第十一章 人柱の一族(1)
あたしは急いで寝台を下りて室内履きを突っかけた。そのままもつれそうになる足を必死に動かして、自室を出る。
そうすると、ちょうど隣の部屋から兄さんが出てきたところだった。あくびをしながら、あたしに気づいて手を上げる。
「よう、早いな、リューリア。どうしたんだ?」
「ごめん、兄さん。いまちょっと急いでるの。あたし、シアと話さなきゃ!」
兄さんは戸惑ったように、ぱちぱちと瞬きをした。
「え……宿屋の方に行くのか? なら着替えてこいよ。寝巻であっちをうろつくなんて、みっともないぞ」
あたしは自分の体を見下ろした。確かに寝巻のままだ。兄さんの言うとおり、何も羽織っていない寝巻一枚の姿で家族以外に見られる所に行くなんて、年頃の女性としてはしたないことだし、こんな姿をお客さんに見られるのは商売人としても良くない。
それはわかってるけど、急いでるのに……。
あたしはためらったけど、ためらっている時間がもったいない、と判断して、身を翻して自室に戻った。服箪笥を開けて適当に服を着る。髪も手早く梳かして、とりあえず人前に出られる格好になる。
そして半ば走るように自室を出て、シアの泊まっている部屋に向かった。宿屋部分に入ってからは、お客さんを起こさないために足音を立てないように努めながら、できるだけ速足で歩く。
ようやくシアの部屋に着いて、扉を叩く。しばらく待ってみるけど、返事はない。もう一度叩いても、やっぱり応えはなかった。
少し迷ってから、住居部分に戻る。居間に置かれている箱の中からシアの部屋の予備の鍵を取り出して、ついでに手燭を一つ取って火を点して、またシアの部屋に行った。
お客さんが泊まっている部屋に勝手に、しかもお客さんが眠っている可能性が高い時に入るなんて、本当はやっちゃいけないことなんだけど、シアなら赦してくれるだろう。
鍵を開けてさっと中に滑り込んで、扉を閉める。寝台のある方向に手燭を向けて目をやるけど、寝台は空だった。
え……シアはどこ? きれいに整えられた寝台から目を離して部屋をぐるりと見回すけど、シアの姿はない。
そこで、朝早く出るから、というシアの言葉を思い出した。まさか、もう出発しちゃったの!?
強張っていた体から、すとんと力が抜ける。思わず床に座り込みそうになったけど、何とか寝台まで歩いて、そこに腰かけた。
どうしよう……。シアを止めるか、少なくとももっと詳しい話を聞こうと思っていたのに、来るのが遅すぎたんだ……。
夢の中のヨルダ父様の深刻そうな声がよみがえってきて、心臓が嫌な音を立てる。瘴気を浄化するのが本当に命がけの仕事だったら、昨夜別れた時の姿が、シアの見納めになるかもしれない。そんなの嫌だ。
じわっと涙がにじんで、手燭の蝋燭の火がぼやける。あたしは急いで首を振って、目元をぬぐった。
落ち着いて。落ち着かなきゃ。まだ、瘴気を浄化するのに命の危険が伴うって決まったわけじゃない。夢の中のレティ母様とヨルダ父様の会話が、正確だとは限らないんだから。あたしの不安が形になっただけのただの夢だったのかもしれないし、あたしが間違って憶えてるのかもしれない。
でも、どうやったらそれがわかるだろう。シアにはもう訊けないのに……。
あ、でも、そうだ。シアは朝町を出る前に携帯食を買うって言ってた。だったら、まだ店にいるかもしれない!
