ビターホワイト
バレンタインデーにちなんだ短編小説が書きたくなったので、書きました。
現在連載中の小説とは違う世界線のお話です。
1万字未満で完結しているので、気軽にどうぞ!
窓の外の銀世界に、思わず目を細めた。
曇天の寒空から降る無数の雪は、見慣れた風景をひたすらに白で覆い尽くす。
俺が子供だとしたら間違いなく、凍えるような空気もお構いなしにあの真っ白な世界に飛び出していたことだろう。
それがどうして、よりにもよって今日なのか……。
「やあ、だいぶ降ってるねえ」
会社の昼休み、隣の席の同僚が感心したように言った。
「帰りの電車、大丈夫かなー」
同僚は後頭部で手を組みながら、心配そうに天井を仰ぐ。
「こういう日くらい、早帰りできたらいいんだけどな」
「ホントだよ。今すぐにでも帰してくんねえかなー」
同僚はそう言いながらも、弁当の入った袋をいそいそと机に出す。
布製の、恐らくハンドメイドと思われるものだ。
言っていることと矛盾している上、明らかに普段よりも浮かれている。
少しからかってやるか。
「おやおや村田くん、随分とご機嫌じゃあないか」
俺がそう言うと、同僚の村田は肩をびくりとさせた。
「なっ、何で分かんだよ」
「顔に出てる」
「え、マジか」
慌てたように、自分の顔をぺたぺたと触っている。
結婚3年目のこいつが浮かれてる理由は、大体予想がつく。
ついに子どもができたか、あるいは、今日という日にあやかって――。
「へへっ、バレちゃしょうがないなあ……。じゃーん、今日はなんと、特別なデザートつきなのだ!」
同僚は少しおどけたように言いながら、洒落たデザインの茶色い箱を見せてきた。
やっぱりな。
商品名の下には、有名なチョコレートブランドの名前がブロック体で書かれている。
「バレンタイン、か」
俺は極力、平坦な声で言った。
「そ! 俺が家出る時、ニコニコしながら『今日は時別なオマケ付きだから楽しみにしててねー』って。その時の妻の可愛い笑顔ったらもう! そんでその後の」
その後の行ってらっしゃいのキスだの、バリエーションが豊富な愛妻弁当だのと、村田ののろけ話がしばらく続いたので、俺はしばらく聞いているふりをした。
こいつの場合は、たまに上司の前で堂々と話すのには気が引けるような内容も、平気で話すので、そばにいてひやひやする。
女性社員や上の人たちがいる時は、気まずい思いをする前に、それとなく話題を変えるようにしているが、幸い今は俺達しかいないので、特に気を付ける必要はない。
「――しかも今年は雪まで降って、まさにホワイトクリスマスならぬ、ホワイトバレンタインデーだな。バレンタイン、サイコー!」
また、来るとは思わなかった。
「……4年ぶりのだな」
俺はここでようやく、自分の昼食を取り出した。
コンビニのレジ袋から、総菜パン2つとペットボトルの緑茶。
どれも大きなこだわりはなく、目についたのを適当に選んだものだ。
手作り弁当とは違って、いずれも工場で大量生産されたうちの1つにすぎない。
「よく覚えてるな」
村田は、愛の詰まった弁当をほおばりながら言った。
「まあな」
28年前も、そうだったらしい。
俺はそう言いかけて、やめた。
「ていうか俺いつも思うんだけど、昼メシそれで足りんのか?」
「小食なんだよ」
喋りながら箸を人に向けるような、無意識に出る行儀の悪ささえなければ、こいつはもっといい奴なんだがな。
俺はそう思いながら、軽く流した。
元々は結構食べていたほうだ。
「途中で腹減っても困るし、チョコレート1個やろうか?」
「いや、いいよ。全部お前の分だろ」
俺が安易にもらっていいような代物ではない。
昼休みが終わっても結局雪は降りやまず、今後の交通機関の状況を鑑みて、任意で退社することが許された。
電車の座席に座りながら、イヤホンをさした。
プレイヤーを操作し、いつも聞いているロックバンドの曲をシャッフル再生する。
メディアの露出は少ないものの、熱狂的なファンも少なくない3ピースバンド。
4年前に死んだ恋人が、このバンドが好きと言った時は、あまりの意外さに驚いた。
――「ロックなんて聞かなそう、ってよく言われるんですよ」
そう言った彼女の笑顔が、忘れられない。
彼女と初めて会ったのは、6年前、アパートでゴミ出しをしていた時だ。
寒々とした曇天からは、今にも雪が降りそうだった。
こんなクソ寒い中仕事に行くよりも、1日中暖房の効いた部屋でゴロゴロしていたい。
そう思った時、視界の隅で何かが落ちた。
「定期券?」
それを拾い上げながらふいと顔をあげると、細身で小柄な女性が向こうへ歩いているのが見えた。
ほぼ間違いなく、彼女のものだ。
「あの、これ」
俺が声をかけると、女性はぴたりと止まり、静かに振り向く。
思わず、ドキンとした。
長い黒髪がよく似合っている。
こんなに儚げで美しい人を、今までに見たことがあっただろうか?
