家族に疎んじられているそうです。私が?
夜会に出席した人々は戸惑いの表情を浮かべていた。
何故なら、伯爵家当主エミリオが婚約者ではない女性をエスコートしていたからである。
エミリオの婚約者である侯爵令嬢ロザリンドが会場内で一人佇む姿を見た時から、誰しも嫌な予感はしていた。
エミリオが他の女性に熱をあげているという噂はあまりにも有名であったからだ。
しかしまさか夜会に婚約者を放って、違う女性を伴って現れる程の愚者だとは思いもしなかった。
銀髪に碧眼、キリリとした顔立ちのエミリオは見目だけならすこぶる良いが、頭が少々、いや控えめにいってノータリンというのが世間の評判だ。
両親を事故で亡くし若くして伯爵家当主となったが、執務は先代から仕える老執事任せであり、エミリオ自身は当主の仕事を全くといっていいほどしていない。
そんなエミリオの腕に絡みつくようにしな垂れがかっているのは、ロザリンドの妹だというイーラだった。
実は随分前からエミリオとイーラは、ロザリンドの目を盗んでデートをする姿が多数目撃されていた。
婚約者同士の定期的なお茶会には、ロザリンドそっちのけで二人の世界を作っていたらしいとも噂されている。
婚約者の妹と逢瀬を重ねる不実な男と、姉の婚約者を篭絡しようとする下劣な妹。
そんな二人の愚行を世間は白い目で見ていた。
今もまた堂々と浮気を公言するように登場した二人に、会場のあちらこちらから剣呑な視線が注がれている。
イーラはそんな会場の冷たい空気を悟ったのか怯えるような仕草をすると、わざとらしいほどビクビクしながらエミリオの腕に益々しがみついた。
ちなみにちゃんとエミリオの腕に胸の膨らみがあたるようにしている辺り、イーラは相当計算高いといえる。
そんなイーラにコロッと騙され、鼻の下を伸ばしに伸ばしたエミリオはロザリンドの前までやってくると、無作法にも人差し指を突きつけ居丈高に宣言をした。
「ロザリンド、私は本日を以て貴様との婚約を破棄する!」
突然の婚約破棄に会場中が静まり返るが、エミリオは何の反応も示さないロザリンドに向かって勝ち誇ったように言い募る。
「イーラを虐める貴様は両親と兄君からも疎まれているんだろう? 侯爵夫妻と次期侯爵である兄君から嫌われているロザリンドとの婚約は破棄し、侯爵家みんなに愛されているイーラと婚約した方が、全員幸せになれる! 私達は想い合っているしな! それに私は終始マスクと長ったらしい前髪で不細工な顔を隠しているような、根暗で陰気な女と結婚するのはごめんだ!」
エミリオの言う通り、ロザリンドはいつも大きなマスクで顔を隠していた。
今日もまたマスクで表情が見えない。
だが両親と兄から疎まれていると言われた所で、少しだけ首を傾げ考えるような素振りをしたように見えた。
とはいっても群青色の前髪が長すぎて瞳は一切見えないため、ロザリンドの表情は窺い知れない。
体型に自信がないのか、着ているドレスも流行遅れで野暮ったく可愛らしさの欠片もないロザリンドは、友人はいるようだが煌びやかな高位貴族の令嬢達の中で明らかに浮いていた。
記憶を辿る限りエミリオの知るロザリンドはいつもこんな格好である。
しかも家族から信用がないのか四六時中護衛が傍で見張っている始末で、婚約者だというのにエミリオは全く手が出せなかった。尤もこんな根暗な女に食指も動かないが、というのがエミリオの言い分であるが、手が早い彼にとってロザリンドは唯一何の手出しも出来なかった令嬢なのであった。
対するロザリンドの妹だというイーラはピンクブロンドの髪をふわふわ揺らし、パッチリとした茜色の瞳をした美少女である。
