7
『巴』が閉店するという噂は瞬く間に広がった。母早苗があえて周囲に漏らしたらしい。
諦めきれずに「巴」の後片付けに通う。2階には祖母が住んでいた部屋がある。火事の生々しい爪跡が残る店内をそのままにしておくのは申し訳ない気がした。
床のワックス掛けをしていると、店のドアの外に人影が横切り、また戻る。何度も行き交ったあと、静かに扉が開いた。
「祥ちゃん」
遠慮がちに入って来たのは、透だった。
「寒いな」
と言うなり、開いていたジャンパーのファスナーを首まで絞める。祥子は着込んで動いている分何とかなっているが、エアコンを外したままの店内は芯から冷える。
「ほんとに、やめちゃうのかよ」
透は淋しげに店内を見回した。
「そうみたい。何だか、実感がないけど」
曖昧に笑う祥子を、透の強い眼差しが捕らえる。
「祥ちゃんは、やめたくないんだよな」
「え?」
「やりたいんだろ? だったら続けりゃいい」
「!」
瞬間涙がこぼれそうになり、慌てて後ろを向いて顔を隠した。
ボヤ騒ぎのあと、消防や警察、保険業者、出入りの食品業者とひとりで渡り合ってきた。
人手も、策も、資金も足りない。
女将としての度量も覚悟も足りない。
自分の非力さを嫌と言うほど思い知った。
投げ出したい気持ちと戦いながらどうにかやってきたところで、母が閉店を決めたのだ。
何度透に話したいと思ったか。
思わず縋り付きたくなる手をぐっと握りしめた。
「女将さんが腰悪くしてからは、実質店を回してんの、祥ちゃんだろ。やめるも続けるも、祥ちゃんが決めていいんだ」
口を挟む間もなく、透は畳み掛けてくる。
「祥ちゃんのやる気さえあれば、商工会を上げてバックアップする。市で『商店街店舗改装助成金』ってのがあって、うちが改装するときもそれを使ったんだ。『巴』も利用できるように俺がかけあってやる。また商店街が歯抜けになってくのは淋しいよ。頼む、俺たちのためにも続けてくれないか」
その言葉で、我に返った。
——透ちゃんは商工会青年部の会長だから。
商店街の行く末を案じて、店を閉めるなって言ってるんだ。
乾いた笑いが唇から漏れる。
我ながらおめでたい。
私のことを気にしてくれてるとばかり思い込んで。
火事からこのかた、ずっと胸に溜めていた感情が、水風船を落としたみたいにばしゃりと割れた。
「私が『巴』を続けたいのは! この店が好きだから! おばあちゃんの店を守りたいから! 商店街のためじゃない!」
いつも声を荒げることのない祥子の怒号に、透が怯む。それでも止められなかった。
「だけどエアコンも、冷蔵庫もだめになって。この床だってカウンターだって、何度磨いても元のような艶は出なくて。やめるな、って口で言うのは簡単だよ。でも無理。ひとりで店を再開するなんて無理! 誰も助けてなんかくれない! 私だけじゃどうにもならないんだよ!」
祥子は泣くまいとぐっと唇を噛みしめる。
ふたりの間に、長い沈黙が流れた。
「……ごめん」
深々と頭を下げ、先に口を開いたのは透だった。
「俺も、親父が倒れたとき、みんなに『八百初をつぶすな』、『がんばれ』って言われて、つらかった。やるのは俺だ、『がんばれ』なんて軽く言うな、こっちの苦労なんかこれっぽっちもわかんないくせにって……そう、思ってたのに」
頭を起こした透は泣きそうな顔をしていた。
「無責任な言い方して、ほんと、ごめん。でもさ。俺たちはみんな『巴』が大好きで、祥ちゃんの味方なんだ。それだけは間違いない。ほんとだよ」
悲しそうな目で『じゃあ』と呟くと、透は背中を丸めて出ていった。
扉が閉まったと同時に、うつむいた祥子の目からぽたり、と涙が落ちる。
