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自殺願望を消し去る数珠

作者: 栗林コウスケ

「死にたい。死にたい。死にたい」

中堅サラリーマンの伊達康介はいつもそう考えていた。


会社では上司にこき使われ、部下には営業成績で追い抜かされ、家に帰れば母親に口うるさいほど早く結婚しろと言われる。


「32年間彼女すらできたことがなかった俺に結婚なんてできるわけないだろ」

康介はいつもそう口に出そうとするがその気持ちを味噌汁を飲んで流し込む。

昔は好きだった母の手料理も今では大嫌いになった。食べるたびに聞きたくない話を聞かされるからだ。


ふとテレビを見ると医療系のバラエティ番組がやっている。健康診断企画と題して出演者の健康診断をあらかじめしておいて結果をスタジオで発表するというものだ。ある大物演歌歌手の結果が最悪だったらしい。

「私死にたくないわよ。そんなんだったらお酒の量控えようかしら」

彼女は上品に笑いながらそう言った。

(死にたくない?贅沢な悩みだな)

康介はそう心の中で言うと箸を置いて自分の寝室に戻った。


ここは康介にとって唯一気持ちが落ち着くところだ。ここには人使いの荒い上司も生意気な部下も口うるさい母親もいない。あるのはベットと本棚にある数冊の本ぐらい。


しかしその寝室でも落ち着けるのは夜だけ。彼は何よりも朝日が嫌いだ。この世の何よりも。朝日が登ればまた嫌な上司にこき使われ、部下に舐められ、母に口うるさく言われる1日が始まる。


"明日が来なくなればいいのに"


彼は寝る前にいつもそう願う。そんな願いも叶わず、また日が昇った。まるで何かを祝福するかのように煌びやかな朝日が。




康介はいつものように大きな溜息をついて朝の支度を済ませ家を出た。


会社に着くと早々なんとも言えない表情を浮かべた上司がゆっくりと近付いて来た。

「おはよう。伊達、ちょっといいか」

上司は手招きしながら言った。

「おはようございます。あ、はい」

「部長からのお呼び出しだ。部長室へ」「あ、はい。分かりました」

康介はそう返事をすると緊張した足取りで部長室へ向かった。


部長からの呼び出し、康介には嫌な予感しかしなかった。そしてその予感は的中した。



部長から言い渡されたのは実質的なリストラだった。営業成績が良くないため、部署の異動を検討したが受け入れ先はなかったとのことだった。


急の出来事に肩を下ろす余裕すらなくただただ無心で会社を出た。空は朝と変わりなく嫌になるほどの晴天だ。

(もし輪廻転成というものが存在するのなら、来世の俺はきっと幸せなんだろうな。いや、幸せに違いない。だって今世の俺はこんなにも不幸なんだから)

康介は空を見つめながらそう思った。


(そうだ、死ねばいいんだ)


康介の頭にふとその考えがよぎった。

今まで何度となく死にたいと思っていた康介だが実際に自殺を考えたのは今回が初めてだ。


今までは漠然としていた死というものが康介の頭の中で明確に形付いていく。


(俺はリストラされた自分に悲観して命を絶つんじゃない。まだ見ぬ未来に希望を持って命を捧げるんだ)


康介は自分にそう言い聞かせた。今の彼にとっては死すらも光に見える。


康介は自殺を決意した。


そうと決まってからは早かった。家に帰るなり車に乗り込みホームセンターでロープを購入した。


その後スマホで首吊りロープの結び方を調べ車内で何度もシュミレーションを繰り返した。


今までとはまるで人が変わったかのような行動力。


彼は生まれて初めて自分の生きる目的を見出した。


死ぬという目的を。


彼は皮肉にも死ぬために生きている。死ぬために存在している。


そんな矛盾の中康介は人里離れた樹海を目指し車を走らせた。




もう4時間は走ったのだろう。気付くと外はもう夕焼けになっていた。差し込む西日を康介はあえて遮らなかった。日を見るのはもう最後だと思ったからだ。


しばらくして最後の日が落ちた。


その頃には康介はすでに樹海に入っていた。ここは全国的に有名な自殺スポットだ。毎日、人生に行き詰まった人々が自分の死に場所を求め彷徨う。もちろん康介もその中の一人だ。ただ彼が他と違うのは足取りが軽いということだ。ここが有名な自殺スポットゆえか康介の死に対する執念ゆえか30分ほどですぐにちょうどいい木が見つかった。