ロザリンドは何を話しかけても返事が「はい」か「いいえ」だけで面白みが全くなかったが、イーラはドレスやお菓子、観劇に恋愛小説、そんなとりとめのない話を真剣に語る様子が庇護欲をそそった。
両親である侯爵夫妻に自由に育てられたせいかイーラには厳しい監視も付いておらず、既にエミリオとは身体の関係になっている。可愛いイーラは身体まで可愛かった、という下世話な会話を友人に誇らしげに語っていたので、エミリオが浮気をしているのは周知の事実であった。
ロザリンドはそんな可愛い妹に嫉妬して、イーラに陰湿な虐めを繰り返しているとエミリオは周囲によく漏らしている。
何故ならイーラはエミリオが侯爵邸に赴いた時には、いつもメイド服を着させられていたし、デートの時は侯爵令嬢であるにも関わらずいつも平民が着るようなシンプルなワンピース姿であったからだ。
イーラの話では両親や兄がいない隙を狙って、ロザリンドにドレスや宝飾品を隠されたり取り上げられたりしてしまうのだそうだ。
家族に愛される自分にロザリンドが嫉妬して、そのような嫌がらせをしてくるそうだが、エミリオはその度に強い憤りを感じていた。
それでもロザリンドは格上の侯爵家の令嬢だ。
事を荒立てるのは良くないと思い(既に浮気が周知され十分不敬をしていることなどノータリンの彼にツッコんではいけない)今までは我慢してきた。
しかし本日、泣きながらイーラが伯爵邸へやってきたことで覚悟を決めたのだ。
「お姉さまにドレスを隠されてしまってぇ、大切な夜会への参加ができないんですぅ。エミリオ様ぁ~、助けてぇ~」
上目遣い&胸の谷間を強調させ、ヒックヒックと泣き出すイーラは平民のような恰好をしていても愛らしかったが、ロザリンドの所業は到底許せるものではなく、ついに夜会での婚約破棄宣言となったわけである。
「妹を虐めるような貴様を娶る気はさらさらない! もう一度言う、お前とは婚約破棄だ!」
「婚約破棄の件、承知した」
黙ったままのロザリンドに対し、再度高らかに宣言したエミリオに答えたのはロザリンドの兄ミストルであった。
「ではロザリンドとの婚約破棄証明書とイーラとの結婚証明書にサインを」
ミストルの言葉に、いつもロザリンドの護衛をしている男が流れるように差し出した書類を見て、エミリオはパチパチと瞬きをする。
「結婚? 婚約ではなく?」
「二人は想い合っているのだろう? ならば婚約ではなく、すぐに結婚するべきかと思ったのだが?」
ニコリと微笑んだミストルに、エミリオも釣られて笑いだす。
「ふ、ふはは! ミストル殿がイーラを可愛がっているというのは本当だったのだな。やはり同じ妹でも可愛い方がいいものな」
納得するように自身の腕に絡みつく愛しいイーラへ振り向けば、イーラも満面の笑みを浮かべていた。
「ね? 言ったでしょぉ? ミストル兄様はいつだって私にだけ優しいって~」
「ああ。俺のイーラは家族に愛されているのだな」
上機嫌のままエミリオが二つの証明書へサインをすると、中身を検めた護衛が傍らで固唾を飲んで見守っていたミストルと両親である侯爵夫妻へ向き直り、証明書を翳す。
「どうぞ、ご確認ください」
侯爵夫妻は食い入るように証明書を見つめると深い溜息とともに脱力した。
「ああ、漸く婚約破棄ができた。これでやっとあの娘を放逐できるのだな」
「ええ、私がいらぬ情けをかけてしまったため随分と時間がかかってしまったわ」
安堵したように気の抜けたような夫人を侯爵が労わるように抱き寄せたのを見て、エミリオはイーラが言っていた言葉は本当だったのだと改めて痛感する。
『お姉様がマスクをつけているのはぁ~、お父様に顔を見せるなって言われているからなんですよぉ。きっと醜い顔を見たくないのね~』