「……私、最っ低」
八つ当たりもいいところだ。
透はきちんと具体的な解決案まで出して、励ましてくれたのに。
自分だけを見て、気にして欲しくて。
店にまで嫉妬するなんて、欲深い自分にほとほと呆れる。
——こんなに、透ちゃんが好きだったなんて。
『クールだよなあ。ってか余裕なのかな、祥子ちゃんは』
『シードラゴン』のマスターの言葉が胸を過ぎる。
本当は余裕なんかこれっぽっちもない。
あの日だってマスターたちが話していた女の子のことが、すごく気になって。
わからなかった『トランジスタ・グラマー』の意味を、家で調べた。
小柄でもメリハリのついた身体つきの、グラマーな女の子のことだと知って、改めてショックを受けた。
自分と、真逆だったから。
情けない気持ちで、片付け途中の店を見回す。
——もう、何もかも手遅れだ。店のことも、透ちゃんのことも。
祥子はその場に座り込み、ひとり声を上げて泣き崩れた。
ようやく火事の事後処理が終わったころ、もう年の瀬になっていた。商店街にはきらきらした飾りが付けられ、おせちの材料やクリスマス向けの商品が並んでいる。
クリスマス・イブ、いつもと変わらず1度は巴を見に行こうと思っていた矢先、母親に買い物につきあえと言われ、荷物持ちに駆り出された。
「いやー、今までずっと休んだことなかったからしらなかったけど、クリスマス・イブの街ってのはこんな感じなんだね。今夜はお父さんとどっかで外食でもしようか」
母はわざと浮かれた声を出す。
「どうぞ、ご自由に。私は行かない」
祥子は逃げるように自分の部屋に戻った。
クリスマスを祝うような気持ちには、到底なれない。
涙ながらに思い出すのは、年中クリスマスソングをかけている透のこと。
(やっぱり、クリスマスは何か特別なこと、するのかな)
大きなツリーを見に、女の子と一緒に出かけたりするんだろうか。自分とは似ても似つかない、明るいかわいい子と。
(もう、やだ)
勝手に自分で考えたくせに、悲しくなってくる。
——透ちゃん、透ちゃん。
ほとんど毎日会っていた彼の姿を、もう何週間も見ていない。店で働いていれば隣同士なのに、仕事を休んでいるとこんなにも遠い。
自然にあふれ出す涙をぐずぐずと拭っていると、祥子の携帯が鳴った。
『初沢 透』
焦がれる気持ちが、ディスプレイの文字になって現れたかと思った。
通話ボタンを押すまでの距離を、指が迷い震える。
それでも。
「もし、もし?」
緊張で声が掠れた。
「……おう」
彼の声が聞こえたとたん、安堵の息が漏れる。
(透ちゃんだ)
たったそれだけの声に泣きそうになる。
「今、時間大丈夫か」
「うん」
「あの、さ。よかったら、これからちょっと、出てこないか」
そう言われて、どきっとした。
まさかとは思うが、今夜はイブだ。
「出るって、どこへ?」
なるべくさりげない風を装って聞けば、透の答えは予想外のものだった。
「……『巴』」
「はっ?」
「だから、『巴』だって」
ロマンティックなイブを妄想した、愚かな自分を殴りたかった。
「聞こえてますっ」
要するに透は、もう一度『巴』の復活話を蒸し返そうとしているだけなのだ。商工会の青年部会長として。
「出て、来れる?」
「また店の話なんでしょ」
透は否定せずに押し黙る。
(やっぱり)
祥子のつむじはさらに曲がって、あれほど会いたかったくせに意地になってしまう。
「『巴』だったら、行かない」
「ちょっとでいいんだ」
「やだ。今日すっごく底冷えするし。『巴』エアコンないもん」
「なあ、祥ちゃん」
「やだってば」
だったら別な場所で、と言ってくれない透に焦れる。
(私、何やってんの)
