隣人
「ふう、こんなもんか・・・。」
がらんとした部屋に荷物が入ると、生活感と圧迫感が増す。夢も希望もない一人暮らしだけど、三十五歳にして、初めての一人暮らしだと思うと身も引き締まる思いだ。
妹の結婚とその相手との同居が決まった実家は、浮足立って居心地が悪い。母が朝から化粧をしているのを見たのは、私が高校生のころ以来だ。
体裁的には、自立と言って出てきたけれど、何のことはない、逃げただけだ。結婚とよく知らない義理の弟の匂いから。
(狭いな・・・。)
木造二階建て、四部屋しかない二階のワンルームの部屋は、祖父母と両親、それと妹二人と暮らしていた一軒家に比べるととても狭く感じた。実家にいたころは、人で狭く感じたことはあったけれど・・・。
あらかた片付いた部屋で私は、テレビとブルーレイレコーダーの接続の確認もかねて、古い映画を何本か観た。何だか実家で観ていた頃より味気なく感じた。少しずつ暗くなってきた部屋で、お腹を空かせた私は、母が持たせてくれたお弁当を食べた。この味も、しばらく食べられないと思うと、もったいないように感じた。母独特の甘ったるい玉子焼きはもう食べることもないのだろう。
私はなんだかとてもつまらなくなって、ベッドに横になった。
「寂しいな・・・。」
思わず口から出てしまった言葉の後をため息が追いかけた。
次の日、朝起きるとバタバタとした音で目が覚めた。音は隣かららしかった。私は、ハッとして時計を見たが、まだ六時前だった。
(お隣さん、はやいのかな・・・。)
ぼんやりと考えていると、ふと、前日のことを思い出した。
(まずい・・・。テレビとか、イヤホンもつけないで観ちゃってたよ・・・。うるさかったかな?)
私は手帳に【買うもの・イヤホン】とメモをして、ゆっくりと準備を始めた。
お隣さんはやはり少し早く出る予定だったらしく、七時半前にドアの音が聞こえた。
(結構、生活音聞こえるんだな・・・。迷惑にならないようにしよう・・・。)
私は、お隣さんの約一時間後に、玄関のドアを閉めて会社へ向かった。
会社から帰ると、お隣は静まり返っていた。まだ帰ってきていないらしい。私は、テレビに買って来たばかりのイヤホンを差し込んだ。
(しまった!)
私は、五メートルという長さにつられ、うっかり片耳イヤホンを買ってきてしまったことに気づいた。
(返品できないし、仕方ないこれで観よう・・・。)
レコーダーを見ると、赤く録画中のマークがついていたので、録画番組をさけ、また古い映画を観ながら、買って来たお弁当を食べた。
何時間たっただろう、お風呂も済ませ、化粧水を塗っていると、お隣からドアの開く音が聞こえた。
(ずいぶん遅いんだな。)
私は気にも留めず、乳液を塗り始めた。すると、隣から話声が聞こえてきた。若い女性の声だった。
(お隣さんは女性か、ちょっと安心だな。)
一人の声しか聞こえないので、電話中なのだろう。時々、~ゼミ~とか、~レポートが~とか聞こえてくる。女子大学生だろうか。たまに甘えた声を出すので、電話の向こうは彼氏だろうなとか考えているうちに、好きなバラエティー番組が始まったので、それを観ることにした。
ところが、片耳イヤホンのせいなのか、隣人の女子大学生の声が大きいせいなのか、会話がちょくちょく耳に入ってくる。彼氏がバイトで忙しいことや、ゼミの男の子に言い寄られていることなど、私にはどうでもよい話なのだけれど、私の耳は彼女の声を拾うのをやめない。気が付くとバラエティーも終わってしまっていた。
(もう寝よう・・・。)
私が眠りにつく頃には日付が変わってしまっていた。
その日、私は軽快な音楽とともに目が覚めた。お隣さんから英語のフォークソングの爽やかな音楽が聴こえてきたのだ。時計を見ると、六時になろうというところだった。
(なんでこんな早くから音楽をかけてるのこの子・・・。)
頭を抱えながら起き上がると、ボサボサの頭の私が鏡の中でしかめっ面で座っていた。昨日の電話といい、今日のフォークソングといい、近所迷惑は考えないのだろうか?