『お姉様が前髪を伸ばしているのはぁ~、お母様に瞳を隠せって言われているからなんですよぉ。きっと目も合わせたくないほど嫌いなのね~』
『お姉様が流行遅れの野暮ったいドレスを着ているのはぁ~、お兄様にそうしろって言われているからなんですよぉ。きっと何を着ても似合わなくて無駄だと思っているのね~』
自分との婚約があったから嫌われ者のロザリンドでも侯爵家にいられたが、それが破棄されたのできっと侯爵家を放逐されてしまうのだろう。
そう考えると少しだけ憐れにも思えたが、イーラを虐めていた彼女を救う義理はない。
「貴様の陰気な姿を見るのも今日で終わりだ。金輪際私の前に現れるなよ!」
「そうよ、そうよ。私に意地悪をするお姉様なんて二度と会ってあげないんだからぁ〜!」
「はい」
勝ち誇ったように笑うエミリオの腕にぶら下がり、イーラも意地悪い笑顔を浮かべたが、ロザリンドはいつものように一言だけ肯定の言葉を発すると静かに退出していった。
泣くことも縋り付くこともしないロザリンドにエミリオは舌打ちしたが、これから始まるイーラとのバラ色の結婚生活を夢見て早々に彼女のことなど忘れてしまう。
だから退出してゆくロザリンドを追いかけていった護衛が、ニヤリと嗤ったことなど全く気づきもしなかった。
◇◇◇
婚約ではなく結婚証明書にサインをしたエミリオは、イーラに甘い両親と兄に勧められるまま、その日彼女を伯爵邸へ連れ帰ると、名実ともに妻として迎えた。
イーラはそのまま伯爵家に留まりエミリオの期待した二人の結婚生活は始まった。
そうして二人が甘く爛れた生活を過ごす中、イーラの実家である侯爵家で盛大な婚約披露パーティーが開かれると噂が立つ。
ずっと婚約者を決めなかったミストルがついに相手を決めたのだと騒ぐ下位貴族の友人達は、相手の女性がどんな人なのかを知りたがった。
エミリオも伯爵家ではあるが、やはり高位貴族である侯爵家は格が違う。
そんな侯爵家と伯爵家出身のエミリオがロザリンドと婚約できたのは、偏に祖父同士の仲が良かった誼で孫が出来たら結婚させようという約束があったからだ。
結局ロザリンドとは婚約破棄してしまったが、その妹のイーラと結婚したので約束は果たされ、侯爵家と縁続きになったことには違いない。
高位貴族の親戚になり恋仲である可愛い妻とも結婚できたエミリオは、友人達に羨ましがられ得意の絶頂であった。
ミストルの婚約披露パーティーでも親族席に招かれ、また羨望の眼差しで見られると思うと優越感で満たされ、イーラと共に数々の夜会や会合に出席しては自分の立場を吹聴して回っていた。
しかし待てど暮らせど、いつまで経っても侯爵家から招待状が届く気配がない。
妹であるイーラにも届いていないらしく、二人は首を傾げた。
イーラを通じて催促する手紙を送ったが返事はなく、きっと慌ただしくて失念してしまったのだろうと解釈し、勝手に出席を決めた。
当日、侯爵家へ乗り込んだエミリオは今まで出席していた下位貴族の夜会とはまるで規模が違う盛大なパーティーに、イーラと共にはしゃいでいた。
今までも侯爵家でパーティーは開かれたことがあったが、イーラは自分を嫌うロザリンドの嫌がらせで悉く出席できなかったのだと言う。
挙句、出席したいのならメイド服を着ろなどと無茶を言うのだと口を尖らせながら話すイーラに、エミリオはロザリンドに対して文句の一つでも言ってやろうと決意した。
侯爵夫妻の温情なのか、ロザリンドはまだ家から放逐されていないようで、どうせ反応は無いだろうが、言い返してこないサンドバッグと思えば日頃の鬱憤を晴らす捌け口にもなる。