「ここにするか」

康介はそう決心して真横に伸びた太めの木の枝にロープをかけた。車で何度もシュミレーションしたとはいえ実戦では若干手こずった。しかしすぐに手の感覚が枝に慣れ、ついにロープは結び終わった。


ロープを手に掛け、首を通す時、康介に不思議な感覚が走った。

「なんなんだよこれは。なんなんだよこの手の震えは」

今までに味わったことのないような恐怖が彼を襲った。それは単純に死への恐怖なのか。それとも死ぬという目的を失う恐怖なのか。


康介の中の死というただ呆然と光って見えた存在が目の前に来て本性を出した。



醜く得体の知れない何かが無数にも蠢く。



康介は死ねなかった。

あんなに死ぬ気でいたのに。康介の手に生温い涙が落ちた。それは悔し涙なのか悲し涙なのかは分からない。ただ止めどなく静かに落ちていく。

一滴、また一滴と。

「なんで死ねないんだ。生きていていいことなんてなかったのに、死ねば楽になるっていうのに、なんで死ねないんだ…」

康介はこれでもかというほど自分を哀れみ、そして憎しんだ。

「また明日が来るのか。また朝日が昇るのか」

康介はただただ絶望を感じ、立ち尽くした。



「死ねなかったか」

そのとき康介の斜め後ろの方からしゃがれた男の声が聞こえた。康介は急の出来事に驚き、後ろを振り向いた。


そこには袈裟を着た見た目からして60歳ぐらいの老人が立っていた。康介は何者かも分からないこの老人に恐怖を感じた。

「あなたは今私を怖がっているだろ。そりゃそうだ、こんな人っ子一人いないような樹海で何者かも分からない老人に急に声を掛けられたのだから。だがその怖さこそが生きようとしている証拠なのだよ」

老人は悟ったような目をして言った。

「心臓に手を当ててみよ」

康介は言われた通り胸に手を当てた。

「鼓動が増し、血の巡りが早くなってるのが分かるか。それが答えだ。心では死のうとしても身体というものは生きる為にできている。そう簡単には死ねないもんなのだよ」

老人はそう語った。

「私はここを抜けてしばらく歩いたところにあるお寺のものだ。あなたも知ってるとは思うがここは自殺者が多い。なので私はその行為を悔い改めさせるよう周っている。私は全部見ていたよ。あなたは自らの命を絶とうとしたが直前でやめた。その選択は間違っちゃいないよ。自らの命を絶つということは罪なことなのだから。そのことを忘れないでくれ」

老人はそう言って立ち去ろうとした。

「待ってください」

「なんだ」

「そんなに罪なことなんですか?自殺ってそんなに罪なことなんですか?」

康介は必死にそう尋ねた。

「あの、俺、今日リストラにあったんです。10年以上働いた場所で急に。もう親に合わせる顔なんてないんですよ。それだけじゃない、子供のときだって友達なんて居なかった。みんながそれぞれのグループで喋ってる中俺はいつも1人だった。今まで生きてきて幸せだなって思ったことなんて一度たりともなかった。それなのに自殺するのは罪なんですか」

「そうだ」

「なんで」

「あなたは何か勘違いをしているようだ。人生とは娯楽じゃない。修行だ。自らの命を絶つということは与えられた修行を投げ出すということだ」

「修行?だったら尚更だ。俺は32年間散々耐えてきた、耐え忍んできた。もういいだろ。楽になりたいんだよ」

康介は心の叫びを吐露した。

「あんたは俺がもう自殺しないと思ってるかもしれないけどそれは間違ってる。今日は確かにできなかった、でも心の準備ができてなかっただけだ。明日にまたここに来る。その時には絶対に死んでやる」