おそらく、ない。
彼女が長いまつげの視線を落とすと、「あっ」と、小さな唇がそっと開いた。
「あ、ありがとうございます……」
色の白い顔が、ほんのり赤らんだ。
小さくお辞儀をし、彼女は小走りで去っていった。
そんな彼女の存在は、朝が苦手な俺がちゃんと起きるための、大きなモチベーションとなった。
彼女と会った時と同じ時間にゴミ出しに行くと、狙い通り、彼女と会えた。
軽く会釈をすると、彼女が言った。
「この前はありがとうございます。本当に大事なものだったので……」
「や、たまたま目に入ったもので」
彼女の微笑みがあまりに可愛らしく、俺は少し照れながら視線を逸らした。
その後も俺達は、同じ時間、同じ場所で会うようになり、軽く挨拶をかわした。
俺がこのことを狙っているのに、彼女は恐らく気づいていただろう。
とうとう彼女は、連絡先のIDの書かれた紙を渡してきた。
「今度、一緒に食事にでも」
嬉しかったと同時に、負けた、という気持ちもあった。
その時の俺も、アプローチに出るタイミングを見計らっていたものの、なかなか行動に出られずにいた。
嬉しさと自分へのくやしさと半分ずつ。
俺はいつもそうだ。
やろう、やろうと思いながらも、なかなか一歩が踏み出せずに、結局周りが動くのを待ってしまう。
次の音楽のイントロが流れ、慌ててスキップした。
彼らの名曲のひとつとされる、『ビターホワイト』。
臆病者の『僕』が雪の日に失恋したという、少し切ない内容の曲だ。
自分たちの関係をクリアに、つまり真っ白にしたのを、降りしきる雪の白さと重ね合わせた内容だ。
このバンドの曲で、唯一聞きたくない曲。
当然曲そのものに罪はないが、聞いてしまえば、場所を弁えずうっかり涙を零してしまうだろう。
さほどメジャーなバンドでないことから、街中で流れることがないのが幸いだった。
次の曲も名曲だった。
タイトルは、『Beginning Love』。
どうしてこう、彼らでは数少ない恋愛ソングが続くのか……。
それでも、この曲は飛ばさないことにした。
初めて食事に行ったとき、彼女は自分の名前について話した。
「雪に『木のえだ』の枝と書いて、雪枝です」
彼女にピッタリだ、と俺は真っ先に感じた。
彼女が無料通話アプリに登録している名前はローマ字表記で、どんな字を書くのか、ずっと気になっていた。
「ちょうど私が生まれた日に、数年に一度レベルの雪が降ったみたいで、そこからこの名前が付けられたみたいです」
「素敵な名前だと思う」
俺が率直に言うと、雪枝はほんのり顔を赤く染めた。
「ありがとうございます」
そして、雪解けのように、優しい笑顔を浮かべた。
やはり、ムスッとした顔で「そんなことない」と否定されるよりも、こうして素直に受け止めてくれたほうが、こちら側としても嬉しいものだ。
大学院に通う彼女は1つ年下で、この地域で家族と同居しているのだという。
一人っ子の彼女は、両親に愛されながら不自由ない日々を過ごしてきたと、話した。
「誕生日がちょうどバレンタインの日で、いつも大好きなチョコレートケーキを用意してくれるんです」
雪の日のバレンタインデーに生まれたとは、なんてドラマチックなのだろう。
俺はそう思わずにはいられなかった。
「好きなんだ、チョコレートケーキ」
「ええ」
俺と同じで、嬉しくなった。
ケーキの中で何が一番好きかと言われたら、真っ先にこれを答える。
「あと誕生日と言えば、ちょっとした自慢なんですけど……」
雪枝はそう言いながら、カバンの中からあるものを取り出した。
彼女と知り合うきっかけとなった、定期券の入ったパスケースだった。
「私の好きなバンドがいるんですけど、その中で一番好きなメンバーと同じ誕生日なんですよ」
定期券の後ろから何かを引っ張り出し、俺の前に差し出した。
「この人です」
軽く前のめりになり、彼女がいつも持ち歩いているらしい、ブロマイド写真を見る。
すると、俺のよく知っているベーシストだと気づき、
「あ! 知ってる!」
と、思わず大きめの声で言った。
「え、え、嘘!」
「ほんと、ほんと!」
雪枝は口元を抑えながら、興奮気味にこう言った。
「このバンドについて周りの人に話すんですけど、誰も知らなくて……! え、知ってるんですか?」
「うんうん、ライブも何回も言ってるよー」
「本当に!」
一見大人しくて感情を見せなそうな彼女の、意外な一面を見たような気がした。
「ロックなんて聞かなそう、ってよく言われるんですよ」
「正直、俺も意外だったよ」
これがきっかけで、彼女との距離が一気に縮まったのが分かった。
ずっとこうして、2人で笑っていたかった。