このところ夜会続きで衣装や宝石を新調し過ぎたせいか、家のことを任せている老執事が、金がないから浪費を控えて欲しいと煩く言ってきていて辟易していたので、ちょうどいいと思った。
招待状がなかったため入口でひと悶着あったが、イーラは娘が実家に来て何が悪いのだと強引に押し入っていった。
エミリオは少し戸惑ったが、イーラは可愛い顔を歪ませて憤慨している。
「いくら受付をやるような下っ端の使用人に顔を見せなかったからとはいえ~、主のこともわからないなんて職務怠慢なんだからぁ、許せなぁい!」
「そ、そうだな。ミストル殿に言いつけて、あの使用人どもは後で解雇してもらおう」
何度か侯爵家へ来たことがあるエミリオは、受付をした使用人の顔に見覚えがあるような気がしたが、違和感を覚えつつもイーラに同調して頷く。
そんな二人を他の招待客が呆れたように見ていることなど、ついぞ気が付かなかった。
入口でひと悶着はあったが、会場に入ってしまった後は特段糾弾されることもなく、エミリオは安堵する。
生のオーケストラ演奏や意匠を凝らした会場、銀食器一つ、飾られた花一輪とっても、一体このパーティーを開くためどれだけの金額がかかったのかと思うほど豪勢な演出に、些細なことなど忘れてしまったというのもある。
こんなパーティーを開くことが出来る侯爵家の愛娘を妻にでき、エミリオが己が幸運を噛みしめていると、司会の合図と共に照明が暗転した。
談笑をやめた招待客が注目する中、照明が扉を照らす。
開かれた扉の中から、ミストルにエスコートされて登場した女性に会場中が釘付けになった。
艶やかな群青色の髪を靡かせ薄紫色に輝く瞳をした美しい女性は、王族でも予約待ちだという流行のドレスに身を包み、完璧なカーテシーを決めるとにっこりと微笑む。
その笑顔のあまりの美しさにエミリオも隣にいるイーラを忘れて見惚れていると、侯爵が美女の隣に立ち晴れやかに挨拶を告げた。
「ご紹介しましょう。この度第三王子殿下と婚約した私の愛する娘ロザリンドです」
侯爵の言葉にエミリオは驚愕の声をあげる。
「なっ! まさか……!」
ミストルの婚約披露だとばかり思っていたパーティーがロザリンドのものだったことにも驚いたが、それよりもあの美女がかつての婚約者だということにエミリオは衝撃を受けていた。
食い入るように美しく佇むロザリンドと呼ばれた元婚約者を見入っても、やはり、かつての根暗で陰気な姿は重ならない。
だが壇上に立つ美女の髪色は見慣れた群青色で、もしもあれが本当にロザリンドならば、と考えたエミリオはワナワナと震えだした。
前髪とマスクで隠された顔がこんなにも美しかったなんて聞いてない。
いつも着ていた野暮ったいドレスではないロザリンドの身体は美しい曲線美を描いており、洗練された美しさを余すことなく前面に出していて、誰よりも輝いていた。
兄であるミストルにロザリンドが嬉しそうに微笑むのを見て、嫉妬する。
あんな笑顔を向けられたことなどなかった。
そもそも顔など見たことがないし、どうせ醜いと興味も示さなかったのだが、それを隠していたことが卑怯であるとエミリオは考えた。
ロザリンドの容姿さえ知っていれば婚約破棄などしなかった。
そうすれば今頃彼女の隣にいたのは自分だったはずだ。
騙されたような気持ちになって、隣にいるイーラを問い詰めようとしたところで、罵る声が会場に響き渡った。
「ロザリンドが王子様と結婚するなんてありえない! 何で私の相手が伯爵家でロザリンドが王族なのよ! 交換してよ!」
叫んだのはイーラで、その表情は歪み悪鬼のようである。ついでに言えば、激高するあまり素が出たのか、いつも語尾に付けている小さい『ぁ』や『~』が抜けている。
