第四章 思い出
厳密な「始まり」というのは誰にもわからない。
ただ、そうだとわかったのは、中学の頃だった。沙織は、いじめの被害者だった。朝から夕方まで人の目線に怯えていた。春から、冬まで地獄のような寒さに突き刺された。それでもめげずに明るい高校生活を夢見て、勉学に励んだ。しかし、皮肉にもその姿こそが、いじめの本質的な原因でもあった。
ある雨の日。放課後、図書室の隅で彼女の愛読書がビリビリに破かされ、悪口や暴言を数人の生徒が沙織に対して吐いていた。彼女は無抵抗にもそれを聞いているだけだった。
ガラリとドアが開いた。
「誰もいないのか」
本の返しに来た人だろうか。沙織は、絶望した――。
「そんなわけないじゃん。何やってんだよ」
すぐ近くで声がした。太陽を直視したように、沙織は両手で顔を覆っていた。数秒と
沙織には感じられた。両手を下ろすと、沙織の前には少年らの姿は見えなかった。ただ、目の前にいる男の子が背中を見せているだけだった。
何が起きたのか、よくわからず、しかし助けてくれたことだけはわかっていた。お礼を言わなくては。彼女は勇気を振り絞って一言、言った。
「あの……ありがとう、ございます」
彼は、振り返ると、やさしく笑った。
「明日から、安心して学校に来れるよ」
そう言い残すと彼もすぐに図書室から消えてしまった。
翌日から、彼の言葉通り何も起こらなくなった。上履きも隠されず、階段でスカートもめくられず、教科書も破られない。教室に入ると話したこともない子からあいさつをされる。机の中を見ると、昨日バラバラになったはずの愛読書が入っていた。彼に、改めてお礼を言わなくてはいけない。
しかし、一向に彼は見つからず、数日後に彼を見かけたとき、彼の腕には痣があった。いじめっ子に報復をされているのだろうか。
「あ、あの、この前の」
痣を制服で隠すと、
「気にするなって」
と、あの時と同じように笑った。上履きに書かれていた名前から、ようやく自分の口で彼の名前が言えるようになった。
「翔くん、か」
けれども、それ以来、彼とは校内では会わず、またいじめのうわさも聞かない。
きっと、また彼のようなヒーローが彼を救ったのだと信じたい。
しかし、同時に人は安全なところから弱い人を保護することしかできないのだろう、そう思うと悲しくも悔しくもあった。もし、自分が愛されていたならたとえ自分が弱くても強くても守り合える人がそばにいるはず。
卒業式の日に、ようやく彼を見つめた。
「あ、翔君」
桜の木の下で最後のお礼を言う。今の気持ちが恋なのかもしれないと思うと、余計に別れがつらくなる。
「少し、お話していこう? お礼も言いたいし」
沙織の気持ちを汲み取りながら、翔は照れ臭そうに「少しだけな」とつぶやいた。
話しているうちにどうやら同じ高校に行くことが分かった。最後だと思っていた自分が滑稽に思えた。
「高校では、うまくやれるかな」
「そうだな」
「私は、弱くないとみんなに守られないんだな。もっと、愛されたいよ」
彼は桃色の風景を見つめながら
「それなら、いっそ、自分の傷を見せればいいんだ。心の傷は見えないけどさ」
「じゃあ、一つ、お願いを聞いてもらっていい?」
桜の木の下で二人は残酷な約束を交わした。
心の弱さが見えないならば、それで自分が守られないなら、人に愛されず愛を知らずに生きていくことになるならば、体でそれを示せばいい。
一人を守るヒーローというのは決して包容のみがすべてではないことを、腕の傷が教えてくれた。