普段は無口な康介だがこのときばかりは口調が荒くなった。

「まだそんな愚かな気持ちが残っていたのか。ならあなたに質問をしよう。その自殺願望、消し去りたいか?」

康介とは対照的に今までとは変わらぬ落ち着いた声で老人は聞いた。

「自殺願望を消し去りたいか?そんなの消し去りたくないに決まってる。」

「そうか。いいだろ。それでこそ修行だ」

そう言うと老人は再び立ち去ろうとした。「もし今の質問で自殺願望を消し去りたいって言ってたら?」

康介は思いついたようにこう尋ねた。

「なんでそんなことを聞く?」

「い、いや」

康介は俯き加減にそう言った。すると老人は懐から数珠を取り出した。

「私のお寺で代々伝わる数珠だ。この数珠を身につければ自殺願望はたちまち消し去る。だがあなたには関係のない話だ」

そう言い残すと老人は歩きだし、闇の中に消えていった。康介は数珠を見た瞬間なぜか身体全体に衝撃が走った。

(あの数珠、見たことがある気がする。いや気のせいか)

康介の家は仏教とはあまり関わりがなく、ましては数珠なんてものは誰かの法事で数回身につけたぐらいだ。しかしなぜか彼の中の遠い昔の記憶の片隅にあった何かが呼び覚まされたような気がした。それはただ単純に懐かしみとしてではなくその数珠に人生を左右されたかのような感覚だった。



康介は暗闇に一人残された。

(俺は結局死ねなかった。あんなに死にたかったのに。いつもそうだ。何かを決意して取り組んでも決まって途中で投げ出す。自分を殺すっていうこんな簡単なことさえ)

康介はまた打ちひしがれながら来た道を戻っていった。


康介は家に帰り浴槽に浸かった。

「明日こそは絶対死んでやる」

そう唱えるかの如くブツブツと呟いた。何度も。何度も。だがそれを邪魔するかのように老人の声が頭に響く。

「その自殺願望、消し去りたいか?」

「私のお寺で代々伝わる数珠だ。この数珠を身につければ自殺願望はたちまち消し去る」康介は湯船で顔を激しく洗い、その声を消し去ろうとした。


「死ぬんだ。死ぬんだ。死ぬんだ」


そう呟きながら。




次の日の夜、康介は気付いたら昨日と同じ時間に同じ場所にいた。死ではない何かを求めて。


すると昨日の老人が見えた。だが昨日の印象とは違う。まるで自分を救ってくれる、希望のような気がした。康介は老人を見つけるやいなやすぐに駆け寄った。

「昨日の青年か。律儀な人だ。全く同じ時刻に来るとはな」

老人はまるで康介が来るのが分かっていたかのような口調だった。

「お願いします。昨日見せて頂いた数珠お譲り頂けませんか」

康介は地に膝をつけ懇願した。

彼が謝罪以外で地に膝をつけることは滅多になかった。だがそれほどまでもその数珠が自分にとって必要なものだと感じたのだろう。


康介が希望を感じていたのは正確には老人ではなくあの数珠だった。すると老人は馴れた手つきで数珠を出した。

「これのことか。私は構わない。だがいいのか?自殺願望と戦いながら生きることも修行だ。この数珠を使えばその修行から解放される。だがそれは抜け出すわけじゃない、休むだけだ。やがてその休む期間が過ぎればまた修行はやって来る。それでもいいのか?」

老人はそう尋ねた。

康介は心なしかその時の老人の表情が昨日よりも強張っていたかのように見えた。しかしそれに怯まず答えた。


「はい」


康介はこの言葉と鋭い表情で老人に決意を見せた。

「ならばあなたに差し上げよう」

老人は数珠を両手で持ち替えてまるで献上するかのように康介に渡した。

「ありがとうございます」

康介もそれに答えるように両手で受け取った。

「青年よ。今は心休め、次の修行に備えよ」

老人はその言葉を残して立ち去っていった。


(これがあれば、俺はもう悩まなくて済むのかな)

