第十三章 たった一つの道(1)
バタバタと音を立てて廊下を走り、階段を駆け下りる。お客さんの邪魔にならないように宿屋部分では静かにしなきゃいけないんだけど、そんなことを気にかけている余裕はなかった。
自分がどこに向かっているのかもわからないまま、ただ走る。とにかくシアから距離を置きたくて、ひたすらに足を動かした。
「リューリア?」
聞き慣れた声に、ふっと足が緩んだ。顔を上げると、義姉さんが数歩先で驚いたようにこっちを見ていた。
住居部分の二階に続く階段の少し手前だ。どうやらあたしは、自室に向かっていたらしい。
「ルチルさんとお喋りしていたんじゃないの? そんなに急いでどうしたの?」
あたしが何も言えないまま、足を止めてただ荒い呼吸を繰り返していると、義姉さんは心配そうな顔になって歩み寄ってきた。
「何かあったの? ひどい顔しているわよ」
義姉さんの手が優しく頬に触れる。そのぬくもりに、心の中の堰が決壊した。
シアの無事を祈っていた四日間、ううん、その前、シアに失恋したと思った時からずっと心の中に溜め込んできた痛みや苦しみがあふれ出す。
「義姉さん……シアが……シアが……」
あたしは義姉さんにしがみついて泣きじゃくりながら、胸の内のものを全部吐き出すように喋り続けた。
義姉さんは、あたしの要領を得ない話を辛抱強く聞きながら、あたしを居間に誘導して椅子に座らせてくれた。隣に座って、肩をなでながら、相槌を打って、ただ耳を傾けてくれる。
「何で、シアたち一族だけが命をかけなきゃならないの? 何でシアが犠牲にならなきゃいけないの? 瘴気なんて……瘴気なんて、放っておけばいいのに!」
感情に任せて吐き捨てた言葉に、肩をさすってくれていた義姉さんの手が止まった。さっきからずっとくれていた相槌も慰めの言葉もないことに、あたしは疑問を感じて、泣きはらした目を義姉さんに向ける。
義姉さんは、物言いたげな顔でこっちを見ていた。
「義姉さん? 何……?」
義姉さんは困ったような顔で少し考えるようにしたけど、やがて、ふう、と息を吐いた。何だろう? 言いにくいことを言う時の顔をしている。
「あのね、リューリア。今のあんたとルチルさんだったら……あたしはルチルさんの味方をするわ」
思いもよらない言葉に、あたしはまじまじと義姉さんを見つめた。
「義姉さん、何言ってるの? 瘴気を浄化したら、シア死んじゃう可能性が高いんだよ?」
義姉さんは顔を曇らせて答える。
「わかってるわ。でも、ルチルさんに瘴気を浄化してもらわなかったら、また魔獣が生まれて町を襲うんでしょう?」
「それは……」
「あたしは何よりもまず先に母親なのよ、リューリア。ラピスとおなかの子には、魔獣に怯えずに安全に平和に暮らしてほしい。それをかなえるための唯一の方法がルチルさんを犠牲にすることなんだっていうなら、ルチルさんが犠牲になってくれるっていうんだったら、あたしに言えるのは『ごめんなさい。ありがとう』だけだわ」
義姉さんはため息をついて、前髪をかき上げた。
「酷いこと言ってるのはわかってる。軽蔑されても仕方ないって思う。でも、嘘をつくよりはいいと思ったから」
「…………そりゃ、あたしだって、瘴気を放置していていいなんて、本気で思ってるわけじゃないけど……」
だけど、それでもあたしはシアに死んでほしくない。シアが死ぬなんて絶対に絶対に嫌だ。
「ええ、わかってる。でも、完全に口だけってわけでもなかったでしょう?」
あたしは口をつぐんだ。
シアが死んじゃうより魔獣が襲ってくる方がましだ、って考える自分も、心の中にはいる。知らない人や顔や名前を知ってるだけの人たちが死ぬ方が、シアが死ぬよりましだ、って。それは酷い考えだけど、あたしの本音でもある。
義姉さんにはその自分勝手な考えを見抜かれているんだ。後ろめたくて、恥ずかしくて、あたしは目を伏せた。
義姉さんがあたしの手をつかんだ。リューリア、と真剣な声で呼ばれる。あたしは、おずおずと目を上げた。
「だから、お願いよ。ルチルさんを護りたいなら、ルチルさんが犠牲にならずに瘴気を浄化できる方法を見つけて」
「シアが犠牲にならずに、瘴気を浄化する方法……?」
あたしは義姉さんの言葉を繰り返した。そんな方法、あるんだろうか?
