64、噂話
教室に入る手前で、ちょうど教室から出てきたところの香織と会った。
「あ!おはよう、香織」
私がそう声をかけても、香織は挨拶を返してくれなかった。それどころか、いつも明るい香織が眉をひそめ深刻な表情をしている。どうしたの?と口を開こうとした私に、香織は声をひそめて言った。
「ねぇ律花、どうなってるの?」
「何が?」
「彼氏がいるのに、変わらず赤下くんと登校してくるんだもん。みんな、噂してるよ?律花が二股してるって」
「……え?」
香織の言葉に、一気に血の気が引いていく。
(二股って……そんな、)
ショックのあまり言葉を失ない、立ち尽くす私の耳に教室から男子の話し声が聴こえてきた。
「おい田端!お前の彼女、赤下と仲良くしてたぞ、いいのかよ?」「さっそく二股かけられてんぞぉ?」
何人かのクラスの男子が、席に座っていた田端くんを取り囲むようにして興味津々な表情を見せている。
(ちょっと…っ、何勝手なこと言って……っ!!)
田端くんを傷付けるようなことを言う男子に、私は黙っていられず教室に入ろうとした。
でもその瞬間、意外にもハッキリとした口調で田端くんが言った。
「良いんじゃないかな?別に。」
(田端、くん……?)
教室に入ろうとしていた私は驚いて足を止めた。
からかっていた男子達も、田端くんの意外な返答に戸惑っている。
「はぁ?なんでだよっ?」
「青島と付き合ってたんじゃなかったのかよ?」
「いや、付き合ってないよ。“合宿の間だけでも付き合ってください”って俺がしつこく頼み込んだから、青島さんはそういうふりをしてくれただけなんだ。――最初から俺、ふられてるから。」
田端くんは苦笑しながらも、周囲にも聞こえるような、大きめの声でそう言った。
(田端くん、それはやりすぎだよ……)
そんな田端くんの自己犠牲の気遣いに、申し訳ない気持ちで胸が締め付けられる。
どうしてそんな優しいの?
私は田端くんを、傷付けたのに。
悪いのは、全部私なのにー―――…。
「マジか……」
「なんか、悪かったな。」
クラスの男子が、田端くんにすまなそうに言う。
「うん。だから、青島さんに迷惑かけるような発言は止めてもらっても良いかな?」
田端くんが力強くそう言うと、男子達はそそくさと立ち去った。
「律花、そうだったの?」
教室での会話を聴いていた香織が、少しホッとしたように耳打ちしてくる。
――――だけど私は、頷けなかった。
(違うよ……そんなんじゃない、)
田端くんと付き合えたらって思った。
田端くんといると心が穏やかでいられたから。
居心地が良かったから。
(いや“違う”……本当は――――…。)
苦しい気持ちから逃げられると思った。
頼への想いを、誤魔化したかった。
優しい田端くんの気持ちに付け込んで、利用した。
私は俯き、ぎゅっと下唇を噛む。
罪悪感に襲われて、自分の弱さに嫌気がさす。
(ごめん、田端くん………。)
ここでもまた、貴方の優しさに私は甘えてる。
「田端くん、律花とお似合いだと思ったのになぁ。ねぇ、どうして別れちゃったの?」
「それは…――――」
何気ない香織の質問に、私は思わず口ごもる。
答えはもう、心の中にあるのに――いまだに口に出す勇気がないのだ。
「律花ちゃんには、他に好きな人がいるからだよ」
(えっ、ちょ…っ!?)
後ろからそんな声がして、私と香織は同時に振り返る。
(……あ。)
華やかな笑みを浮かべてこちらを見つめていたのは、里桜だった。