私はゆっくり起き上がると、トイレに入った。そこでもフォークソングが聴こえてきた。結局、彼女が出ていく七時半まで、ひたすらフォークソングが流れていた。
この時はまだ、彼女に異変が起きる日まで、フォークソングと長電話が何か月も毎日続くとは思っていなかった。
引越しをしてから三ヵ月、いい加減フォークソングと隣人の長電話にも慣れた頃、職場の同僚に話しかけられた。
「何かいいことあったの?引っ越したのって、彼氏と住むためとか?」
私はあまりに突然で、飲んでいた紅茶の雫をスカーフにこぼしてしまった。
「あれ?違った?最近ずっと鼻歌でフォークソングみたいなの口ずさんでるし、引っ越す前より生き生きしてるような気がするんだけど。」
私は、自分がフォークソングを口ずさんでいることに気が付いていなかった。それどころか、不機嫌に出社しているとばかり思っていた。
しかし、よくよく考えてみると、フォークソングは生活の一部になっていたし、長電話だって、青春を忘れたような年増女の私には良い刺激になっていたのかもしれない。
「まあ、ちょっとした友達ができたような感じよ。」
私は、隣人の電話を盗み聞きしているのを悟られたくなくて、言葉を濁した。同僚は早合点したのか、帰る頃には私の結婚が近いような噂が流れていた。
ある夜の隣人の電話はいつもと違った。誰かと喧嘩しているようだった。
(さすがに喧嘩は聞きたくないな・・・。)
そう、思いながらも、耳は自然に話を追ってしまう。もう癖になっているのだろう。
壁の向こう側からは、~浮気~とか~裏切り~とか聞こえてくる。どうやら彼氏が浮気をしたと疑っているらしい。
彼女はしばらく大声で怒鳴り散らしたあと、電話を切ったのか、鼻をすすりながら、しゃくりあげて泣き始めた。私は、後味の悪さになかなか寝付けず、映画を観ながらベッドに横になっていた。
どれくらいたっただろうか、泣き声が消えると、映画も終盤に差し掛かって眠気が襲ってきた。私は、眠い目をこすりながら、映画を観続けた。この映画は、ギリギリまでハラハラさせるような展開で、終わりがハッピーエンドだから。今日は、ハッピーエンドでしか眠りたくないと思いながら、少しずつ眠気にさらわれてしまった。
翌日、六時に隣人は音楽をかけなかった。喧嘩の後だ、機嫌よくフォークソングという気分でもないのだろう。
ところが、よくよく考えれば、彼女が起きる時間から物音ひとつしてないのだ。
嫌な予感がした。
わたしは着替えだけをささっとすませ、隣のドアの前に立った。しかしそこから先が行動に移せない。
喧嘩を聞いていたと言うか・・・。まさか。フォークソングが流れないことを言うか・・・。とんでもない。
私は、自分が思った以上に隣人のことを何も知らず、隣人の電話を盗み聞きしていただけの恥ずかしい女なのだと思い知った。何がちょっとした友達ができたような感じよだ、全然、友達でも何でもないし、何の役にも立たない赤の他人。今日はそれが異様に悔しかった。
「お姉さんどうしたの~?」
突然、階下から話しかけられた。下の階のお爺さんだった。
「いえ、あの、この部屋の子が、ちょっとあの。」
私がまごまごしている間に、お爺さんが上がって来た。
「隣の女の子、何かあったの?」
私はうまく説明できないもどかしさに顔が真っ赤になった。けれど、もしものことがあったらと意を決して、お爺さんに事の次第を打ち明けた。お爺さんは驚いた様子もなく、階段を下りていき、部屋に入ってしまった。
きっと、呆れたに違いないと思っていたら、違った。お爺さんは、クマのぬいぐるみが付いた鍵を持って上がって来た。そして、それで彼女の部屋のドアを開けてしまったのだ。