なんだ、まともに話せんじゃん、いや内容がまともじゃないからやっぱりダメだな、という周囲のツッコミと共に、イーラの醜い表情と自分への侮辱に、ロザリンドのことを隠していたことに不信感を募らせていたエミリオも、完全に彼女に愛想を尽かした。
しかしイーラは止まらない。
腕を組んでいたエミリオを巻き込んでドカドカと侯爵家の面々の元まで来ると、大声で捲し立てた。
「お父様もお母様もいつも私に優しかったじゃない! だから私がロザリンドの婚約者を奪っても何も言わなかったんでしょう? お兄様だって……」
「お前に兄と呼ばれる筋合いはない。それにエミリオ殿との婚約は侯爵家としては本意ではなかったから、好き勝手するお前を放っておいたにすぎない」
イーラの言葉を遮ったミストルに追随し侯爵夫人が疲れたように口を開く。
「我が侯爵家に娘はロザリンド一人だけです。イーラ、貴女は使用人の子だと何度言ったら解るの? 娘ではないから侯爵家に居る時は、メイド服を着せていたのが何よりの証拠でしょう?」
「え?」
侯爵夫人の言葉にエミリオの方が反応し驚愕の表情を浮かべたが、イーラは反論する姿勢を崩さなかった。
「違うわ! お姉さまが私に無理やりメイド服を着せただけよ!」
「使用人が使用人の服を着るのは当然だろう。それなのにお前は勝手にロザリンドのドレスや宝飾品を身に着け、まるで主人のように振る舞いおって……」
イーラを睨みながら苦虫を噛み潰したように渋い顔をした侯爵が、労わるように妻の身体を支える。侯爵夫人は夫の優しさにゆっくりと頭を振ると申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「幼い貴女を残して亡くなってしまった使用人は忠義の人だったから、私達が甘やかしたのが良くなかったのね」
「だが私達は可哀想なお前を養ってはきたが親になったつもりはない。今までだって散々言ってきかせたはずなのに、どうして理解できないんだ?」
夫人と同じように疲れ気味に言葉を吐いた侯爵に、エミリオの顔から表情が抜け落ちる。
「イーラは侯爵家の娘じゃない……?」
「貴族名簿を確認すればすぐに解ることだ。エミリオ殿が我が妹である侯爵家のロザリンドと婚約破棄し、平民である使用人の娘と結婚を決めたことには大変驚いたがな」
エミリオの問いに答えたのはミストルであった。
驚いたというが平然としている様子から、ミストルが敢えてロザリンドの美しさもイーラの出自も明かさなかったことは容易に察せられる。
「ああ、勿論ロザリンドと婚約破棄したエミリオ殿と我が家はもう無縁で何の関係もない。加えて一介の使用人が嫁いだ家と縁続きになる義理など皆無である。ところで伯爵夫妻とはいえ何故、招待状を送っていない君たちがこのパーティーに参加しているのかな?」
ミストルの言葉に状況を把握した周囲の客から失笑が漏れる。
隣のイーラはまだ何か訴えていたが、こんな女を気にかけている余裕など今のエミリオにはなかった。
侮蔑と憐みと嘲笑が向けられ、その中にはエミリオの顔見知りの貴族もおり、羞恥と怒りで気づいたときには叫んでいた。
「ふざけんな! ふざけんなよ! 侯爵家の娘じゃないならこんな女と結婚なんてしなかった! しかも平民なんて話が違う! この結婚は無効だ!」
「想い合っていたんだろう? じゃあそれでいいじゃないか。相手が平民だと解ったから結婚無効など王家が認める訳ないだろう。そんなんだからロザリンドにも愛想を尽かされるんだ」
ミストルの指摘にエミリオの瞳が怪しく光る。