あたしは勢い良く立ち上がった。足早に部屋を出かけて、はた、と立ち止まる。
待って。あたしがこのままシアを追いかけたら、ラピスはどうなるの? 兄さんが起きたばかりの時間だから、ラピスはまだ眠っているだろう。叩き起こして出かける準備をさせている間に、シアが町を出てしまう可能性が高い。
かといって、ラピスを置いてあたし一人で行くのも不安だ。ラピスがたとえば悪夢を見て魔力暴走を起こして、その時あたしがいなかったら、ラピスは死んでしまう。
そんなことになったら、悔やんでも悔やみきれない。義姉さんや兄さん、父さんだって、あたしを赦してはくれないだろう。
ラピスの命とシアの命を天秤にかけて、どちらかを選ぶよう強要されているみたいな心境だ。そんなの、どっちも選べるはずがない。
あたしは唇を噛んで少し考えてから、足早に部屋を出た。時間はかかっても、ラピスを連れてシアを捜しに行くしかない。他の方法は思いつかない。
急いで住居部分に戻ってラピスの部屋に入る。どうせ寝ているだろうから、と扉は叩かなかった。
予想どおりすやすやと寝台で寝こけているラピスの体を強く揺する。
「ラピス、起きて、ラピス!」
ううーん、とラピスが不満気な声をもらした。あたしの手を振り払うようにして、寝返りを打つ。
「まだ寝るんだあ……」
「ラピスってば! いいから起きて!」
ラピスの耳元で叫びながら体を揺すり続けると、ようやくラピスが目を開けた。寝ぼけ眼であたしを見てくる。
「リューリア姉ちゃん、何だよう。まだ起きる時間じゃないだろ……?」
「いいから起きて早く着替えて! シアの非常時なの! シアの命がかかってるかもしれないの!」
ラピスが、ぽかんと口を開く。
「ルチルさんの命? 何だよそれ?」
「説明してる時間はないの! いいから早く着替えて!」
「う、うん。わかった」
ラピスはあたしの剣幕に押されるように、寝台から出て素早く着替えた。
一分一秒も惜しいので、身体強化してラピスを抱え上げて、走って大通りに向かう。旅人向けの店で一番早く開くって昨日シアに話した店を目指した。
「いらっしゃいませー」
店に入ると、店員さんに声をかけられる。
ぐるっと店内を見回すけど、シアはいない。
「すみません、今朝ここに、黒銀の髪と紫の瞳のすっごい綺麗な女性が来ませんでしたか!?」
あたしの半ば叫ぶような問いかけに、店員さんは少し戸惑いながらも答えてくれる。
「え、ええ、その方ならいらっしゃいましたよ」
「それ、いつですか!?」
「開店直後だから、半時間ほど前です」
「必要な物全部ここで買っていきましたか? 他の店に寄るようなことは言ってませんでしたか?」
「特にそのようなことはおっしゃっていませんでした。お尋ねのお客様がご要望の品は全てこの店でそろったと思いますよ」
「……そうですか。ありがとうございました」
あたしは唇を噛みしめながら店を出た。そのまま、シアに教えた他の店や屋台にも向かう。
でも、開店したばかりのそれらの店には、シアの姿がないのはもちろん、立ち寄ったという話も聞かなかった。一番最初に行った店で必要な物を全部そろえてしまったなら、もう町を出てしまっているだろう。
あたしはやっぱり間に合わなかったんだ……。
「リューリア姉ちゃん、なあ、そろそろ教えてくれよ。ルチルさんの命がかかってるってどういうこと?」
ラピスの問いに、あたしは力なく答えた。
「シアが瘴気を浄化するのに向かったのは、あんたも知ってるでしょ? それ、もしかしたら命がけのすごく危ないことかもしれないの」
「ええっ!?」
ラピスが大きく目を見開く。
「な、何だよ、それ。聞いてないよ。ルチルさん、帰ってくるって言ってたじゃないか!」
「そうだけど……あたしだってよくわかんないのよ。だからシアに訊きたかったのに……」
「ルチルさん、今からつかまえらんないのか?」
「無理だと思う。多分もう町出ちゃってるよ……」
「じゃあ……じゃあ……えっと……」
考え込んだラピスが、はっと顔を上げる。
「イァルナさんは!?」
「……お師匠?」
「イァルナさんは頭が良くて色んなこと知ってるんだろ? ルチルさんが危ないかどうかもわかるんじゃないのか?」
「そっか……その手があった」
そうだ、そうだよ! お師匠なら、瘴気を浄化するのに伴うかもしれない危険について詳しいことを知っているかもしれない。お師匠は世界の歪みとか瘴気とかそういうものに興味があるようだ、ってシアが言っていたし。
