韜晦亭奇譚 最終話
その夜の韜晦亭はずいぶんと静かだったと記憶している
さして広くもない店内には、安酒をなめるようにちびちびとすすりながら時間をつぶす俺しかおらず。
零時をすぎても他の常連の姿が現れることはなかった。
「これほど人が集まらない日もかなり珍しいよね」
俺はマスターと何気ない世間話をしながらも、マスター本人のことをよく知らないことに思い至った。
今までもマスターの仲介で知り合った研究者は大変ユニークで俺の好奇心を刺激してくれたが、一番の謎はマスターその人であった。
なぜこれほど多くの科学者がこの店に集う事になったのか、気になるかぎりだった。
今夜はそれを確かめる好機だと思うのもしかたないだろう。
「マスターはどうしてこの店を始めようと?」
「実は私はアマチュア天文家でね、もともとは天文仲間同士での情報交換の場を持たせるために店をはじめたのだが、
いつの間にか知り合いが知り合いを呼ぶようになって、色々な分野の愛好家が集まるようになり、現在に至るという訳でね」
やや照れくさそうに笑いながらマスターは答えた
「コメットハンターなんですか?」
自分の名を冠した彗星が在るというのは確かにロマンがある、そのロマンを追い求める人たちにはなかなかにカッコイイと思うが。
マスターは緩やかに首を振り言った。
「いや〜なんというか。ブラックホールハンターなんだよね」
マスター曰く、ブラックホールはアインシュタインの相対性理論が論理的にその存在を提示したが。発見されるのには時間がかかったらしい、
そして重力波はいまだ観測されとおらず(当時はアルミ製の円柱を使い観測するのが主流で現在のような巨大な観測装置はまだ完成していなかった)
重力に至ってはどのように力を伝達しているのか判然としていないらしい。
マスターは続けて言う
「重力が均一に働いているなら銀河も円盤状ではなく、すべて球状星団になっているはず」
「しかし実際には宇宙に物質は偏在している。私はマクロな世界において重力子のムラが現在の宇宙を形作る要因になっていると考えているわけだが、
そのムラを造り出す原因を推測するのが今のマイブームでね。」
「マスターはこっち(凡人)側の人だと思っていたんだがな〜」
「なにか言ったかい」俺のぼやきにマスターは気がつかなかったようだ。俺は話の腰を折らずに済ませる
「それで、マスターは重力がどうやって伝わっていると考えているわけだい」
「私は重力子という粒子があるとしたら、それ自体の存在が我々が重力と呼んでいるモノだと思う」
「つまり海の水と同じく時空に満ち溢れ、水圧のように物質に掛っている力こそ重力の正体だと?」
俺の例えにマスターは大きく頷いた
「ニュートリノより遥かに小さな粒子である重力子は、ビッグバンの振動の余波で、液状化現象の地面のように他の物質を沈めているんだ。」
「つまり星(物質の塊)が大きくなるという事は水深が深くなるのと同じことなのだと定義する、すると我々が感じる重力とは重力子の濃度が薄いという事になるとしよう」
「なるほど」とよくわからないまま相槌を打つが、しばし考え
「重力子がそれほど、周りにあふれているなら、重力子に対して浮力なり揚力なんかが働かないのか」
と訊いてみるとマスターは
「おそらく重力子は小さすぎて原子核と電子の隙間を通り抜けてしまうのだろうと思う、揚力も同じで光速ほどスピードを出さないと抵抗すらかからないのだろう」
と持論を語ってくれた。それで、なんとなくだがマスターの言いたいことが分かったような気がする。
「だからブラックホールを調べようと考えた訳か、ブラックホールの中心は重力子の無い状態といいたいのでしょう?」
「その通り、重力子の無い状態を特異点とするなら、重力子を排斥する方法を見つければ、物質の密度に関係なく人工的に特異点を造り出すことができるというわけさ」
「しかし、どうやって?」マスターの話によると重力子は、この時空を俺達が観測できる宇宙たらしめている重要なものらしいが。
測定できないものをどのようにして自由に動かすというのか。
「ブラックホールや中性子星は強力なX線を放出してるのだが、中心部分に特異点があるとすれば、X線の波長に何らかの影響が出るはずだ…と仮定して知り合いの天文学者にデーターを集めてもらっていたんだ」
「マスターは特異点がどういうモノだと考えているんですか」
「ビッグバン以前の状態がいわゆる特異点だとおもうね、重力子は今なお湧き出し続け、時空を押し広げていて、宇宙の中心は高密度の重力子に満たされて光さえ進むことができない状態になっていると推測している」
「じゃあ宇宙の果てが…」
俺のつぶやきにマスターは頷き
「そうだ、特異点こそ我々の知る宇宙の外側に通じているはずだ」
と自信満々に言い切った。
「重力子は光と同じ。粒子であり、波であると考える、とすれば波形が対局の波を当てれば消すことが出来るのではないか?私は重力子の真空状態を作り出す実験をしようとしているんだよ」
「ええ、いつですか。」
「すぐにでもさ、もう機材も自作して準備万端なんだ。明日は定休日であるし、長年の疑問が解消されるといいのだが」
マスターはそういって楽しそうに歯を見せて笑った。彼がそんな笑顔をするのを俺は初めて知った。
俺はそんな実験が成功するなど露ほどにも思っておらず、マスターにしたところで同じであったろうと考える
しかし失敗するにしても大したことにもなるまいと安易に考えていたのも事実であった。
しかし。
翌日。韜晦亭は跡形もなく無くなっていた。
文字通り、かの店は巨人の手により地面ごとえぐり取られるようにしてこの世から消えてしまっていた。
ニュース報道では、韜晦亭はガス爆発により焼失したとなっていたがそんなことはあり得ないと現場をみた常連たちは気づいていた
なにしろ周囲に被害がまったく出ていなかったからだ。
だからといって俺たちに何かが出来ることもなくマスターはその日以来、姿を消したまま行方は知れることはなかった。
そうして数年が過ぎたある日のこと、一通の絵ハガキが俺のもとに届いた、差出人はマスターであった。
手紙にはあの日の実験の失敗で見知らぬ土地に飛ばされてしまったこと、現地の人たちの協力により、一命を取り留め、店を再建し、なんとか今まで生き延び。
そして手紙を送る手段が見つかったので連絡をくれたことなどが記されていた。
絵ハガキの写真はセピア色の荒れ地に韜晦亭とマスター、そして現地の人間?が写っていた。
なんだか現地の人たちは随分前に韜晦亭のカウンターで見たタコに良く似ていたが…
しかし心配することもないだろう。
中心に立つマスターの笑顔はあの最後の日に見たものと同じであったから。
こうして俺の韜晦亭にかんする出来事はひとまずおしまいである。
この後、日本に帰ってきたマスターがひと騒動起こすのだがそれはまた別の物語である。