私が驚いていると、お爺さんは、
「人を信じやすい子なんだよ。こんな老いぼれでも男の人に合鍵を預けるくらいにね。」
そう言うと、ニッコリ笑った。
隣人の部屋に入ると、すぐに彼女が横たわっているのが見えた。
「大丈夫かい?」
お隣さんが声をかけると、彼女はうっすら目を開けて、~んだ~じょ~とか話している。
「これかい?」
お爺さんが指さした先には風邪薬だの頭痛薬だのの空き箱と空きのシートが散らかっていた。
「お姉さん、この子、薬飲みすぎちゃったみたいだから、救急車呼んでくれるかい?」
「はい!」
私は、深呼吸をして、一一九にコールした。
十五分くらいすると、救急車が到着して彼女を乗せていった。
「お姉さん、会社はどうするんだい?この分だと遅刻じゃないのかい?」
確かにそうだった。でも、今の精神状態ではとても会社へは行けそうになかった。
「風邪って言って休みますよ。さすがにちょっと・・・。」
するとお爺さんは、私を自分の部屋へとおいでおいでと手招きをした。
「あの・・・。でも・・・。」
「大丈夫だよ、寝たきりだけど、婆さんもいるから。休むなら、ちょっとお茶しておいき。」
私は、あの寂しい部屋へ戻るのも精神的につらかったので、お言葉に甘えることにした。ベッドにはにこやかなお婆さんが横になっており、お爺さんは「あの子が言っていたお隣さんだよ。」と私を紹介した。お爺さんは、三人分のお茶を入れると、ゆっくりと語り始めた。
「あれは、あの子が入学したての頃だったかな。このアパートは古くて、二階は二部屋どちらも空いていたんだけど、あの子が入って、バタバタ騒がしくなってね、なんだか孫でもできたような気分になっていたんだよ。だけど、初めての一人暮らしで寂しかったのかな、上からすすり泣くような声が聞こえるようになってね。私はそっとしておいてあげたほうがいいと思ったんだけど、婆さんが可哀想だ可哀想だと気を揉むようになってね。あの子が休みの日に、うちに夕飯を食べに来ないかと誘ったんだよ。あの子は初めはビックリしてたけど、よっぽど寂しかったんだろうね、その日、うちに夕飯を食べに来たんだよ。」
お爺さんの言葉に、お婆さんはニコニコうなずいていた。
「それから、たびたびうちに来るようになってね。その時に、この鍵を私に預けてくれたんだよ。私も婆さんも簡単に人を信じちゃだめだって言ったんだけどね、あなたたちなら大丈夫だからって、置いていかれちゃってね。何かあったときのお守り代わりに大事にしまっておいたんだよ。」
「そうだったんですか。」
私は、自分と彼女の希薄な隣人関係と、この老夫婦と彼女との深く親しい関係を比べずにはいられなかった。
私は、少し冷めたお茶をすすると、お爺さんに尋ねた。
「先ほど、あの子が言っていたお隣さんだよ。と、奥さまに話しかけられてましたが、どういうことですか?」
お爺さんは、ニッコリ笑うと、こう言った。
「お姉さん、寂しいって言ってたんだってね。ここに来た日に。」
私は、三ヵ月前の引っ越し初日を思い起こしてみた。そういえば、そう言ったような気もした。
「あの子がね、お隣さん、音楽を聴いてた。寂しいときに聞く音楽なのかもしれない。って言ったんだよ。それから、レコード屋さんで買ってきて、朝、あの大音量でかけ始めたから、婆さんと笑っちゃったよ。」
私はとても驚いた。あのフォークソングが私のためだなんて、考えもしなかった。そういえば、初日に観ていた映画でフォークソングのような音楽が流れたかもしれない。それすらもあやふやで覚えていないのに、あの子は毎日、私が寂しくないように音楽をかけてくれていたんだ。
