第十二章 シアの帰還(1)
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あたしは食堂の扉を開けて、汚れた水を外に流した。水とごみの処理を終えると、家の前の通りに出て、右を見る。次に左を見て、はあ、とため息を吐き出した。
あたしが求めている姿は、今回も見当たらない。しょんぼりと肩を落として食堂内に戻ると、テーブルや椅子を整えていたティスタが顔を上げた。
「ルチルさん、まだ帰ってこないんだー?」
「うん……」
シアが歪みを探しに旅立ってから、もう四日になる。でもシアは帰ってこない。瘴気の浄化で命を落としてしまっているんじゃないか、って心配で仕方がない。
毎日お風呂屋の帰りに神殿に寄って祈りを捧げているから大丈夫だ、って信じたいけど、信じきれないでいる。神々は必ずしも祈りに応えてくれるわけじゃないから。
その不安から、なるべく高い物を供物として捧げている。供物は値段じゃなくどれだけ気持ちがこもっているかが大事だってのは、わかっているけど、他にできることがないんだもん。高い物を捧げればそれだけ神々に祈りが届きやすくなる気がして、どうしても高い物を買ってしまう。
あたしはもう一度ため息をついてから、掃除の残りを終えた。
「じゃあ、また夕方ね」
「うん、またねー」
ティスタは手を振って家に帰っていく。
ティスタがうちで働き出してからのこの四日で、大体ティスタの行動も決まってきた。朝早くうちに来る時に風呂用具一式を持ってきて、朝の営業時間が終わった後、あたしたちと一緒にお風呂屋に行く。そのまま昼食を取って働いて、昼の営業時間が終わったら一度家に帰る。そして夕食に間に合うようにまたうちに来る。
シアがいなくなっても思ったほどお客さんは減っていないので、ティスタには毎日来てもらっている。それでも忙しいけど、それはいい。忙しい方が気がまぎれるから。こうやって時間が空くと、すぐシアに関する不安に襲われちゃうし。
あたしは瑠璃の首飾りにそっと触れた。シア、無事でいて……。
この四日間で、こうやって首飾りに触れてシアの無事を祈るのが習慣になってしまった。
もう一度ため息を吐いてから、厨房に入って洗い物を手伝う。それが終わったら洗濯。
義姉さんは、気をつかってくれているんだろう、この四日間、ほとんどシアの話題を振ってこない。あたしが相槌を打つばかりであまり喋らなくても、それを指摘したりもしない。
あたしからシアの話をすれば聞いてくれるんだろうけど、正直何を言えばいいかわからない。シアのことが心配で心配でしょうがないけど、それを口にすれば不安がより一層ふくらむ気がする。
かといって、他の話題でにぎやかにお喋りする心境にもなれない。
「……義姉さん、ごめんね」
あたしは無意識のうちにそう口にしていた。義姉さんが話を切って、少し首を傾ける。
「突然どうしたの?」
「ん、あたしここのところずっと沈んでて、義姉さんに……ううん、みんなに気をつかわせちゃってるな、って思って」
「それは仕方ないわよ。ルチルさんのこと心配になって当然だし、それで気持ちが沈んじゃうのも自然なことよ。そんなこと気にしなくていいの」
義姉さんは安心させるように笑ってくれる。あたしも、小さくだったけど微笑み返した。
洗濯を終えたら、宿屋の受付に座って針仕事だ。針を動かしながらも、つい視線はちらちらと開け放してある扉から見える外の通りに向いてしまう。
そんな状態だったから、宿屋の入口に影が差したのにすぐ気づいた。誰かがゆっくり近づいてくる。
お客さんかな? 新規のお客さんなら受付が必要だけど、泊まっているお客さんが帰ってきただけかもしれない。だからそのまま針仕事を続ける。
でも近づいてきた人影がようやく入口に姿を見せて、あたしはガタッと音を立てて立ち上がった。
「シア……!」
ほ、本物だよね? 心配するあまり幻覚を見てるとかじゃないよね?
