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 あれから。

 祥子は野菜の注文の電話を入れた最後に、さりげなく透に断りを入れた。

「来週は用があって。ごめん」

 もう行くつもりはないのに、ずっと行かない、とはどうしても言えなかった。

 1回、2回、と断っても透は、

「来週はどうする?」

 と必ず聞いてくる。彼の律儀さが切なかった。




 11月も後半ともなれば、朝晩冷え込む日が続く。午前3時前、祥子が後片付けを終え家に帰るころは身を切るような寒さだ。空を見上げればまだ月が煌々と照っていて、『八百初ストア』の前に止まる赤いピックアップトラックを照らしている。エンジンがかかり、マフラーが白い息を吐いていた。そろそろ出発するのだろう。

 透はせっせとフロントガラスを拭いていた。一旦布を置くと、大きな手を擦り合わせて『さみぃ』と呟く。

 あたりはまだ暗くても、祥子にはしっかりとその手の爪の形まで思い出せた。


 野菜のダンボールを運び、ピックアップトラックのハンドルを握る、節だった指。

 請求書を差し出すときの、つつましやかな仕草。

 マスターを突き飛ばして、祥子の身体をぐっと引き寄せた、あの力強い手。

 

 無骨でやさしいその手を。

 自分の両手で包んで、あたためてあげたかった。


 ——ああ、馬鹿だ、私。

 未練がましく、まだ、そんなこと。


 鼻の奥がつんとして、ピックアップトラックの赤い色がみるみる揺れる。


「祥ちゃん」


 祥子の姿に気付いた透に声をかけられたとたん、ぽろっと涙がこぼれた。


「どうした」

 慌てて駆け寄る透に、子供のように首を振る。

「なんでもないの。急に寒いとこに出たから、目がしばしばして」

 ハンカチで素早く目の周りを押さえると、無理矢理笑った。

「おはよ。透ちゃんはこれから市場? ご苦労さま」

「お、おう。祥ちゃんもお疲れ」

 気遣わしげな透の視線を避けるように、祥子は家路へと急いだ。




 木目調のエアコンも暖房に切り替わり、忘年会の予約も少しずつ入り始めた。一年が早いなあ、と思いながら、祥子は酎ハイを作っていた。金曜日の深夜、1杯飲みながらお好み焼きをつまむサラリーマンが数組入っている。母の早苗もお好み焼きを焼きつつ、得意の話術でお客を笑わせている。


「ちょっと祥ちゃん、何か変な匂いしない?」

 エアコンの近くの席に座っていた常連のひとりが、くんくんと鼻を鳴らした。

「変な匂い?」

 古いエアコンだ、故障してもおかしくない。祥子は酎ハイをお客のテーブルに置くと、エアコンに近寄った。確かに、焦げ臭いような匂いがする。

「ちょっと止めてみようか」

 母の早苗がリモコンのボタンを押したとき。


 ——どん。  


 店の外から鈍い破裂音がした。

 驚いた早苗が、ひい、と叫んでリモコンを取り落とす。


「何の音?」


 音がしたのはエアコンの裏側、ちょうど室外機の辺り。『巴』の右隣は廃業した雑貨屋で、室外機はその壁に面した細い隙間に置いてある。

「ちょっと見てくる!」

 慌てて外に飛び出した祥子は、そこに見える光景に息を飲んだ。


 目に飛び込んできたのは、濛々(もうもう)と吹き出す煙。


 街灯に照らされた『巴』と雑貨屋の壁の隙間から、大量の煙が立ち上ってくる。壁の隙間、室外機の近くには、数年前から雑貨屋が残していった壊れたパイプ椅子や黒いビニール袋などが積まれたままになっていた。そのがらくたの中から朱色の炎がその身をうねらせ、壁を舐めるように巻き上がる。充満した煙で室外機の様子はとても見えない。雑貨屋の白壁が煤にまみれて黒く染まった。


 ——火事だ! ぼうっとしている場合じゃない!


 祥子は店に駆け戻った。


「火事! 燃えてる! お客さん、お勘定はいいから、早く逃げて! お母さん、119番!」


 一声叫ぶと、厨房脇の消火器をひっつかんだ。その後ろ姿に早苗が声をかける。

「祥子、火事って!」

「お母さん、とにかく119番! 私『八百初』に知らせてくる!」

「あ、ああ!」 

 早苗が電話の受話器を取るのを確認すると、祥子は消火器をもったまま『八百初』へ走る。今の時間、透たちは眠っているはずだった。


「透ちゃん! 火事だよ! 透ちゃん! 起きて!」


 閉まっているシャッターを無我夢中で叩いた。起きてくるのを確かめている暇はない。スマホで透の番号にかけると、応答を待たずにエプロンのポケットに突っ込んだ。そのまま火元に走りながら消火器のレバーを必死で探る。説明の文字を読もうとするが暗くて見えず、どうやったら使えるのかわからない。

 ——どうしよう、どうしよう!