自分の意固地さが嫌になる。このままでは会えなくなってしまうのに。何とかしなきゃ、と口を開こうとしたとき、電話の向こうから、ふう、と吐息が聞こえた
ついに呆れられた、と思ったら。
「とにかく、待ってる」
「え」
「来るまで、『巴』でずっと待ってるから。じゃな」
言うだけ言うと、ぶつっ、と電話は切れた。繋がっていない携帯の画面を眺め、途方に暮れる。
(どうしろ、っていうのよ)
ずっと待ってる、と言われても、『巴』の鍵は閉まっている。この寒い中、透は店の外で待つしかない。
店の前に立つ彼の姿を想像した。手に白い息をかけて擦り合わせながら、肩を縮め、冷たくなった爪先を動かして。
勤めに行った人たちも帰って来る時間だ。今日はクリスマス・イブ。商店街の人に見られたら、なんと思われるか。
「ったく、もう!」
祥子は自分の部屋に戻ると、荒々しくクローゼットを開けた。
「ちょっと、出てくる!」
玄関でブーティに足を入れながら、今にいる母に声をかけると、意外にも母は何も聞かず、『はいよ』と返事をするだけだった。
靴を履き終え、細い姿見に映った自分を見て舌打ちする。
(自分の店に行くだけだってのに、何浮かれてんのよ)
あれほど寒いから嫌と言っておきながら、来ているのは膝上のチェックのスカート。上半身は一張羅の黒いカシミアのセットアップで、ビジューがきらきらと輝いている。バーゲンでひと目惚れした、袖や衿周りにふわふわのファーの付いたコートを羽織って。
——ほんと馬鹿だ、私。
理由なんてどうでも、透ちゃんに会えるイブがうれしい。
「いってきます!」
母に追求される間を与えず、すかさず玄関のドアを開ける。
外は5時だというのにもう真っ暗だった。
——ん?
いつもと違う外の気配に、祥子の足が止まる。
辺りは妙に静かで、湿った重たい空気に包まれていた。
(なんだっけ、この感じ)
既視感を覚えながら、一歩、踏み出したとき、頬にそっと、冷たいものが落ちた。
「あ」
じわっ、とそのまま、肌の上に溶ける。
「……寒いと思ったら」
ちらちら、街灯に照らされて、白いものが降ってくるのが見える。
あまり降らない土地に住んでいるから、いつもその感覚を忘れる。
この冬初めてのひとひらを受ける度に、ああ、そうだった、と思い出す。
肌に溶ける、やわらかな冷たさ。
美しい六角形の結晶を創り出す空気の、しっとりとした重さ。
祥子は顔が濡れるのも構わず、漆黒の天を仰いだ。
「結晶が六角形だから『六つの花』って呼ぶんだってさ」
そう教えてくれたのは祖母の巴だった。
「死んだ六さん、あんたのじいさんが言ったんだよ。『六つの花』だから、甚六、俺の花だって」
冷たい花びらを受けながらそう語る、祖母の顔は柔らかな喜びに満ちていて。
子供心に思った。
——ああ、『むつの花』は、おばあちゃんにとっておじいちゃんからの手紙なんだ。
と。
冷たいけれど、あたたかな記憶。
そうしている間にも、むつの花の花びらは、次から次へと落ちてきた。
祖母から母へ、母から子へ。
愛しいひとへ。
見返りのない愛情のように、しんしん、しんしんと、降り積もる。
頬に、肩に、手のひらに。アーケードのない商店街のアスファルトや、街灯に飾り付けた赤や緑、金色のオーナメントにも、万遍なく降り注いで。
——初めて降るのが、クリスマス・イブだなんて、出来すぎてる。
クリスマスソングの好きな透の差し金のようで、癪だ。
今日会ったら、『ホワイト・クリスマスだな』なんてうれしそうに笑うんだろうか。
ブーティを履いた足が、早く早くと唆す。滑らないようしっかり地面を踏みしめながら、祥子は『巴』に向かった。