そんなことを考えながら、シアに駆け寄る。足がもつれそうになるけど、何とか転ばずにシアの元に着いた。
足元を見ながら歩いていたシアが、ゆるりと視線を上げ、あたしの姿を認めて微笑んだ。
「ルリ……ただいま」
「お、おかえり! ぶ、無事で良かった……ほんとに。すっごくすっごく心配したんだよ」
「そうなの……。それはごめんなさい」
シアは、口を開くのに多大な労力が必要なように、ゆっくりと話す。何だかすごく疲れているようだ。
シアの顔を観察して、あたしは眉をひそめた。顔色も良くない。
「シア、体調悪いの?」
「疲れているだけよ。魔力を大量に使ったから。……悪いけれど、わたし、部屋に行くわね。休みたいの」
「あ、て、手貸すよ。つかまって」
あたしは急いでシアの体を支えた。シアが微笑みかけてくれる。
「ありがとう、ルリ」
「これくらい何でもないよ」
受付机を通り過ぎる時、シアと義姉さんが挨拶を交わしている間に、あたしは机の上に置いてある手燭を取って火をつけた。
そのままシアを部屋に連れていって、寝台に寝かせる。
「シア、何か欲しい物ない? 飲み物とか食べる物とか」
シアは横になったまま、億劫そうに首を振った。
「今はいいわ。とにかく眠りたいの」
「わかった。じゃあ、ゆっくり眠って。おやすみなさい」
「おやすみ……ルリ……」
シアの言葉の最後の方はほとんど口が回っていなかった。
あたしは、もう寝息を立てているシアを、少しの間見つめた。シア、本当にここにいるんだ。無事に帰ってきてくれたんだ。
それが本当に嬉しくて、信じられなくて、涙が出そうになる。同時に、大声で喜びの歌を歌いたい気持ちにもなる。
まだシアの顔を見ていたかったけど、うっかりシアを起こしてしまわないように、あたしは未練を感じつつもシアの部屋を出た。その前に、部屋の温度を下げてシアが快適に寝られるようにしておくのは忘れない。
扉の外で、手燭を一度床に置いて、右手の平を大地に、左手の平を空に向けて、神々に感謝の祈りを捧げる。シアを無事に返してくれてありがとうございます、神様たち!
あたしは手燭を持ち上げると、はずむ足取りで廊下を歩き始めた。でもそこで、ふと思いついて足を止めて、シアの部屋の扉を振り返る。鍵はシアが持っているし、シアはあたしが部屋を出る前に眠っちゃったから、その扉には今は鍵がかかっていない。
女性が一人で寝ている部屋に鍵もかかっていない、ってのは不用心だよね。
あたしは小走りに住居部分に向かい、居間から予備の鍵を取ってきて、シアの部屋の扉を施錠した。これで大丈夫だ。誰もシアの休息を妨げたりできない。
あたしは鍵のかかった扉に触れた。間違いなく、この向こうにシアがいる。何の危険もなく、ただぐっすりと眠っている。そのことが心から嬉しい。
居間に予備の鍵を戻しに行きながら、あたしは、るんるるるんるーるららー、と口ずさんでいた。世界中にこの喜びを伝えたい気分なんだ。
踊るような足取りで居間に行き、それから宿屋の受付に戻って椅子に腰を下ろす。それでも歌は止まらないし、足も拍子を取っている。
義姉さんがくすくす笑った。
「随分上機嫌ねえ」
「だってシアが無事に戻ってきたんだよ? そりゃあ上機嫌にもなるよ!」
あたしは置きっぱなしだった繕い物に手を伸ばしかけたけど、「あ」と動きを止めた。
「あたし、ラピスにシアが……ルチルが帰ってきたこと教えてくるね!」
急いで立ち上がって庭に出る。ラピスは今兄さんと馬の世話をしているので、厩に行って声をかける。
「ラピス! ラピス!」
ラピスが馬房からひょっこりと顔を出した。
「リューリア姉ちゃん、どうしたんだ?」