「そうだ、ロザリンド! 元々私の婚約者はロザリンドだったんだ。なら元に戻ればいい! ロザリンドだって私との結婚を望んでいるはずだ!」
妙案を思いついたとばかりに顔をあげたエミリオだったが、その背に絶対零度の声が降り注いだ。
「元に戻す? そんなもの認める訳がないだろう」
「無礼者! その薄汚い手を離せ!」
いつの間に現れたのかロザリンドの腰に手を回した男にエミリオが罵倒する。男の顔がよく見知った顔であったからだ。
「ロザリンドの護衛風情が主の腰を抱くなんて不敬だぞ! ロザリンド、すぐにこの不埒者をひっとらえてやるからな!」
得意気に息巻いて鼻の孔を膨らましたエミリオに、周囲の者達が凍りつく。
ロザリンドを抱いた男が着ているのが、王族しか着用が許されない浅葱色に金地の縁取りが施された礼服であったからだ。
それに先程、侯爵も挨拶でロザリンドは第三王子殿下と婚約したと言っていたではないか。
つまり彼女を抱いている人物は婚約者となった第三王子以外ありえないのである。
しかしエミリオは気が付かない。何故ならノータリンだからだ。
だが同じようにお花畑脳をしたイーラは王子の登場に気付いたようで、瞳を潤ませ猫なで声をあげた。
「はじめましてぇ。わたしぃ~、侯爵令嬢のイーラって言います~。仲良くしてくれると嬉しいです。きゃっ、言っちゃった」
性懲りもなくまだ侯爵令嬢を名乗るイーラのメンタルの強さに周囲は引き攣る。
明らかな秋波を送るイーラの科白は昔エミリオにも使ったもので、エミリオが簡単に落ちたので、イーラは今度もまた王子が自分に落ちると思っていた。
そしてイーラの想定通り、王子は柔らかな笑みを浮かべた。
「護衛風情が話しかけるな! って、言ったのは君だけど?」
「え~、そんな酷いこと言う人いるのぉ? 可哀想な王子様ぁ、イーラが慰めてあげるね~」
笑いながらも瞳に侮蔑の色を灯した王子にイーラだけが気づかない。そしてツッコまれても全く動じていない。
それが何だか不気味に感じて、王子は侯爵夫妻の方へ視線を移した。
「これはダメだ。知ってはいたが、本当に会話が成立しない」
そうなんです、とばかりに肩を落とす侯爵家の面々に対して、イーラだけは上機嫌でしゃべり続けている。
自分が両親と兄に愛され、ロザリンドに虐められていることを身振り手振りを交えて大袈裟に訴えるイーラに、王子の顔から笑みが消えた。
「せっかくの婚約パーティーをこれ以上無粋な連中に邪魔されるのは不愉快だ。伯爵夫妻にはご退場いただき、以後二度と私とロザリンドの視界に入ることがないよう注視してくれ」
王子の言葉に衛兵達が動きだし、素早くエミリオとイーラを拘束してゆく。
「え? ちょ、ちょっとやめてよ! 痛いじゃない! 私は侯爵令嬢で王子妃になるんだから! 放しなさいよ!」
「やめろ! 放せ! ロザリンドは私と結婚したいはずだ!」
抵抗し簀巻きにされてもまだ叫び続けるイーラとエミリオに向かって、それまで静観していたロザリンドがニコリと微笑み前へ出た。
「イーラ、殿下は私と婚約したので王子妃になるのは無理ですわ。いい加減、妄想に囚われていないで現実を見なさい。それにエミリオ様、貴方は仰ったではありませんか? 金輪際自分の前に現れるなと。貴方の言動にはいつも呆れておりましたが、その言葉だけは嬉しかったのに、早々に約束を違えたことに失望しております。もっとも出会った時から何の期待もしておりませんでしたけれど」
ノータリンでも一応貴族の端くれとして、暗に拒絶する言葉を吐かれたことを察したエミリオは項垂れる。
イーラはまだギャーギャーと喚いていたが会場から摘みだされ不快な声が掻き消えると、王子がロザリンドの群青色の髪を掬いながら囁いた。