私の頬が潤うくらいに、涙の粒が溢れ出すのを感じた。
「お姉さん、さっき私に言ってくれたね、電話を聞いていたって。あの子もそれくらいわかっていたと思うよ。私の部屋にあの子の泣き声が聞こえるくらいなんだから。私もね、昨日と今日、様子が変だから外に出たんだよ。お姉さんと同じ理由だよ。」
私が言葉を発せずに泣いていると、お婆さんの手が、私の頭を静かに優しく撫でてくれた。
それから数日、私は食材を持って老夫婦の部屋へ通った。お隣さんがいない寂しさを老夫婦と埋めあっていた。
ある日、老夫婦の部屋で夕飯を食べ終えた私が自分の部屋へ戻ろうと階段を上がっていくと、若い男の子がお隣さんの玄関の前で立ち尽くしていた。
(例の彼氏だ。)
私は直感的にそう考え、そ知らぬふりで通り過ぎようとした。
「すみません!この部屋の子、引っ越しちゃいましたか?」
(逃げ切れなかったか…。)
「知りません。お会いしたこともないので。」
私がツンと突っぱねると、
「そうですか・・・。」
そう言いながら、また、部屋の前で立ち尽くしていた。
彼氏らしき男は、何時間も立っていたようで、寒さに脚がガクガク震えていた。手には赤いリボンのついたプレゼントらしきものが見えた。彼氏らしき男は、なかなか部屋に入らない私に目配せをして、階段を下りて行った。私が部屋に入りづらいことに気が付いたようだった。
私が、部屋に入ってしばらくたつと、お隣さんの部屋のドアをたたく音が聞こえた。
「なあ、俺が悪かったよ!どうしても内緒で用意したかったんだよ、誕生日のプレゼント!バイト掛け持ちしてるの黙ってたの悪かったよ!もう、許してくれよ!」
(なんだ誤解だったんじゃないか・・・。)
私は、自分の部屋のドアを静かに開け、彼氏さんに話しかけた。
「彼女、薬飲んで、病院に運ばれたんです。私たちも待っているんです。一緒に待ちませんか?」
私は、驚いている彼氏さんを老夫婦のもとへ案内した。彼氏さんは、お爺さんに誤解を招くような行為はやめるように叱られ、お婆さんに優しく頭を撫でられていた。
その日は突然やって来た。私の帰宅を老夫婦とお隣さんが待っていた。私は、言葉を交わしたことのない友人を力いっぱい抱きしめた。
「えへへ。」
彼女は、泣きじゃくる私の腕の中で照れくさそうに笑っていた。
それから、老夫婦の部屋で四人、お茶をした。ほどなくして、彼氏さんも到着した。彼氏さんの登場に彼女は固い表情だったが、お爺さんがちゃんと話をしていてくれたことと、欲しかったペアのテディの誕生石入りネックレスを目にしたことで涙腺が緩んだのか、子供みたいに泣き出した。彼氏さんに抱きつき、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」と謝っていた。彼氏さんが彼女の背中をお婆さんの手が彼女の頭を撫でていた。
私は、お爺さんに耳打ちをした。
「例の準備は大丈夫ですか?」
お爺さんは、ニコニコしながらうなずいた。
「じゃあ、お二人さん、婆さんを頼むね。私はお姉さんと夕飯の買い出しに行くから。」
私が・・・。と言いかけた彼女を彼氏さんがしっかり引き留めてくれた。
「今日は退院祝いもかねてるんだって、二人に任せようよ。」
私とお爺さんは、彼女が帰って来た時にお爺さんが頼んでおいたオードブルと、三週間遅れのバースデーケーキを持って、あのアパートへの帰路についた。
「サプライズは協力者がいないとね。」
お爺さんの言葉に、私は彼女がまた泣くんじゃないかと心配したが、今度はきっとうれし涙だろうから、たくさん泣かせてあげよう。そう思いながら、あの暖かいアパートへ帰るのが楽しみになった。
終わり