梅雨の旅人
「いいかいアメフラセ。お前は純粋な雨なんだから、味なんて知ってはいけないよ」
柔らかな言い方だったが、それには有無を言わせぬ力強さもあった。まだ五つにもならない、幼児期真っ只中なアメフラセは、ただ頷いた。
「うん」
言われたことの意味も解らぬままこくこくと、ひたすらそれを繰り返すだけだった。
味なんて、知らなくていい。
ううん、知ってはいけないもの。
そう、味も愛も、忘れなければいけないものなの。
――穢れた水を知ることなんかより、純粋で濁りない雨しか知らないほうがずっといいの。
雨の旅人に、味なんて必要なかった――
それはそう。
ある村の、ある梅雨の日の話。
透き通った光を放つ薄紅の傘に乗り、雨雲を引き連れて旅をする精霊『アメフラセ』
風に靡く蒼髪、そして左右で色が違う澄んだ瞳。触れれば壊れてしまいそうに線が細い、白皙の顔。それに似合った華奢な痩躯。腰に揺れるポシェットには、雨雲が詰めてある。
純白のワンピースを纏う姿は、普通の少女とまったく変わらない。
けれど彼女は、人と触れ合うことを一切知らない、孤独な旅人だった。
そして、味を覚えていない、雨の妖精。
「もう、時間……。雨は、おしまいなの……」
呟き、雨雲をかき集めるアメフラセ。ポシェットが持ち主の意思を代弁するかのように、暗い影を作った。
アメフラセは別れを惜しむ気持ちを捨て、梅雨を終わらせた村に小さく別れを言う。
「さようなら」
もちろん、返事は無い。
その代わり、雨が止んだことを喜ぶ子供の声が聞こえた。それがあまりに切なくて、アメフラセは自嘲の笑みを零した。
「でも、もう慣れたから。だから、平気」
傘を開き、しなやかな矮躯を柄に乗せて、音も無く蒼穹を駆ける。
村を見下ろせば、広場で遊ぶ子供たちが米粒サイズになって見え、わずかだが広場の喧騒さえ聞こえた。
(綺麗だなぁ)
しばらくふわふわと空を漂っていると、五月が終わり六月に入った村を見つけた。
「ここ、干からびてる……雨」
哀れみの含まれた、けれど優しい呟き。少し舌ったらずだが、鈴の音をそのまま声にしたような、凛と澄んだ声だった。
アメフラセは傘を閉じ、ゆっくりと瞬きをする。体が地上へふわりふわりと降りていくのを感じながら、少しずつ灰色の雲を取り出していった。
「あぅ……」
大樹の梢に足が触れそうになり、慌てて雨雲を回収、傘を開いて跳躍した。アメフラセの動きにあわせ、一陣の風が吹く。ざわ、と木々が呻くと数枚の若葉が舞い落ちた。
「うん」
特に意味はないが、とりあえず頷いてみた。
そしてまた、傘を閉じる。
今度は手早く雲を取り出し、辺りへ散らばせていった。空中に落ちた灰色の塊は、ふわりと広がって蒼空を薄黒に埋めていく。それは、水に墨汁を垂らしたような、ゆったりとした変化だった。
やがて快晴だった空が消え、途端に雨が降り出した。村は灰色の世界へと変わり、水気の無かった土は潤い、色を増す。
とん、と地面の感触が足に伝わる。アメフラセは、傘を杖にする形でその場に立った。
「これくらいで、いいかな…………」
しとしとと落ち続ける雫。冷たさが頬に触れ、アメフラセはようやく自分が傘を差していないことに気がついた。
アメフラセは無表情で空を見上げると、傘を差し、行く当てはないが村を歩き始めた。
村はまだ昼を過ぎた頃なのに、陽光を雲に遮られたため、ひっそりと薄暗い。
家は各自灯りを灯し、窓からはその光が漏れている。それを見て、アメフラセはこくんと首を傾げた。
(綺麗な光……あれはどうしてあんなに明るいんだろう?)