「危険物も取り払ったし、追いかけて追い詰めて、やっと婚約できたから、これからはちゃんと節度ある距離を保って好きになってもらえるように努力する。ロザリンドに嫌われないように自重するから」
「節度ある距離ですか?」
「そう。人の振り見て我が振り直せ。今までは護衛と称して四六時中付き纏っていたから、ちょっと重かったかなって反省したんだ。まぁそのお陰でエミリオの魔の手からロザリンドを守ることが出来たことは重畳だったけど」
言い難そうに頬を掻いた王子に、ロザリンドがキョトンと首を傾げる。
「私は多忙な執務の合間を縫って私の傍にずっといてくださる殿下が好きですわよ? ……もうずっと一緒にいてはくださらないの?」
見上げたロザリンドの可愛さは破壊神なみの破壊力だった。その超ド級の可愛さに、さしもの王子も語彙を失う。
「え? 本当? ロザリンド? 重くない? 嫌じゃない? 私も結構話が通じないってミストルが嘆いているけど……」
「嫌でしたら婚約を受けていませんわ」
クスクスと笑うロザリンドに王子が歓喜の喚声をあげるその影で、侯爵夫妻とミストルは遠い目になった。
「ロザリンドの美しい顔を見られないように、マスクを着けさせるのは忍びなかった」
「ええ、私も。綺麗な薄紫色の瞳をいつも前髪で隠させていたのは気が引けたわ」
「野暮ったく見せるために流行遅れのドレスばかりを着せるのは可哀想だった」
そう、全てはエミリオからロザリンドを引き離すための王子の画策だったのである。
年寄りのくだらない約束のせいでノータリンな婚約者を宛てがわれた初恋の相手を手に入れるため、腹黒王子が一計を案じたのだ。
ロザリンドも他の令嬢ばかりか、侯爵家の使用人であるイーラにまで節操なく言い寄るエミリオに呆れていたので、事が全て上手く運んだのだけが幸いだった。
「ロザリンド、愛してる。早く結婚したい」
ニコニコ微笑みながらロザリンドを抱き寄せた王子は、婚約者を溺愛する男そのもので周囲の令嬢達から羨望の溜息が漏れる。
王子に抱かれるロザリンドもまた幸せそうな顔をしており、ついでに厄介払いもできたので侯爵夫妻とミストルはやっと肩の荷が下りたとお互いを労ったのだった。
◇◇◇
エミリオとイーラが簀巻きにされたまま伯爵家に戻ると老執事が「もう無理、辞めます」という涙で濡れた辞表を置いて出奔していた。
実は伯爵家はかなり前から財政が逼迫していたにも関わらず、エミリオもイーラも散財を繰り返したため、執事は我慢の限界に達し行方を眩ませたのだった。
イーラが平民だったことは貴族名簿を見ればすぐに知れた。
しかし第三王子の圧力もあり結婚無効も離婚も認められず、二人は罵り合いながら落ちぶれてゆき、やがて爵位を手放すことになったようだ。
一方、王子のストーカーを容認したロザリンドは、その心根の優しさと美しい容姿から慈愛の女神と呼ばれ、日夜溺愛してくる夫と幸せな日々を過ごした。
けれど、どうしてイーラが自分を侯爵家の娘だと勘違いしたのかということと、ロザリンドが家族に疎まれているとエミリオに思われたのかということ、その理由が未だに解らず不思議がっているという。
イーラの理由は永遠の謎だが、もう一つの理由は心当たりが大ありの夫となった王子は、その話題になる度に、ロザリンドの護衛だった時のようにただ静かに微笑むのだった。
5千文字くらいにまとめたかったのに、あれよあれよと文字数が増えてしまいました。短くまとめるのって難しいですね。
老執事は宝くじが当たって南の島でバカンスとかできていたらいいな、と思います。
ご高覧くださり、ありがとうございました。