「今度ライブやるとき、ぜひ一緒に行きません?」
「ああ、もちろん」
その後も何度かデートに行き、俺たちの交際が始まった。
付き合いたいと言い出したのも、俺ではなくて彼女だった。
ちょうど曲が終わると同時に、最寄の桂比駅に着いた。
百貨店の食品コーナーに立ち寄り、チョコレート菓子を見る。
あちらこちらで店員が呼び込みをし、平日の昼過ぎにも拘わらず、客で賑わっている。
やはり渡したい相手がいるのか、女性客が圧倒的に多い。
今年も何か、気になる物があったら買うか。
……いや、今年はやめよう。
結局後悔することになるなら、最初から手に入れないほうがましだ。
店を出て、駐輪場に停めてあった自転車を取りに行った。
この一帯は道が平坦なので、自転車移動にはもってこいだ。
その分、自転車を漕がずに引いて歩くとなると、途端に家が遠く感じる。
大雪に身を晒しながら自転車を引く自分の姿が、あまりに滑稽に感じられ、無性に悲しくなった。
誰か、自転車ごとアパートまで運んでくれないかな……。
なんてことすら、考えてしまう。
家に着いた途端、疲れがどっと現れ、ベッドの上で倒れこむように眠ってしまった。
そして俺はまた、何度も見てきた夢の中で、後悔と罪悪感に苦しむことになる。
*******
――まーくん、どうして?
実際彼女がそう言ったのではなく、俺が勝手に思っていただけだ。
けど、上目遣いで非難するような視線を向けてくる彼女は、そう思っているに違いない。
怖い。
大好きだったはずの雪枝が、怖い。
色白で透明感のある雪枝が、自分を祟ってくる亡霊にすら見えてくる。
優しい笑顔が可愛い雪枝は、もう俺には笑いかけてくれない。
雪枝。
俺は心の中で、その名前を呼ぶことしかできない。
今の俺には、彼女の手を握ることも、そっと唇を重ねることも許されていない。
――どうして私だけ死ななきゃいけないの?
きっと彼女はそう思っている。
俺には何も答えられない。
どうしようもできない。
雪枝は、俺とのデートに向かう途中で死んだ。
彼女の誕生日祝いに食事に行く約束だったが、仕事があるからと、会社のある2つ隣の駅まで来てくれ、と頼んだ。
雪で視界が悪い中、駅まで運転している途中で、彼女は事故に巻き込まれた。
ある意味で、彼女は俺に殺されたようなものだ。
俺があんなことを言いさえしなければ。
せめて彼女の誕生日くらい、気を利かせて、彼女を迎えに行っていれば……。
もしそれができていれば、きっと彼女は、今も生きていた。
だけど、今さら……。
――今さらどうしようもできねえよ‼
夢とうつつの境で叫び、俺は目を覚ました。
きっと今の言葉は、どちらの世界にも反映されていない。
時計をちらりと見る。
1時間ほど眠ってしまったらしい。
「また、この夢か」
俺はこうして数えきれないほど、同じ内容の夢で同じ気持ちを繰り替えしている。
不味い料理を、無理やり食わされた後のような気分になる。
だが、俺は薄々気づいていた。
この、一種の呪いめいた夢を断ち切らなければいけないことに。
そして、それを実行するために取るべき行動が何なのか、ということも。
それでも、長すぎた空白と向き合うのが怖い。
一歩が踏み出せずに、それをずるずると引き摺ってしまったために空けてしまった時間。
つくづく、自分のこういうところが嫌になる。
この日がやってくる度に、雪枝のためにチョコレート菓子を買っては、彼女の眠る場所に行くのをためらい、結局自分で消費してしまう。
彼女が死んでから、一度も会いに行っていない。
華やかな模様の箱をゴミ箱に捨てる度に、激しく後悔する。
また、果たせなかった、と。
何をする気にもなれず、ベッドにへたれこんでいると、携帯電話が鳴った。
画面を見ると、同僚の村田からだった。
「俺だけど、どうかしたのか」
すると村田は明らかに舞い上がった声で、こう答えた。
「いやあ、珍しく早帰りになったから、お前はどうしてるかなって。ちょっと気になったんだよ」
「なんもしてないよ。お前は暇な大学生か」
「いいじゃんたまには。……雪枝さんの供養、ちゃんとしてるか?」
一瞬、何の話か分からなかった。
「聞いてんのか。確かこれくらいの時期だったんだろ?」
「ああ、ちゃんとしてるよ」
と、咄嗟に嘘をついた。
そういえば、村田の前では、早い段階で立ち直ったふりをしていた。
いつまでも後悔しているところを、弱い部分を見せたくなかったからだ。
「なら良かったよ。お前、あまり多くを語らないタイプだからさ、周りが気付いてないだけで、たまに落ち込んだりしてんじゃないかって、心配なんだよ」
心配? お前が?
