序章
この白稲荷神社にはいくつかの伝承がある。
……昔、この土地納めていた大妖怪白狐が人間と恋に落ちなんでも妖怪から神格になるために修行を積んでこの白稲荷神社の神使となったらしい。
何故、白狐が神使になったのか?
それは惚れた人間の少女にこう言われたからだ。
「悪行ばかりして偉ぶっているのなんてただの悪餓鬼よ。良いことをして徳を積めばあなたの愛に応えよう」
「……ほぅ? 言ったな、人間の娘。ならばそなたの愛を得るため我は妖怪から神使になるために修行を積もうぞ。…… 約束忘るなよ」
白狐は少女との約束のため、徳を積み、人々から崇められるようになり信仰を集めた。信仰を集めた結果、人間が白狐のために建てた神社に住むようになった。
それを聞きつけた彼女は白狐の求愛を受け入れ仲睦まじく暮らすようになった。
というのが先祖代々に伝わる昔話。
私の名前は白上鈴音。白稲荷神社の巫女候補であり、白狐の血を色濃く継いだせいで尻尾と狐耳が生えている半妖と呼ばれる存在だ。私の前の世代は白狐の血が薄く誰も狐の姿ではなく人間として生まれている。狐の姿で生まれた私は前代未聞であり異例の措置として本殿に拘束され過ごしてきた。……それもそのはず。このまま人の世に出たら私は間違いなく人間の見世物となって殺されるだろう。人の世を勉強して自然とその摂理が分かった。お母さんはいつも心苦しそうに私の頭を撫でてくれるけど私のためにとった行動なのだと理解している。だから、お母さんと1つ約束した事がある。それは私が人間に上手く化けれるようになったらこの神社の外に出ていいという約束。
神社から離れる事は出来なかったが、退屈ではなかった。この神社には黒い狐がいる。
その黒い子狐は私が物心ついた時からいた。お母さんにあの黒い狐はなにと指を指して聞いて見たら首を傾げそこに何かいるの? と返され、その狐は私にしか見えていないのだと気付いた。お母さんは私と違って普通の人間だからこの世ならざるものを認識する力がないのだろう。ならば、あの狐はこの世ならざるもの、妖怪と呼ばれる類のもの。黒い狐はいつも私の様子を伺うように物陰から見ていた。私はこっちにおいでと手を振るが黒い狐は見ていることに気づかれると逃げてしまう。交流を図りたいのに何年も追いかけっこして未だ話も出来てない。
15歳の誕生日にようやく私は少ない妖力で1ヶ月の間、人に化ける力が持続出来るようになった。
「お母さん」
お母さんはなにも言わず私を抱きしめた。約束どおり外に出ていいとお母さんは言った。私は勉強の一環として何冊もの小説を読み、学校生活というものに憧れていた。私はお母さんに学校に行きたいと言ったら「それなら受験をしなければならないわね。鈴音の好きなようにしていいのよ」と優しく頭を撫でてくれた。神社からあまり離れるのは良くないから近くの高校に通うことにした。そこにはお母さんの知り合いがいるため受験で出身中学についての質問はされずに済みなんとか合格する事ができた。合格発表を確認した私はすぐに家に帰った。これでお母さんは思い残すことはないはず。境内の本殿に向かう前に蔵から神刀水龍を取り出し左手で鞘を持ち右手で柄を握った。
「……覚悟、しなきゃ」
一度、その刀が錆びてないか抜いて確認する。とある名人が打った神刀水龍は刃こぼれしておらず斬れ味には問題がなさそうだった。刀を強く握り、自分に大丈夫だと言い聞かせ本殿に向かった。
「お母さん」
「……」
本殿の前にお母さんは立っていた。呼びかけには答えず、本殿を見つめる。……迷うな、迷ったら……お母さんが旅立てなくなる。気づかれないようにそっと鞘から刀を抜き構える。
「お母さん、私、長時間継続して人間に化けられるようになったよ。高校にも合格したしもう大丈夫だから」
「……」
「安心して黄泉の国に逝って。……白上鈴音、いざ参る」