康介はそう思いながら、数珠を右手に付けた。その時、この数珠を初めて見たときと同じような衝撃が身体に走った。


(まただ。だからなんなんだよこの感覚は)


康介は結局それが何か分からぬまま帰路についた。そしてその夜、明日の朝日に心踊らす自分を信じ眠りについた。


しかし翌朝康介が見た朝日はいつもと変わらぬ嫌いな朝日だった。

「バカだった。なんで自殺願望が消える数珠なんてものを信じたんだ。大体あんなところに好きで通ってるような老人の言うことなんて虚言に決まってる。なんでそれに気が付かなかったんだ」

康介はあの老人と彼が渡した数珠を信じた自分を悲観した。

だがそのとき、康介のスマホに着信が入った。この前リストラを宣告した会社からだった。

「今更何の用だよ」

康介は無視した。しばらくすると着信が切れた。


しかしまたすぐに着信が入った。しかし康介もまた無視し着信が切れた。そしてまた着信が入った。


それが20回は続いた。


そして27回目、ついに康介の方が根性負けして電話に出た。

「おっ、やっと出てくれた。伊達君か?」

部長の声だった。

「あ、はい。そうですけど」

康介は答えた。

「この前の話なんだが。実はあのあと我が社の開発部の人間から電話があったんだよ」「開発部?」

「ああ、確か君も以前配属されていただろう」

「あ、はい。5年ほど前まで」

「彼が言うには書類を整理していたら君が書いた新商品の企画書が出てきたそうなんだ。その商品は当時としては突飛すぎるというか斬新過ぎるというかでそれはそれは理解し難い商品だったらしく企画段階で却下されたみたいなんだ。だが今見てみるとびっくりするぐらいに消費者のニーズに合った商品だったんだよ。それで今回我が社でこの商品の開発を進めようって動きになったんだ。そこでだ。その商品の発案元である君に是非開発部に戻って欲しいとの要望があったんだ」

「僕が開発部に?でももう会社に僕の席はなくなったはずじゃ」

「大丈夫だよ。君の席は今月いっぱいまでは残ってる。それに」

「それに?」

「その企画書、社長が直々に目を通されたらしいんだ。そしたら大変気に入られたみたいで、どうか開発部の人間として再契約して欲しいとおっしゃってるんだ。大変手数だけど、今から会社に来てくれないか」

「社長がそんなこと?分かりました」


電話は康介にとって意外過ぎる内容だった。


(まさかこんなことが。もしかしてこの数珠のおかげか。いや違う。別にだからと言って自殺願望が消えたわけじゃない。たまたまだ)


康介は自分にそう言い聞かせながら支度を済ませ自宅を出た。


外に出ると康介はふと朝日を眺めた。不思議なことに康介にとってその朝日はいつもと違って見えた。


(なんでだろう。今の今まで鬱陶しさを感じていた朝日がとても美しく見える。まさかこの手の話に希望を感じているから?)


康介は一瞬そう思ったが


(いや違う。どうせまやかしだ。またすぐに今までのようにこき使わされるのがオチだ)


とまた悪いようにと自分に言い聞かせた。しかしその思いとは裏腹に康介の足取りは早かった。まるで彼は心では悪いように言い聞かせても体では希望を感じているかのようだった。


会社に着くと珍しく部長が出迎えてくれていた。

「伊達君、おはよう。私は先日、君に対してすまないことをしてしまったね。本当に申し訳ない」

そのとき伊達は初めて部長の頭頂部を見た。普段滅多に頭を下げない部長の頭は若干白髪混じりであることを康介は初めて知った。

「い、いえいえ。僕は今まで会社に貢献したことはなかったですし、妥当な検討ですよ」

康介は部長の初めて見る姿に戸惑いつつもそう答えた。

「いやいやこれからは君のそのアイデアが会社に貢献していく。そう信じてるよ。そうだ、社長が君に会いたがってる。社長室へ案内するよ」

部長はそう言うと康介を連れて社長室へと向かった。


社長室へ入ると謎の派手なトロフィーや難しそうな本が棚にぞろぞろと並んでいた。その奥に素人が見ても分かるような明らかに高級そうな椅子に社長は座っていた。


「いやどうも。君が伊達康介君か」


「は、はい」

康介は初めて社長を間近で見た。もちろん自分の勤めてる会社なので社長の顔は何度となく見ていた。嫌になるほど。しかしいざ目の前にするとまるで有名人に会ったかのような、ただただそんな感覚がしていた。

