26th pinch 誰がための蛮行
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始まりは、いつからだっただろう?
思い出せる最初の記憶は、闘技場の地下深く。暗く淀んだ空気が充満する独房の中だった。
そして時折、闘技場の方向から聞こえてくる、大人たちの怒声と悲鳴。
その中で、自分の無力さと不運さを呪いながら、ただただ震えながら涙を堪えて必死に願っていた。
〝次は自分ではありませんように〞。
〝もう――〞。
……ただ、そう願っていただけだったのに。
「……」
盲いた彼女は、その虚ろな瞳を開く。
今日は、夜空に輝く〈女神の耳飾り〉が満ちる日。
そして自分が外に出ることを許される日でもあり、出なければならない日――〈角狩り〉の日でもあった。
夜も更けてきた頃。
部屋の扉が開かれ、数人の衛兵を連れた役人が無機質な声で告げる。
「時間だ。来い」
「……はい」
抗えぬまま衛兵の間に並び、その後に続いて皇宮の最奥にある神殿へと向かった。
この国で神殿と呼ばれている石造りの建物には、その祭壇の奥に地下へ続く階段がある。
それを降りると、その場所は存在した。
地下闘技場。
かつて帝国が栄華を極めた時代に武勇を競いあったというその場所は、今では完全な魔族の管理場と化していた。
「……」
競技場の中央には、兵士たちに囲まれた数人の男が座っている。
彼らは皆一様に憔悴しきっていて、弱々しい呼吸をしながら虚ろな眼差しをそれぞれ地や宙へ向けていた。
もう、彼らも限界なのだ。
けれど。
「――やれ」
無機質で無慈悲な役人の冷たい声が響く。
そして額の額飾りに役人の手らしきものが触れたかと思うと、重いそれが木の葉が落ちるようにハラリと地面に落ちた。
「……」
無言のまま、中央に集められた一人の男に近づいていく。
その疲れ果てた色を映す瞳に、彼女の姿が映り込んだ。
その瞬間、彼の瞳が湛える感情の色が変わる。
「いっ、嫌だっ! 止めてくれっ!!」
それまでなんの言葉も発さなかった男が突然、首を横に振り、彼女から逃げようともがいた。
しかし抵抗虚しく、男はその場にいた兵士二人によって組伏せられ、その動きを封じられてしまう。
「もっ、もう、俺は無理だ! もう、生えてこない!! 誰か、誰か、俺を殺してくれっ!!」
「……」
悲痛な叫びは、虚しく独房の宙に消えていくだけだった。
彼の周りにいた他の男たちも、状況を理解しているからか誰しもが目をつむり、視線を背けた。
「なあ!? あんたも、止めてくれよ……ぉ! 俺は、もう……っ、死にたいんだ――!」
「……っ」
身を捩って必死に衛兵の手から逃れようとしている男の姿。
けれど。
(私がやらなきゃ、ゼイルが……)
ここで彼女が彼を治さなければ、彼はゼイルに処分されてしまう。
〈角狩り〉の役目をゼイルが背負っている以上、角を回収できない魔族は用済みの代償として〈魔石〉にされる道しか残されていないのだ。
もしそうなれば、〝死にたい〞という目の前の男の要望は叶えられるだろう。
けれど、彼女にはそれが出来なかった。
否。ゼイルには、もう誰も殺させたくなかった。
そう決めたのは、かつて頑なに治療を拒否した魔族たち十数人を彼がすべて一人で処分したという話を知った時。
そして殺された同族の生命を使って造られた〈魔石〉が、今彼女が着けている額飾りに填められていると知った時でもあった。
同じあの地下牢で家族以上に辛い時を過ごしたゼイルは、生まれつき角が生えていないという理由だけで、魔族を殺す魔族として帝国に育てられた。
だから。
もうこれ以上、彼の手を同族の血で汚させはしない。
同族殺しの咎を、彼一人に背負わせはしない。
例え、目の前の同族たちから恨まれることになったとしても、彼女には治療を行わない、という選択肢はなくなっていた。
自分一人だけが逃げることは、絶対に赦されない。
レーネはゆっくりと、前に出る。
これから彼を視るのは、盲いた自分の瞳ではない〈第三の眼〉だ。
そして、そっと心の中で言葉を唱える。
(〝癒しを〞……)
すると、額がまるで〈神の左目〉に焼かれたかように熱を帯びだした。
〈第三の眼〉を通して見える視界は、すべてが無機質な灰色で塗られたように渇いて映っている。
その中で、兵士に組伏せられながらも、必死に身を捩って抵抗する男性の姿を捕らえた。
「うっ……あぁぁあ……っ」
苦悶の声がその場に響き続ける。
男はそれまでの弱々しさから一点し、兵士たちの拘束を振りきった……かと思うと、途端に頭を抱えてその場にうずくまった。
やがて大人しくなった彼を、兵士が闘技場の奥の独房へと二人がかりで連れていく。
手が放された彼の頭には、角が生えていた。
正確には、切られていた角の断面が綺麗に閉じていたのだ。
「あぁああ……っ」
同様のことを、その場にいた他の男たちもに行っていく。
皆一様に抵抗する姿勢を見せたが、それでも虚しく兵士たちに捕らえられ、同じ道を辿っていった。
「……よし。今月は以上だ」
役人が無機質な声でそう告げたかと思うと、額に額飾りが再び付けられる。
額の熱は、頭痛に似た痛みを伴いながら、ゆっくりと引いていた。
そしてレーネは帰路に着く。
こうやってまた、自分は罪を重ねるのだ。
同族殺しの代償として、いつかこの身が裁かれる時が来たとしても、これは自分の決めた道。
(ゼイル……)
誰もいない部屋に戻り、先ほどの競技場での気配を思い出した。
今日は〈角狩り〉の日だから、ゼイルもあの闘技場にいたはず。
しかし額飾りを外して確認しても、場内のどこにも彼の姿は見当たらなかった。
「……」
昼間、勝手に聖女エルシーリアと取引したことを思い出す。
ゼイルは反対したけれど、あの人たちを頼る他に、もう道はない。
例え罪を償う覚悟があったとしても、かつて同じ独房にいた同族の苦痛に歪む顔や声を聞くのは辛かった。
矛盾ばかりだ。
助けたいのに、追い詰めている。
癒したいのに、苦しめている。
力になりたいのに、枷になっている。
勝手な願いだ。
さんざん同胞を傷つけて、治療して、また傷つけての繰り返し。
(……違う)
彼らの角を再び採るためだけに傷口を再生する。
これは、ただの蛮行だ。
こんなの〝治療〞なんかじゃない。
私のやっていることは、人殺しとなんらかわらない。
生命ではなく、精神を殺しているのだ。
(私は、ただ……)
〝もう、誰かが苦しむところなんて見たくない〞。
そう……ただ、願っていただけだったのに。




