是非に及ばず
思えば静かな夜だった。
喉の渇きで目が覚めて、姿は見えなくとも必ず居ると解る。
「乱、喉が渇いた。」
「はっ!温めの白湯をお持ちしますゆえ今暫く。」
ふむ、相変わらず愛い奴である。
俺が欲しい時、欲しい物を瞬時に理解する。
俺も出世しすぎた、そして、人を見過ぎた。
本物の忠義など一握りの一握り。
俺に近寄り頭を下げるものは皆、汗をかき、唇を乾かし機嫌をとる。
汚い欲望の塊の様な面で嘘を吐く。
「それが戦国よ。」
などと、死んだ道三や信玄ならば言うだろう。
俺はそれが嫌なのだ。
戦も策も踊りも女も、火縄の匂いも好きだが、散々裏切られてきたからか、人そのものに嫌気がさす。
「民を思えば世をまとめるのが俺しかいなかった。
だから天下統一を進めたまで。」
誰を前にしても平気でそう言ってのけるこの男、何を隠そう戦国の覇者、織田信長である。
彼は今、本能寺に宿営していた。
少ない手勢だが京を襲う者などいる筈もない、天下統一は目前で近くには信忠もいる。
いざとなれば明智のキンカン頭もすぐに来る。
そう思っていた。
「……殿。」
「乱か、遅いな?……白湯はどうした?」
珍しい事もある。気の利いたこいつなら、深夜にこんな通る様な声は出さぬ筈だ。もしかしてこいつ寝呆けておるのか?
たった一言の言葉のトーンにも気を配りその変化にも気付いた。
だが、蘭丸への並々ならぬ愛情ゆえか、その本当の、意味までは気付かなかった。
「明智光秀、ご謀反にござる。御下知を。」
分からなかった。
蘭丸なりの洒落か?
いやいや、さすがに俺と蘭丸は、殿と乱と呼び合う仲。天主様等と呼ばれる昨今でもだ。
それにしても悪ふざけが過ぎる。手打ちにされてもおかしくない冗談だ。
これはキツく叱ってやらねば。
そう思い両手で襖をズパァアン!と開け放ち、控える蘭丸を射殺すように睨みつけた。
「殿、お逃げになるか腹を召されるか、ご決断を。いずれにしろ乱は殿のお側に。」
そう言った蘭丸の額にはうっすらと汗が張り付いていた。
しかし、その目には戦さ場で見せる、まるで、瞳の中で炎が踊っているような何とも勇ましい狂った目だった。
瞬時に信長は悟った。
自分の置かれているであろう状況、もはや逃げ道はないであろう事、蘭丸が俺と共に討ち死にを覚悟している事。
信長の眼つきが第六天魔王と言われるそれに変わるのに、瞬きする間もいらなかった。
「是非に及ばず」
そう言った信長の声は、蘭丸のこめかみから重く入り、心臓の深くに鉛が落ちたようだった。




