第十八章 エルオーディナ・クロー(1)
コーラウスを出て二日目の午後も半ばを過ぎた頃、あたしは最後の目的地パリエスに到着した。コーラウスほどではないけど大きな町で、活気がある。
そのせいか、空き室のある宿を見つけるのに、ちょっと苦労した。ようやく良さそうな宿に落ち着いた時には、もう日が暮れてしまっていた。これじゃあ、今から町長の家を訪ねるのは無理だ。気は逸るけど、明日まで待つしかない。
あたしは風呂屋でゆっくりと旅の汚れと疲れを落とすと、宿屋に戻って、一階の食堂で夕食にした。
ふと思いついて、給仕を呼び止めて、町長の息子さんの奥さんのことを訊いてみる。
「町長さんとこのお嫁さんですか? どんな人かって言われても……よくは知らないんですよね。嫁いできて半年くらい経つのに、ほとんど町の催しに出てこないし」
若い女性給仕は、首を傾けて少し考えた。
「あ、でも、カレムなら知ってるかもしれません。カレムの親戚が、町長さんのお宅で働いてるから」
女性給仕はぐるりと食堂を見渡すと、お目当ての人物を見つけたようで、手を振って声を張り上げた。
「カレム! このお客さんが、あんたに訊きたいことがあるって!」
食堂の反対側で給仕をしていた若い男性が手を上げて、わかった、と知らせてくる。女性給仕は、「それじゃ、あたしは失礼します」と言って別の客の相手をしに行った。
しばらくして、手が空いたカレムさんがあたしのテーブルにやってきた。
「お待たせいたしました。俺に何のご用でしょう?」
「実は、ここの町長さんの息子さんの奥さんについて訊きたくて。魔術師一族の人なんですよね?」
「そうみたいですよ。けど、魔術はあんまり使えないみたいです」
カレムさんは声を潜めた。
「ここだけの話ですけど、その割に気位は高くて使用人に当たりがきついそうです。ローティヤさん……町長さんとこの上の息子さんで、件のお嫁さんの旦那さんですけど、そのローティヤさんは穏やかな人だから、大きな喧嘩こそしないけど、どうも夫婦仲もあんまり良くないとか」
「そうなんですか……」
気位が高くて当たりがきつい人ってことは、ライファグ一族の人みたいな感じなのかな。あんな風にばっさりと断られてしまわないといいんだけど……。
あたしは首を振って、弱気な自分を胸の底に沈めた。エルオーディナさん……だったよね、その人が最後の頼みの綱なんだ。ここでも成果を得られなかったら、もう本当に後がない。何が何でも食らいついて、話を聞いてもらわないと。
そう決心を固めながら、カレムさんにお礼を言って、手早く食事を終える。
自室に戻って明日必要な物を確認して、洗濯物を宿屋の従業員に渡したら、さっさと寝台に入って寝ることにした。
だけど、眠りはなかなか訪れてくれなかった。ここも無駄足に終わったらどうしよう、って不安が沈めても沈めても心の底からわき上がってきて、眠れない。
どうしよう。ちゃんと寝ないと、交渉で頭が回らなくて失敗しちゃうかもしれない。でも、そうやって寝なくちゃって思えば思うほど、目が冴えてしまう。
鐘いくつ分の時間が経っただろうか、あたしはふと思いついて、手燭の蝋燭に火をつけて、荷物の中から香水瓶を取り出した。
瓶の蓋を開けて、そっとにおいを嗅ぐ。キャルメの花の香りを胸いっぱいに吸い込むと、シアに抱きしめられているみたいだ。
想像するとドキドキと胸が騒ぐけど、同時に何だか落ち着いても来た。
香水瓶を寝台脇の小箪笥の上に置いて、もう一度寝台に横たわる。目を閉じて、瞼の裏の暗闇にシアの顔を思い描く。
『大丈夫よ。ルリならできるわ』
シアの優しい声が耳によみがえってくる。この旅のことで言われたわけじゃないけど、そこは気にしないことにして、シアがあたしを励ましてくれてるってことだけに意識を集中させる。シアがこう言ってくれてるんだから大丈夫。あたしはできる。
そう自分に言い聞かせているうちに、眠りの男神ファライーグの御手がようやく訪れてくれた。意識がとろとろと闇の底に沈んでいく。
それからどれくらい経ったか、すうっと意識が浮かび上がるように覚醒して、あたしは目を開いた。なんか夢を見た気がするけど、憶えていない。でも嫌な目覚めじゃないから、悪夢ではなかったんだろう。
窓の外から小鳥のさえずりが聞こえるから、もう朝のはずだ。あたしは、うーん、と大きく伸びをしてから、寝台を出て窓を開けた。
あれ、予想していたよりも太陽の位置が高い。寝過ごしてしまったみたいだ。まあ、寝つくまで苦労したから、仕方ないか。一日の予定に支障が出るほど遅くまで寝てしまったわけでもないし。
とはいえ、ぐずぐずしてはいられない。さっさと着替えて一階の食堂に下りていった。幸いまだ朝の営業時間中だったので、朝食を取ってから、部屋に戻った。
出かける支度をする。自室を出て、行きあった従業員に神殿と町長さんの家の場所を訊いて、宿屋を出た。
まだ午前も半ばなのにもう結構暑い。火魔法で冷やした空気をまとって暑さをやわらげながら、まず神殿に向かう。ヨムカム一族との交渉では、求める情報は得られなかったけど、交渉自体はうまく行った。交渉に向かう前に神殿で祈ったおかげかもしれない。
なので、今回もしっかり神殿で祈ってから向かうことにする。お金はいっぱいあるから、供物もいい物を買った。