「ラピス、あったまいい!」
あたしはラピスの頭をぐしゃぐしゃとなでた。
「じゃあ、今からお師匠の家に……」
あたしの言葉を遮るように、鐘の音が聞こえてきた。二の鐘だ。いつもなら、起きる時間。起きて、朝食を取って、食堂の開店準備にかからないといけない。
「あーもう。お師匠の家に行きたかったのに!」
言ってから思い出した。今朝は町会の会合があるから、どうせお師匠とはそこで顔を合わせるんだ。会合の前や最中に話をするのは難しいだろうけど、会合の後なら何とか話を聞けるかもしれない。
シアの身に危険が迫っていないかどうか一刻も早く確かめたくてじりじりしているけど、今ここで焦っても、意味はない。
今からお師匠の家に行ったって、着く頃には、お師匠が会合に出席するために家を出る頃合いだから、どうせゆっくり話はできないだろうし。どっちみち会合が終わるまで待つことになるはずだ。
そう判断して、あたしは深呼吸をした。無理やりに自分を落ち着かせる。
「ラピス、家帰るよ」
「え、イァルナさんち行かねーのか?」
「今からお師匠の家行っても、会合で会えるまで待ってても、大して違いはないから、家帰って朝食にしよう」
ラピスは頬をふくらませる。
「リューリア姉ちゃん、ゆーちょーじゃねえか? ルチルさんが危ないかもしれないんだろ?」
「そうだけど、シアが……ルチルが危ないってわかっても、あたしたちにできることなんてないんだよ。シアが町を出てから、どっちの方に行ったかもわかんないし……」
森に入ったんだろうとは思うけど、それ以上の行き先はわからない。追いかけるのは無理だ。シアを止めることはもうできない。
だったら、一刻も早くお師匠に話を聞きたいと思うのは、単に一刻も早く不安を解消したい以上の意味はない。
……それに、お師匠と話すことで不安が解消されるかわかんないし。
もしかしたら、あたしの嫌な予感が当たっていて、シアがやろうとしていることには命の危険があるのかもしれない。もしそうだったら、知るのが怖くもある。心の準備をする時間があるのは、正直ありがたいかもしれない。
「とにかく、今あたしたちにできるのは、いつもどおりに仕事をこなすことだから、家に帰って食堂の開店準備の手伝いをするの。それから、会合に出る。わかった?」
ラピスはまだ納得しきれていないようだったけど、不承不承といった顔でうなずいた。
家に帰り着いて、宿屋の入口から中に入って食堂に行く。テーブルに座っていた義姉さんが立ち上がった。
「ラピス、リューリア! 良かった。無事だったのね」
あたしは目を瞬かせた。
「無事って何が?」
義姉さんは眉を吊り上げる。
「ラピスを起こしに行ったら部屋にいないから、驚いたのよ。リューリアもいないから多分一緒なんだろうとは思ったけど、心配したの。出かけるなら一言言ってからにしてちょうだい」
「あ……そうだね。ごめんなさい。そこまで気が回らなかった」
あたしは縮こまって謝った。朝から義姉さんたちに無断でラピスを連れ回してしまって、そりゃあ義姉さんたちは心配しただろう。
「わかればいいのよ。何か重要な用事だったの?」
「ルチルさんが危ないかもしれないんだ!」
ラピスの返答に、義姉さんは首を傾げた。
「魔獣が生まれる原因を消しに行ったから、ってこと?」
「それだけじゃないの。実は今朝夢を見たんだけど……」
話し始めたところで、朝食を持った兄さんと父さんが厨房から出てきた。食事をしながら、二人にも事情を聞いてもらう。
「それはまあ、ルチルさんを捜しに飛び出しちゃうのも仕方ないわね」
話を聞き終えた義姉さんが言った。
「確かに。心配にもなるよな。イァルナさんが何か知っているといいな」
兄さんが続ける。
「うん。お師匠も何も知らない可能性もあるんだけどね。その場合は、シアが……ルチルが帰ってくるまでやきもきしながら待つしかないんだよね……。いや、お師匠が何か知ってても、あたしの予感が当たってたら、あまり事態は変わらないんだけど……」
一番いいのは、あたしの不安がただの勘違いだ、って、お師匠が言ってくれることだ。でも楽観はできない。
「今あれこれ考えてもどうにもならないわよ。とりあえず、イァルナさんと話すまで、その心配は脇に置いておきなさい。ね?」
義姉さんが、安心させるような声音で言う。
「うん……そうだね」
完全に不安を振り払うのは無理だけど、今できることがないのは義姉さんの言うとおりだ。あたしは首を振って、食事に専念することにした。