「彼から話は聞いているかね?」

社長はそう尋ねた。

「あ、はい」

康介は緊張した面持ちで答えた。

「なら話が早い。見させてもらったよ5年前の企画書をね」

「ありがとうございます」

「5年も前とは思えないくらいに今を先取っている。そんな内容だった。私はそれを見て確信したよ。君には先見の明がある。どうか来月から開発部の人間として我が社と再契約してくれないかね。我が社には君が必要なんだよ。君のそのアイデアがね」


"君が必要"


康介はこの言葉に心打たれた。

今まで居てもいなくても同じような存在だった。それは会社に限らずとも。それが今社長に、そして会社に、必要とされている。


「分かりました。こちらからも是非よろしくお願いします」

康介は二つ返事でオーケーした。

そのとき康介は生きる意味というものを見つけたような気がした。


康介は今まで32年間生きていたが彼にとってのこの今日という日は初めて尽くしの日だった。

初めて部長が頭を下げるところを見て、初めて社長室に入り、初めて社長と対面し、そして初めて誰かに必要とされ、初めて自分の存在意義を感じた。こんな初めて尽くしの1日を過ごすこと自体も初めてだった。


それはまるで生まれ変わったかのようだった。




やがて康介の発案した商品は開発され、見事世間に受け、爆発的な売り上げを出した。


それにより低迷気味だった会社を建て直すことにも成功した。


それからというものの不思議なことに康介には幸福が続いた。康介の発案した商品は次々とヒットを飛ばした。もちろんそれに伴い、彼は瞬く間に出世していった。


しかし康介の飛躍は止まることなく、ついに独立し、会社を起こすまでになった。


彼の成功は仕事だけには収まらなかった。昔から想いを馳せていた学生時代のクラスメイトに偶然にも遭遇し、それがきっかけで付き合うことになった。今までの人生とは打って変わって公私共に順調過ぎるぐらいの出来事の連続に、康介はまるで自分の人生ではないかのようにさえ感じた。


彼女との食事中康介はふと右手の数珠を見た。


(最近ずっと幸運続きなのはこの数珠のおかげに違いない。あの老人は自殺願望を消し去る数珠って言ってたけど本当は幸運をもたらす数珠なんだろう。幸運をもたらすから結局は自殺願望が消え去るってわけで)