「無茶を言ってるのはわかってるわ。ルチルさんだって、そんな方法があるんなら、わざわざ好き好んで犠牲になろうとするはずないものね。――だけど、その方法を見つける以外に、ルチルさんを護れる……ルチルさんが犠牲になろうとするのを止められる道はないでしょう?」
それは多分そのとおりだ。命をかけて瘴気を浄化する、っていうシアの決意は固い。それはあたしが一番よくわかっている。
さっきの痛みがよみがえってきて、あたしは胸を押さえた。
シアの決意を変えられない自分の無力さが嫌なら、力を手に入れるために努力するしかない。そして、今できる努力はきっと、義姉さんの言うとおりの方法を見つけることしかないんだ。
「……わかった。やってみる」
正直、自分にそんな大それたことができる自信はないけど、このまま何もせずにシアが命をかけるのをただ見ているだけなんてできない。他にやれることがないなら、この道を行くしかない。
義姉さんが肩をぎゅっと抱いてくれる。
「がんばって。あたしには応援することしかできないけど、あんたがルチルさんを護る方法を見つけられるよう、心の底から願ってるわ」
「うん……がんばる」
まるで話が一段落ついたのを見計らったかのように、ティスタが居間に顔を出した。
「あ、ここにいたんですねー。そろそろお風呂屋に行かない、と……」
ティスタは、振り返ったあたしの顔を見て眉をひそめた。
「リューリア、泣いてたのー? どうしたのー?」
「えっと、ちょっと色々あってね。今はまだ頭がごちゃごちゃしててうまく話せないから、とにかくお風呂屋に行こう」
「……うん。わかったー」ティスタはうなずいてから付け加えた。「でも、あたしに何かできることがあったら、言ってねー」
「うん、ありがと」
あたしは、何とか笑みを作って立ち上がった。
義姉さんもティスタも気をつかってくれているようで、お風呂屋に向かう道のりでも、お風呂屋でも、あたしには話を振ってこない。それをいいことに、あたしは歩いたり体や髪を洗ったりしながら、頭の半分をシアを護る方法を考えることに使った。家に帰ってからも、昼食の味もわからないほど一生懸命に考える。
でも、いい方法は思いつかない。それも無理はないことだ。あたしは、瘴気に関してほとんど知らないんだから。
瘴気のことをもっと知らないといけない。瘴気に詳しい人から、話を聞かないと。あたしにわかる限り、今この町にいる人の中でその条件に当てはまるのは、二人だけだ。シアと、お師匠。
どっちも、最後に話をした時気まずい別れ方をしちゃったから、会いに行くのは気が重いけど、背に腹はかえられない。シアよりはまだお師匠の方が話しやすいかな。最後に会ってから時間が経っているし、お師匠はこういう気まずさを引きずる人じゃないし。
そう考えて、昼の営業時間が終わったら、義姉さんに断ってお師匠の家に行こうと決める。本当はお師匠の機嫌を取るためにもチバル羊のモツ煮を持っていきたいところだけど、父さんに作ってもらう時間はないから、諦める。モツ煮がなくても、お師匠は話をすることを拒んだりはしないだろうし。でも市場で何か差し入れを買っていこうかな。
考えを巡らせながら閉店後の掃除を終えて、義姉さんたちにお師匠の家に行ってくることを伝えに行こうとしていた時、家に帰るティスタと入れ替わるようにシアが食堂に顔を出した。お昼は食堂に食べに来なかったから、シアの顔を見るのは、朝シアの部屋から逃げ出して以来だ。
まともにシアの顔を見る心の準備ができていなかったあたしは、シアを見てばっと顔をそらしてしまった。
少しの間気まずい沈黙が落ちる。それから、シアが口を開いた。
「ルリ……この後、時間作れる? 瘴気の浄化について、イァルナさんと町長さんと、十の鐘に町長さんの家で話をすることになっているの。ルリも、この町の魔術師の一人として、参加してほしいのだけれど……」
ためらいがちな口調でシアが言う。
思いもよらない提案に、あたしは思わずシアの方を見ていた。シアは、あたしが視線を合わせたことが嬉しかったのか、少しほっとしたように微笑む。
その微笑みを見るのもつらくて、あたしはすぐに目を伏せてしまったけど、うなずいた。
「……わかった。義姉さんに言って、時間作る」
お師匠も来るなら、ちょうどいい。その後お師匠の家に行って、瘴気について教えてもらおう。
あたしは厨房に行って、洗い物をしている義姉さんに事情を話した。義姉さんは快く送り出してくれた。
あたしは、洗濯や針仕事を義姉さん一人にやらせてしまうせめてものお詫びとして、洗い物を手伝った。そのくらいの時間はある。
洗い物を済ませて食堂に戻ると、シアは椅子に座って待っていた。
「十の鐘だったら、そろそろ出よっか。町長さんやお師匠を待たせても申し訳ないし」
そう話しかけると、シアは微笑んだ。
「そうね。そうしましょう」