「今回が最後の機会なんです。どうかこれから会うクロー一族の人が話をちゃんと聞いてくれて、それで瘴気の浄化方法に関する情報を持っていてくれますように。どうぞご加護をお授けください。トゥッカーシャ」
祈りを捧げ終えると、クラディムの神殿とそう変わらない規模の神殿を出て、町長さんの家に向かった。
しばらく歩いたところで、それらしき家に着いた。石造りの建物で、正面玄関の両脇に色とりどりのガラスを使った窓があるからすぐわかるはずだ、って道を訊いた時に言われたけど、本当に色ガラスの窓がある。綺麗。
でも屋敷の敷地を囲む鉄柵が何だかライファグ一族の館を思い起こさせて、不安が頭をもたげる。
だめだめ。弱気は禁物。あたしはパンパンと頬を叩いて、気合いを入れ直した。よし、行くぞ。
門の脇に門番の詰め所らしき小さな建物があるので、歩み寄って扉を叩く。中年の男性が扉を開けて出てきた。
「おはようございます。私はクラディムという町で魔術師をしているリューリアといいます。エルオーディナさんに会っていただきたくて参りました。これが私の町の町長からの紹介状です」
「おはようございます。若奥様にご用事ですね。ただ今取り次いでまいりますので、少々お待ちください」
紹介状を受け取った門番さんは、門を開けて敷地の中に入っていく。門番さんの態度は特に偉そうでもこっちを見下してる風でもなかった。ライファグ一族の館とは違う。
そう自分に言い聞かせながら、しばし待つ。やがて戻ってきた門番さんは、門を開けてあたしを手招いた。
「どうぞお入りください。屋敷へどうぞ」
門から屋敷まではほとんど距離がないので、案内はない。門番さんは、あたしを招き入れた後は詰め所に戻ってしまった。
そのかわりのように、屋敷の入口で執事さんらしき壮年の男性があたしを待っている。
「いらっしゃいませ。こちらにどうぞ」
執事さんに案内されて屋敷の中を歩く。この屋敷も高級そうな物がいっぱい置いてあるけど、さすがにもう見慣れたし、これが最後の機会だと思うと緊張で周囲を観察する余裕はほとんどない。
応接間に案内されて、お茶とお菓子を出されて、待たされる。
お師匠の研究成果を記した紙束をテーブルに置いて、交渉の準備を整えると、とりあえずお茶を飲んだ。
ヨムカム家で飲んだお茶ほどじゃないけど、おいしい……と思う。でも、どうしてもそわそわしてしまって、お茶の味があんまりわからない。
ていうか、エルオーディナさん、なかなか来ないな。……長々と待たされるのは、あたしのこと軽んじてるってことじゃないだろうか。ライファグ一族の館で受けたのと似たような扱いを受けそうな、嫌な予感がする。
あー、だめだってば。縁起の悪いことは考えない。前向きで強気な気分でいなきゃ。そうでないと、相手になめられて、本当にライファグ一族の館での二の舞になりかねない。
あたしが必死で自分を鼓舞していると、ようやく応接間の扉が開いた。入ってきたのは、あたしとそう年の変わらない若い女性だった。
まっすぐな黒髪を複雑な形に結い上げて、華やかな薄紅色のドレスを着ている。でも顔には笑みがなくて、不機嫌そうに見える。その割に歩き方なんかは優雅だけど。
その女性は、あたしの向かい側のソファーに座ると、自分の前に置かれているティーカップのお茶を一口飲んだ。そして少し顔をしかめて、ティーカップを置いた。一緒に入ってきた若い女性に険しい視線を向ける。
「お茶が冷めていますわ。後で、淹れた者を叱っておいてちょうだい」
「かしこまりました。今、淹れ直します」
使用人の女性がティーカップのお茶を窓から外に捨てて、新しく淹れ直している間に、黒髪の女性はあたしの方を見た。その緑の瞳には優しそうな色はない。
「わたくしが、エルオーディナ・クローですわ。あなたがわたくしに会いたいというはぐれの魔術師ね」
あたしは、はっとして背筋を伸ばした。
「そうです。リューリアといいます。今日お訪ねしたのは――」
エルオーディナさんは、あたしの言葉を遮るように手を振った。
「あなたの町の町長からの手紙を読みましたわ。瘴気の浄化方法を知りたいのでしょう?」
「は、はい。そうです」
「あいにくですけど、わたくしだってクロー一族の端くれです。一族外の者に知識をもらすことなどできませんわ」
「気が進まないのは充分承知の上です。だけど、それでもお願いします。もちろん対価は用意してあります」
あたしはテーブルの上に置いてある紙束を、エルオーディナさんの方に押しやった。
「これは、私の師匠が長年の研究の成果をまとめた物です。こちらの知識と引き換えに、どうかあなたの知識を分けてください」
エルオーディナさんの目に、苛立ったような光が宿った。
「わからない人ですわね。できない、と言っているでしょう? あなた、言葉がわかりませんの?」
「そこを何とか、お願いしたいんです。知識だけでは対価が足りないとおっしゃるなら、金貨か宝石でもお支払いいたします」
幸い、シアとヨムカム一族のおかげで懐は温かすぎるくらい温かい。よほど吹っかけられない限り、何とかなるだろう。
「他にも何か条件があれば、お聞きします」
「対価の問題ではありませんわ。これは、魔術師一族としての誇りの問題です。あなたには理解できないかもしれませんけれど……」
エルオーディナさんの言葉が、ちょっと途切れた。何かを思いついたかのような顔になる。そして、改めてあたしを観察するように眺めてきた。
「そうですわね……。でしたら、土下座して頼んでみなさいな」