「シアが……ルチルが帰ってきたの!」
その言葉に、ラピスの顔がぱあっと輝く。
「ほんとか? どこ? 俺ルチルさんに会いたい!」
「すごく疲れてるみたいで、部屋で寝てる。だから、会うのはまた後でね」
ラピスは唇を尖らせたけど、すぐにまた笑顔になって、こっちに走ってきた。
「リューリア姉ちゃん良かったな! ルチルさん無事に帰ってきて!」
あたしとラピスは手を取りあってぴょんぴょん飛び跳ねた。
「うん! あんたの言うとおりだったね。シア、約束したとおり無事で帰ってきてくれた」
じわっと涙がにじむ。でもいいんだ。これは喜びの涙だから。
「だろ? 俺わかってた!」
ラピスが得意そうに見上げてくる。あたしはその頭をぐしゃぐしゃなでてから、身をかがめて強く唇を押しつけた。
「ありがとね、ラピス。シアは無事に帰ってくるって信じててくれて。あんたが信じててくれなかったら、あたしきっともっと不安になってたよ」
ラピスは照れた様子で、えへへ、と頭をかく。
「ルチルさん、帰ってきたのか。そりゃめでたいな。ルチルさんが起きたら、町を二度も救ってくれたお礼に、何かうまい物作らねえとな」
いつの間にか馬房から出てきていた兄さんが言う。
「うん。そうしてあげて。シアはカウィナ鳥とか好きだよ」
「カウィナ鳥か。じゃあ親父に胸肉の酒煮でも作ってもらうか」
「あ、それいい。おいしそう!」
「でも今晩はさすがに無理だな。明日の朝にでも市場でカウィナ鳥の胸肉仕入れてくるか」
「それでいいと思う。シア、あの様子だと今日はゆっくり休みたいだろうし」
その中にシアがいるんだと思うと、こうやって今後の予定を立てるのがすごく楽しい。
あたしは、るんるんと厩から出て宿屋の受付に戻った。繕い物を再開しながらも、にこにこと笑顔が浮かぶのを抑えきれない。
夜の営業時間が始まっても、自然と顔が緩んでしまうのは変わらなくて、常連さんたちに、今日は随分と機嫌がいいな、と声をかけられた。
「えへへ、実はシアが……ルチルが帰ってきたんですよ」
「お、ルチルさんがか?」
「魔獣を生み出す原因を排除しに行ってたんだよね? 無事に帰ってきて良かったねえ」
「お礼を言わねえといけねえな。夕食を取りに下りてこねえのか?」
「かなり疲れてるみたいで、今は部屋で休んでます」
「そうか。じゃあ感謝を伝えるのはまた今度だな」
「はい、そうしてあげてください」
シアは結局、夜の営業時間が終わるまで食堂に下りてこなかった。あたしは後片づけをささっと終えると、義姉さんに断ってから、住居部分の台所に行って、お茶を淹れた。洗ったミジュラを四つ乗せたお皿とティーポット、コップと手燭を盆に乗せて、予備の鍵を持ってシアの部屋に向かう。
予備の鍵で扉を開けて、室内に滑り込み、様子を窺う。手燭の明かりに照らされた寝台に横たわっているシアは、熟睡しているようで、起きる気配はない。
あたしはまず上がっていた部屋の温度を下げた。それから、お皿とティーポット、コップを寝台脇の小机に置く。これはシアが夜中に目を覚ましておなかが空いていた時のための夜食用だ。部屋を見回してみたけど蝋燭は見当たらなかったので、手燭も置いておく。
シアの顔をちょっとの間見つめてから、蝋燭の火を消した。いつまでも見ていたくなっちゃうけど、長居するとそれだけシアを起こしちゃう可能性が高まるからね。シアの休息の邪魔はしたくない。
静かに部屋を出てから、扉に鍵をかけて、そっとささやく。
「また明日ね、シア」
そう言えることがどれだけかけがえのないことなのか、この四日間で嫌というほど実感したから。