窓際に寄りかかる子供が、雨音を聞いてガラス窓を振り返った。アメフラセは反射的に木の陰に体を隠した。子供は透明な水滴を見て、言う。
「もう梅雨の季節なの?」
「そうだよ、もうアメフラセが来たんだ」
お父さんはそれに答えると、そっと窓辺に歩み寄った。からりと窓を開け、どこか遠くを見るような表情で空を見上げる。
「アメフラセ?」
「雨の旅人だよ。とても綺麗な、妖精さんだ」
「妖精さん……ぼく、雨は嫌いだな……。だって、お外で遊べないもん」
「そうかい?」
「うん、そうだよ」
子供はぷいと頬を膨らめると、恨めしそうに雨雲を睨んだ。そんな何気ない会話に、木の陰からそっと覗いていたアメフラセはふと寂しさを感じた。
「私は……雨。みんなは、雨が、嫌い……。そう、言われることは、もう慣れたのに……」
聞きなれているはずの言葉が、今日はなぜか痛かった。零れそうになる涙を振り払い、俯いてまた歩き出す。
(もう、温かさなんて、忘れたの)
歩くたびに、跳ね返った泥がワンピースの裾を汚していく。そろそろ涙腺が決壊しかけた時、後ろから誰かの声がした。
「アメフラセさん?」
零れていた涙を拭って、アメフラセは声のほうへと振り返る。
そこには、青い傘を差した一人の女性がいた。
「私に、なにか用でも?」
「長旅お疲れ様です。私の家に寄って行きませんか? あ、そうだ。紅茶でも飲んでいってください。温まりますよ?」
笑顔とともに差し出される手。そのさり気ない優しさが切なかった。アメフラセは、咄嗟に無表情になる。
「結構です」
アメフラセはそう告げると、踵を返して走り出した。
本当は人と話したかったけれど、触れ合った分だけ別れが悲しくなるから。
だから、もう――私は誰とも関わりたくない。
「待ってください……」
女性の声は雨音に掻き消され、残ったのは静寂だけ。走りながら、アメフラセは場所も何も憚ることなく嗚咽した。
(味は、知らないほうがいい。私は、雨の旅人……だから。旅人は留まることができない)
アメフラセは傘を放り投げると、両手に雨水を掬った。
透明で純粋な水。
味の無い、冷たい雫。
ようやく足を止め、湿った芝生の上に腰を下ろす。首を下に向ければ、雨粒を跳ね返す地面が視界を埋めた。
「アメフラセさん」
「…………! どうして、私と」
アメフラセは俯いたまま立ち上がった。そして、言葉を続ける。
「関わろうと、するんですか……?」
(人と一緒にいると、ずっとそこに、いたくなる。人も、愛も、知らないほうがいい)
すっと表情を消すアメフラセ。
それを見て、青い傘の女性はにっこりと微笑んだ。そして傘を閉じると、首から提げてあった水筒を芝生に下ろした。
ガラスでできた、脆くて綺麗な水筒。その静謐な輝きは、中に入れられた紅茶をそっと包んでいた。
コップを外し、中身を注ぐ。
「これ、飲んでみてください……。紅茶です」
差し出されるのは、澄んだ茶色の液体。ガラスのコップに注がれた濁水を見つめ、アメフラセは吐き気さえ覚えた。
「どうして、あなたは、こんなものが、飲めるの?」
露骨に嫌悪を撒き散らして、アメフラセは刺すような声で問うた。
「味を忘れてはいけないよ」
「なんで……? 味なんて、いらないの」
「この中に、一滴でも忘れられない、大切なおいしさが入っているのなら……それはどんなに澄み切った透明の水よりも、綺麗なんだよ。だから、知ることを恐れないで」
なにかを取り戻したように、アメフラセは怯えが残った手で、ガラスのコップを受け取った。繊手が包む、ガラスの器。それはきっと、もうどんなに美しい水よりか綺麗なもので。
「ありがとう」
アメフラセが笑って顔を上げれば、そこにはもう誰もいなくて。
「あ、れぇ?」
きっとで今のは、孤独な自分が見た幻想なんだ……と悲しみがこみ上げてくる。けれど、指に重さを感じて、ガラスのコップがあることに気づいた。
「…………現実、なの?」
唇を、ゆっくりとガラスに近づける。
温もりが、味が、そして優しさが舌に触れた。
「おいしい」
顔に広がる微笑みに、もう影は無かった。アメフラセは、大事そうに水筒をポケットにしまった。
そして、傘を開き、雨雲を片付ける。
全部しまい終えたところで、アメフラセはひょいと傘の柄に飛び乗ると、来たときと同じように音も無く蒼穹を駆けていった。
涙が一筋、最後を飾って。
「さようなら。…………ううん、また、いつか」
はらりと宙を舞うのは、透明なドロップ。透き通っている、甘くて少しだけ苦い、ドロップ。
それは、ころんと少年の手のひらへ着地する。
「なんだろ、これ?」
口に含めば、けれどそれは――
「甘い……ん? 少し酸っぱい! ねぇお父さん! ウメアメだよ、ウメアメ」
「梅雨はもう明けただろ」
開け放たれた窓から入り込む微風に、ふわりとカーテンが揺れた。少年は口の中に広がる味を感じながら、
「違うよ、梅雨の飴だよ。酸っぱくて、甘いんだ」
「そうかい」
「うん! そうだよ」
微笑んだ。
傘が風に揺れて、膝に置いた紅茶が軽く波立った。
(味わうことを恐れないでほしい)
呟いて村を見下ろせば、それは遥か向こうにあって。
「あ、あれ……んふふっ……」
ずっと遠くに青い傘を見つけ、アメフラセは小さく笑った。
村を陽光が包みこむ。
そして
(梅雨が明け、夏が始まる)