康介は心の中でそう確信した。


「ねー!」

「…」

「ねーって!」

「あ!どうしたの?」

康介は彼女の声で我に返った。

「こちらお下げしても宜しかったですか?」男性のウェイトレスが尋ねた。

「あ、どうぞ」

そのとき康介は周りの音が何も聞こえなくなるほど夢中で数珠を眺めていたことに気付いた。

「疲れてるの?仕事も大事だけど、もうちょっと休んだら」

康介の彼女は言った。

「ううん。全然疲れてないよ。むしろ元気」康介は笑って答えた。

「そういえばそれずっと付けてるよね」

彼女は数珠を指差しながら言った。

「うん。なんていうかお守りみたいなものでこれがないと落ち着かないんだよね」

「そうなんだ。意外とそういうの信じるんだね」

「まあね」


それから2人はたわいのない会話をしながら食事を楽しんだ。




それから5年が経った。



相変わらず康介には幸福が続いていた。

彼の独立は成功し、1000人以上の従業員に業界シェアトップという大企業になっていた。


さらに当時付き合っていた彼女とも結婚し、3人の子供をもうけ、都内に大豪邸を建て、そこで暮らしている。


文字通り巨万の富を手に入れていた。


康介は業界トップ企業の社長なだけあり、仕事の帰りはいつも遅かった。

「ただいまー」

康介は玄関でそう言ったが返事はなかった。


彼が社長になってから仕事から帰る頃にはいつも子供達は寝ていた。

「みんな寝てるのか。さて、今日はどんな顔して寝てるのかな」

彼は仕事から帰ると決まって子供の寝顔を見ることが日課になっていた。


康介がいつものように子供達の寝室に静かに入ったが中には誰もいなかった。

「あれ、あいつらどこ行ったんだ」

康介は不思議に思いながら居間の方へ歩いた。するとテレビが付いたままの居間で1番下の乳飲み子以外の家族全員がソファーで寝ていた。

「なんでみんなこんなところで」

康介はそう呟きながら子供達のお腹に小さな毛布を掛けた。


そのとき2人の子供が紙を大事そうに持ってるのに気付いた。

「なんだこれは?」

康介は静かにその紙を引き抜いた。

紙には康介の似顔絵と子供らしい字で


"おとうさんおたんじようびおめでとう"


と書いてあった。


そのとき康介は自分がこの日誕生日だったことに気がついた。

「そっか。それでみんなここで待っててくれてたのか。ありがとう」

康介は家族みんなの寝息を聞きながらひとり幸せに浸った。


ふと付いたままのテレビに目をやると医療系のバラエティ番組がやっていた。健康診断企画と題して出演者の健康診断をあらかじめしておいて結果をスタジオで発表するというものだ。あるグルメ芸人の結果が最悪だったらしい。

「お酒と油物は控えろって言ったって俺の人生からお酒と油物抜いたら何も残らねーじゃん。そんなんなら死んだ方がましだよ」

彼は下品に笑いながらそう言った。


「死んだ方がましか。よくそんなことが言えるな。生きるってこんなに楽しいことなのに」


康介は心の中でそう言いながら嫁に毛布を掛けた。


今の彼には完全に自殺願望が消えていた。


康介が眠りにつこうとベッドで横になったときにふと数珠に目をやった。


「そういえば5年前この数珠をくれた老人は今何やってんだろう。俺はあれから5年間本当に幸せに過ごせてきた。これも全部この数珠、そしてあの人のおかげだ。何かお礼しないとな」

康介はそう思い立ってひとり車を走らせた。


あれは5年も前のこと。まだあの老人が樹海を歩き回ってるかも、ましてや生きてることさえも定かではない。


だが不思議と湧き出る根拠のない自信を背に康介は進んで行く。



あの樹海へと。



そこは5年前に2回だけしか行ったことのない場所だったがナビも無しで辿り着けた。そしてあの数珠を受け取った場所の道へとひたすら歩き進んで行った。


康介の脳裏に5年前のことが昨日のように蘇る。


辛かった日々、自分に情けなくてしょうがなかった日々、朝日を見て悲壮感に浸る日々が。


そうこうするうちに目的地へと着いた。

「これがあの時の木だ」

康介はロープをくくりつけたであろう木を見つけ静かに触った。5年も経ってロープはすでに無くなっていたが確かにそれがあの木だと彼は直感した。



「また死にたくなったのか」



康介の後ろから聞き覚えのある老人の声が聞こえた。康介はハッとし後ろを振り返った。するとそこにはあの数珠をくれた老人が立っていた。あの頃と変わらない姿で。

「いえ、あの僕5年前にあなたの数珠を頂いたもので」

「覚えているよ」

老人は康介の言葉を遮るように答えた。

「しかしその目、生気に満ち溢れてるな。5年前とはまるで違う」

老人はそう続けた。

「はい。これもこの数珠のおかげです」

康介は右手の数珠を見せながら言った。

「僕はこの数珠を付けてから、仕事がうまく行き、自分で会社を持つまでになりました。それに、家族にも恵まれ、今までの悲惨な人生とは見違えるぐらいに幸せに満ち溢れてます。僕はこの数珠のおかげで自殺願望が完全に消えました。それどころか今ではこれから先の人生に希望まで持つようになりました。今日はこの数珠を頂いた、そのお礼が言いたくてあなたに会いに来ました」