「何だよー、本当に心配なんだってば。俺、あまり考えずに喋っちゃうから、言ってから後悔することもたまにあるんだよ。例えば、今日の昼メシの事とかさ」
思えば、お前があまり食わなくなったのも、あの頃からだったもんな。
村田がそういったので、俺は「ああ」とも「いや」ともつかない曖昧な返事をした。
「あと、俺ののろけ話も実は嫌なんじゃないかって、たまに思うんだよ。だからもし気にしてたら、ここで謝るよ。ごめんな」
こう見えて、ちゃんと考える時は考えるようだ。
彼ののろけ話はやめてほしくはなかったが、ここで無難に「全然気にしていない」と返すのは、少し違う気がした。
「軽はずみなところと行儀の悪いところ以外は、お前はいい奴だ」
よし、言った。
「なっ、何だよそれー!」
「恐らく職場の人間の大多数はそう思ってる」
そう言いながら、俺の中で何かがカチャリと動くのを感じた。
普段はお調子者の村田が、こうしてちゃんと謝ってくれるのなら、俺だって、もう少し本音を話してもいいんじゃないか?
俺を勇気づけるための何かを、こいつから貰ってもいいんじゃないか?
「俺もまだまだだなー。じゃ、そろそろ切るぞ」
「待ってくれ、村田」
考えるより先に、引き留めていた。
「なんだよ、どうしたんだ急に」
「相談と言うか、俺から少し話したいことがある」
「なんだよ藪から棒に。言ってみろ」
かといって、今抱えていることをそのまま話すのも気が引ける。
「例えば、あくまで例えばの話だ。自分の過失で、深く傷つけてしまった相手がいたとする。それで、謝ろうにも、どうしても足がすくんで、なかなかその一歩が踏み出せないんだ。直接会いに行くのはおろか、謝罪のメッセージすらも、指が震えて上手く打てない」
村田は口を挟まず、黙ったままだ。
俺は続ける。
「そんな日を延々と繰り返し、とうとう夢にまで出てくるようになった。どう責任取ってくれるんだ、お前のせいでめちゃくちゃだ、と、そいつに責められる夢だ。
いい加減自分の気持ちをハッキリ表そうにも、時間を空けすぎたせいで、余計に怖くなってるんだ。かといって、このまま一生の重荷にはしたくない。けど、思い切って踏み込んで、今さら遅い、と拒絶されるのが怖い……」
もしお前がその立場だったら、どうする?
と、俺は問いかけた。
「……お前、嘘つくのヘタだな」
村田はからかうように言った。
「だから、『例えば』って……」
「嘘つけ。『例えば』にしちゃああまりにもリアルだったよ。内容も、お前の話し方も」
もう誤魔化しは効かなかった。
「俺だったら、ちゃんと謝るよ。できればメッセージとかじゃなく、そいつに直接会いに行ってな。だって、拒絶されるとは限らないだろ?」
村田の声は、いつになく真面目だった。
「まあ、俺が言いたいこと何でも言っちまう性分ってのもあるけどさ。……もしかしたら、拒絶するどころか、お前のこと、ずっと待ち続けてるかもしれないだろ?」
待ち続けてる?
「まさか」
「そんなはずはないってか? 俺からすれば、とっとと会いに行けって感じだ。お前を何年も待ち続けてる、そいつのところにな」
村田の言葉がここまで胸に響いたことが、今まであっただろうか?
