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「もう、後悔するのは嫌なんだ」
(“後悔”?……それって、)
答えを導き出す前に、サラッとした頼の茶色がかった前髪が、伏せていた私の視界に入った。そこからゆっくりと視線を上げると、頼が私をまっすぐ見下ろしていた。
(え?)
ソファーに座っていた私の肩に、そっと頼の手がかかる。
(えっ?ちょっと待ってよ!?)
まるで、確かめるみたいに。探るみたいに。
―――――そっと、近づいてくる頼の顔。
(うそ、―――うそうそ…どーしよ…っ)
目の前の頼から逃げられそうになくて、私は固く瞼を閉じて――――心臓が破裂しかけたその時。
「ただいまー!」
玄関のドアが開く音と、陽気な母の声。
別の意味で心臓が跳び跳ねて、まさに弾かれるみたいに私たちは離れた。
驚きのあまりソファーからずり落ちた私は、慌ててソファーに座り直す。
「律花ー、頼くん来てるのー?」
玄関の靴で察したのか、母がそう言いながら買い物袋を手に持ちキッチンから入ってリビングに顔を出した。
「お、お邪魔してます…」
ぎこちなくうちの母に会釈する頼をチラッと見て、私はハッとした。
「ちょ、ちょっと頼!アイス溶けてる!」
「ん?…あぁ!本当だ、ごめん!」
自分のアイスを慌てて口に入れて、私は急いでキッチンへと向かいタオルを持ってきて頼に渡す。でも間に合わなくて、頼の手元からポタリとアイスが床に垂れた。頼は慌てて洗面所へ手を洗いに行った。
「あらあら、そんなにアイス溶かすなんて。アイスを食べずに一体何してたのかしら?」
母が私と頼を交互に見ながらニヤニヤしている。
「べっ、別に!?普通に話しながら普通にアイス食べてた だけだし!」
「ふぅん…」
だからニヤニヤするな!と母に目で訴えてみたが、無駄だった。楽しそうにニヤついたままの母が、頼に声をかける。
「そうだ頼くん、今晩うちでごはん食べていかない?」
「「え?」」
私と頼の声がハモった。
(う、うちで!?)
いやいや、気まずいでしょ。
こんなうちの母になに言われるか分からないのに…。
「ダメ?頼くん何か都合悪い?今日も舞さん居ないし、良いでしょ?」
「お母さん、強引すぎでしょ。頼も困って…「いつもすみません、」
「じゃ、決まりね!!」
フォローしてあげようとしたのに、頼は母側についた。母は満足気に笑ってキッチンへと戻っていった。
「なんか、めっちゃテンション上がってるんだけど…」
ジト目で母を見ながら頼にそう呟くと、頼は楽しそうに笑った。
「じゃあ俺、一旦家帰るから」
「あ、うん…」
弥生さんお邪魔しました、と母に告げて頼は玄関に向かう。
「じゃ、後で」
「うん…」
頼が帰るって聞いた途端、ぽっかり穴が空いたみたいになる。
(私、もう……ダメなのかもしれない。)
玄関まで見送りに出ていた私は、あっさり出て行ってしまいそうな頼の背中に、つい声をかけていた。
「――――頼、」
まるで、引き留めてるみたいだと思った。
名残惜しいとか、寂しいとか……そんな感情がわいてきている自分に、戸惑っていた。
私の声に、靴を履き終えた頼が振り向く。
(これくらい……伝えなくちゃ…。)
頼が 好きだとか、両想いなんだよね?とか。
そんな事はまだ、云えないけど。
頼が伝えてくれたのが嬉しかったから。
私に気持ちを伝えてくれたのが、嬉しかったから。
(だから……、私も。)
「ありがと…ね」
「おう!」
私の精一杯で、ぶっきらぼうな“ありがとう”にも、頼は笑顔を返してくれた。それだけで胸が苦しくなる。
(ほら。―――――もう、ダメなのかもしれない…)