康介は思いの限りを述べた。

「礼なんていらんよ」

老人は康介とは対照的にすました顔をして言った。

「いや、そんなこと言わず」

「この数珠を付けてこれが何で自殺願望を消し去る数珠と言われているか分かったか?」

老人はまた康介の言葉を遮り、質問した。


「もちろん分かります。それは幸福が訪れるからです。人は幸福を感じている時に自殺したいなんて思いません。だからこの数珠は自殺願望を消し去る数珠と、そう言われているんじゃないですか?」



「それは違う」

老人は小さく溜息をして言った。

「この数珠は元々こう呼ばれていた。幸借の数珠」

「こうしゃくのじゅず?」

「幸せを借りると書いて幸借。あなたが訪れたと言っていた幸福、それは訪れたんじゃない。拝借したものだ」

老人のその返答は康介にとって実に意外なものだった。

「輪廻転生というものを知ってるか?」「あ、はい。聞いたことは」

「全ての生きとし生けるものはいつかは死ぬ。そしてまた生まれ変わる。我々はみなそれを繰り返す。何度も、何度も。そうやって修行をしていく。あなたに訪れたと言われている幸福は、あなたの来世から拝借したものだ」

「来世から拝借?」

康介は不思議そうな顔をして聞き返した。


「人の人生というのは、5割の幸せと5割の不幸でできている。みな平等に。つまりあなたには幸福が訪れたわけじゃない。来世のあなたからその5割の幸せを拝借したまでだ。今世の5割の不幸と引き換えにな」

「そんな…。ってことはつまり」

「そう、来世には不幸しか残らなくなる。どうだ?死にたくなくなっただろう。これがその自殺願望を消え去る数珠というものの本質だ」

老人は康介に対して非情な現実を叩きつけた。それでも康介は食い下がらなかった。


「でも待って下さい、さっき人の人生は5割の幸せと5割の不幸でできてるって言いましたよね?でも5年前の僕は5割の幸せなんてなかった。それどころか幸せなんて1ミリも感じたことがなかった。10割不幸だったんだ。だからあなたの言ってることはデタラメです」

康介は老人に対して強めに言い放った。


「そうか。ではあなたはその数珠を付けたとき何か感じなかったか?」

そのとき康介は思い出した。初めて数珠を付けたときに感じた妙な感覚を。

「おそらくあなたは前世にこの数珠を付けたのだろう。人は生まれ変わるとき何もかも新しくなる。顔も、手も足も脳も内臓も。だが記憶が全て消えるわけではない。脳では忘れていても魂というものは覚えているものだ。あなたがもしこの数珠を付けたときに何かを感じていたなら、それは深く、深く奥底に眠っている魂の記憶が疼いたからだろう。だがあなたにはそれがなんだったのかは分からない。魂は覚えていても、脳は忘れているからだ」


「そんな…ってことは俺がもし死んだらあの5年前の地獄のような人生が訪れんのかよ!やっと手にしたんだよ!30年以上掛けてやっと手にした幸せなんだよ!」

康介はことの重大さに気づき、ついに感情的になった。


「私は5年前、あなたにこう言っただろ。人生とは修行だ、この数珠を使えばその修行から解放される。だがそれは抜け出すわけじゃない、休むだけだ、と」


「嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」康介はそう叫びながら膝から崩れ落ちた。


「あなたにはやがてまた修行はやって来るだろう。青年よ。今は心休め、次の修行に備えよ」


老人はそう言い放つと泣き崩れる康介を残し、夜の闇に消えていった。




ある都内の某所に伊達康介という一流企業の社長がいた。彼は家に帰ると妻と3人の子供に囲まれ、何不自由ない幸せな毎日を送っていた。彼は毎晩眠りにつく頃こう考えている。



「死にたくない、死にたくない、死にたくない」と。


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