躊躇うな。
私は刀を振り下ろし、お母さんの背中に突き刺した。肉を切り裂いた感覚はない。
「心配かけてごめんね……」
いつの間にか私の両目に涙が溜まっていた。零れ落ち、地面を濡らす。
「鈴音、大きくなっわね……もう私がいなくても大丈夫」
その声音は優しかった。お母さんの足のつま先から徐々に徐々に光の粒になって消えていく。お母さんは決して私の方を振り返らず、消えて逝った。
「……コーン……」
黒い狐が本殿の裏から出てくる。今の光景を見ていたのだろう。私がどんなに追いかけても捕まらなかった狐が私の前に現れた。
「コーン……」
狐が鳴くと煙がたち一瞬だけ姿が見えなくなる。煙が収まると私と同じような狐の耳と尻尾がある人間の姿に近い少年が白衣と袴を身にまとってそこに立っていた。
「……初めまして」
狐の少年はぺこりと頭を下げる。
「なるほど……あなたはお母さんを怖がって私に近づかなかったのね」
「……はい。僕の力ではあの人に喰われるだけなので」
「ごめんね。お母さんのあの姿、怖かったよね」
「……死者を悪くは言いたくないのですが、あのような姿でも一緒にいられるあなたが怖かったのです」
「うん、そうだね。私もどうかしてるって思ってた。斬ろうと思えばいつでも斬れた。でもそうしなかったのは……あんなに醜い姿になってでも私のことを気にかけてくれるから。お母さんに思い残すことがないように成仏して欲しいって……そう、思ったから」
狐は申し訳なさそうな顔をして俯く。私はその頭を優しく撫で抱きしめる。
「お母さんとは違ってあったかいね……ごめん、少しこのまま抱きしめていいかな?」
「……今だけは強がらなくていいです」
狐を抱きしめたその腕は震えていたと思う。
お母さんは冷たかった。私が物心ついた時にはもう既に死んでいた。死因は知らないがお母さんのあの姿から"何かに押し潰されて死んだ"と簡単に推測できた。私は妖怪の血が強く、人間の食べ物を食べなくても生きられる作りでありここで生活するにはなにも問題はなかった。私はこの神社に災いをもたらす悪霊を食べ、今まで生きてきた。それが間違いだと気づいたのはお母さんが生前に買っていた書物に家族と食事する風景が書かれたものがあった。母親が作った料理を家族みんなで机をかこんで食べる。それが"普通"なのだと理解したのは10歳の時だった。
お母さんが指摘しなかったのは自分にはできないことだと理解していて私に何も言えなかったのだろう。
家族は暖かいものだと知った。
料理は美味しいものだと知った。
外の世界を知った。
「巫女、白上鈴音。あなたは本当の意味で白稲荷神社の巫女になりました。これからあなたは自由です」
「……あなたはこの神社に祀られている神使なの?」
「はい。……人々の信仰は薄れ僕の力はとても弱体化しておりますけど、僕がこの神社の神使です」
伝説では白い狐が神使となってこの神社に祀られているはず。だけど目の前にいる黒い狐は嘘を言ってるようには見えない。巫女も変わるようにもしかしたら神使もー…?
抱きしめて腕をほどき、目の前の信仰の対象に跪いて頭を下げた。
「あなたさまの名前は?」
「今更態度を改めなくて大丈夫です。僕はまだ奉られるほどの偉業を成していないです。僕の名前はあなたが決めてください。それが契りとなり僕とあなたを結ぶ楔となる」
「い、いきなりそう言われても」
顔を上げ、黒い狐の顔を見つめた。優しい笑顔で私を見ていた。
「……く、クロ」
我ながら安直な考えだと思う。黒い狐だからクロって……。
「鈴音」
「やっぱりダメだよね。ちょっと待って考え直す」
「これからよろしくお願いします」
笑顔で手を私に向けて差し出した。
戸惑いつつもクロに差し出された手を握り返す。
それが神使のクロと巫女白上鈴音の初めての交流だった。