恐らく、ない。
「……だといいんだがな」
「とりあえず、会いに行けって。万が一、思うような答えじゃなくても、ずっと抱えたままでいるよりかはずっとマシだろ?」
恐らく、今やらなければ、一生あの夢にうなされることになるだろう。
意志は固まった。
「……おかげでスッキリしたよ」
ありがとう。
俺は、素直にそう言った。
「なんか、お前に直接礼を言われるの、初めてな気がするよ」
「そんなことはないだろ」
「いや、多分あるね」
「またまた……」
会話に区切りがつき、別れの挨拶をした。
同僚の――否、友人の村田との通話を終え、俺は立ち上がった。
まだ、雪は降っている。
傘をさし、路面で滑らないよう気を付けながら、また桂比駅へと向かった。
学校帰りの小学生たちが、雪の塊を投げ合いながらはしゃいでいる。
きっと彼らはまだ、誰かと恋をすることも、それを失う悲しみも知らずにいるのだろう。
百貨店に付き、傘にかかった雪を振り落としてから、1階に下った。
店の賑わいようは先ほどと変わらない。
バレンタイン向けのチョコレート菓子を見て回ると、ひとつ、心をぐっと掴まれたものがあった。
「『ビター&ホワイト』……?」
ビターとホワイト、両方の味が半分ずつ入った、1枚のタブレット型のチョコレート。
1枚で2つの味が楽しめる仕様になっている。
愛想のいい店員が、そう説明してくれた。
この商品名を考えた人は、恐らく、あの曲のことは知らない。
偶然、似たような名前になっただけなのだろう。
「いかがですかー?」
「じゃあ、3枚入りのを」
「おひとつでよろしいですか?」
反射的に「はい」と言いそうになったのを、ぐっとこらえた。
「あ、2つで」
「はい、かしこまりました!」
店員の手際のいい包装に感心しつつも、財布を用意する。
少し高い買い物になったが、今日はそんな事は気にしない。
「ありがとうございました!」
紙袋を受け取り、あの場所へ向かった。
既に陽が傾きはじめている。
先ほどよりも、雪が強まっている気がする。
きっと雪枝が、俺が来るのに気づいてくれたのだろう。
思えば、夢の中の雪枝も、彼女が死んだ日のことを非難していたのではなく、あれからずっと会いに来なかったことに対する不満を訴えていたのかもしれない。
俺が勝手に、自分を責めていただけだ。
逸る気持ちを抑えながら、紙袋に雪が入らないよう、傘の中に隠す。
待ってろ、雪枝。
もうすぐ着くぞ。
今まで会いに行かなくて、本当にごめんよ――。
*******
次に会った彼女は、笑っていた。
「まーくん、やっと会いに来てくれたね」
艶やかな黒髪と、白いスカートの裾がそっと揺れた。
「今まで、本当に悪かったよ」
「もう、謝らなくていいってば」
雪枝はそっと近づき、俺の両手を包み込んだ。
「まーくんがくれたチョコ、嬉しかったよ。あれ大好きなんだ!」
ビター&ホワイト。
とびきり甘くて少しほろ苦い、2つの側面を持った1枚のチョコレート。
「あの曲の名前と似てるなって思って買ってみたら、すごく美味しくて」
「俺も商品名見て、これしかないなって思ったよ」
「さすが、まーくん」
あの頃のように、俺達はまた笑い合った。
叶うならば、すっとこうしていたい。
だけど、それはできない。
きっとこれが、最後の時だ。
――「私、まーくんがずっとずっと幸せでいられるよう、祈ってるからね。
生まれ変わっても、きっと、まーくんのこと覚えてるよ」
そして、いつか会いに行けたらいいな。
雪枝は微笑みながらそう言った。
「ああ、ずっと待ってるよ」
雪枝と俺はしばらく見つめ合い、最後の抱擁を、そして最後のキスをした。
甘く、優しく、少しほろ苦い味がした。
惜しみつつも身体を離すと、雪枝は一筋の涙を流していた。
「絶対に、会いに行くからね」
雪枝の身体が、少しずつ透明になってゆく。
きっとどこかで、また会える。
「またね、まーくん」
「ああ、またな」
雪枝の姿が完全に消えた。
しばらく呆然と立ち尽くしていると、遠くから、目覚まし時計の音が聞こえた。
窓から差し込む朝日が眩しい。
きっと、雪は今日中には全て溶けるだろう。
涙に濡れた枕も、きっとすぐに乾く。
朝一番に聴く音楽は、もう決まっている。
俺と雪枝を繋げ、そしてこれからも思い出させてくれるであろう、あの音楽。
久しぶりの、雲一つない晴天。
眩しい朝日に目を細め、音楽プレイヤーのイヤホンをさした。