかけるようなことはしちゃいけない。
でもシアは微笑んであたしを抱き寄せてくれた。
「平気よ。ルリとこうしてくっついていると、幸せな気持ちになれるし」
「う、うん。あたしもだよ」
シアの言葉に改めて今の状況を認識して、心臓がばくばくと脈打つ。ドキドキして落ち着かないけど、でもやっぱり幸せ。
ずっとそうしていたかったけど、「失礼します」という声と共に、リーナス先生のお弟子さんが入ってきた。手には食器を乗せた盆を持っている。
あたしは、ばっとシアから離れた。
「ルチルカルツ・シアさんの食事です。どうぞ」
「ありがとうございます」
シアは微笑んでお礼を言って、盆を受け取った。
「しばらくしたら、食器を下げに来ますね」
そう言ってお弟子さんは部屋を出ていく。
シアはお盆の上の麦粥を見下ろしてから、あたしの方を見た。
「ルリはもう食事済ませたの?」
「ううん、まだ。もうすぐレティ母様とヨルダ父様が持ってきてくれると思う」
「そうなの。あら? もしかしてルリは、わたしが眠っていた間ずっとここにいたの?」
「うん。シアから離れたくなかったし」
「でも、それじゃあラピスくんは? イァルナさんの所に預けているの?」
「ううん。レティ母様がシアの部屋に泊まって、ラピスの面倒を見てくれてるんだ。あたしが心配せずにシアの看病に専念できるように、って」
「そうだったの。レティおば様とヨルダおじ様にはお礼を言わなければならないわね」
「うん、そうだね」
そんな話をしていると、玄関広間につながっている方の扉が開いて誰かが入ってくる音がした。あたしはそっちを振り返った。
「あ、噂をすれば、だ」