 震える手を嘲笑うかのように、炎は風をはらんで勢いを増す。煙で目や喉が痛んで、涙をこぼしながら咳き込んだ。

 ——透ちゃん、助けて!

 心の中でそう叫んだとき。


「——祥子ぉーーっ!」


 大きな声で名を呼ばれ、後ろから肩をぐいと引かれた。転びそうになりながら振り返ると、透が寝間着のスウェット姿のまま、息を切らして立っていた。


「怪我ないか! 下がってろ!」


 叫ぶなり祥子の手から消火器をひったくる。

 透は驚くほど冷静だった。燃えさかる炎を睨むと慎重に近寄り、レバーの頭にあるピンを引き抜く。ホースを構えレバーを引いたとたん、消火液が勢いよく噴き出した。透は裸足にサンダルを突っかけただけの足を踏ん張り、火元の一点にしっかりホースを向ける。

 祥子は邪魔だとわかっていてもとても下がる気になれず、透のスウェットの背中を握りしめていた。がたがたと身体が震える。

 消防車のサイレンが遠く聞こえてきた。

 


 

 透の活躍もあって火事はボヤ程度で済み、駆けつけた消防隊や町の消防団がまもなく火を消し止めた。

 しかし大変なのはそのあとだった。

 『巴』の店内までは燃えなかったが、熱で割れた窓から消火ホースの水が大量に入った。室外機が燃えたエアコンは言うまでも無く、モスグリーンの冷蔵庫も濡れたために壊れた。さらに悲惨だったのは祖母の代から磨き上げられてきた床やカウンターの板張りで、水浸しになって乾いた後は、がさがさと見る影もなく白茶けた。数十年かけて守ってきたものが、たった一晩で。明るさが売りの母早苗も、この惨状に言葉をなくした。

「けが人が出なくてよかった」

 言える慰めはそれだけだった。

 無事だった食器や食材を被害のなかった2階に運び込み、後始末に追われながら、費用はどのくらい掛かるのだろうと途方に暮れた。冷蔵庫とエアコンなしで『巴』の営業は無理だ。いつから再開できるのかめどすら立たず、年内の宴会はキャンセルさせてもらうしかなかった。


 火事の原因を調査するべく、消防や警察も入り検証が行われた。

 結果、火元はエアコンの室外機ではなく、放火だった。

 隣の雑貨屋が置いたままにしていたゴミ袋が燃やされたらしい。燃え跡から100円ライターが発見された。この近辺で不審火が相次いでいるのはニュースで聞いていたが、まさか自分の身に降りかかってくるとは思わなかった。犯人はまだ捕まっていない。『巴』が原因でなかったことが唯一の救いだったが、事はそれだけではすまなかった。

 現場をスマホで撮影していた野次馬が、有名動画サイトに火事の様子を公開したのだ。しかもそのタイトルを『お好み焼き屋から出火』としたために、『巴』が火災の原因だったという噂がまことしやかに広がった。

『祥ちゃん、怒んないで聞いてくれよ。俺は祥ちゃんたちを信じてるし、不審火だってことも知ってるんだけど』

 成田屋からそれを聞き、祥子は愕然とした。

 ただでさえ古い建物で、年季の入ったエアコンや冷蔵庫を使っていたのは周知の事実だ。漏電だ、いや厨房の火の不始末だと、噂にはどんどん尾ひれがついた。

「あたしは、もう、情けなくって! 何のために今まで頑張って『巴』をやってきたんだか!」

 母親の早苗は嘆きのあまり寝込んでしまった。

 祥子もショックだったが、一緒に寝込んでいる場合ではない。り災状況申告書を書き、保険会社に連絡して火災保険の手続きをとる。保険鑑定人が現場を見終わったら、電気のない寒い中、水浸しになった店の後片付けだ。水が引いたら、電力会社に連絡して止めてあった電気の再開手続きをする。壊れた電気製品の引き取りを頼んで、新しい冷蔵庫やエアコンも選ばなければならない。

(……疲れた)

 みじめな思いで雑然とした店の中を見回す。

 祖母や母が立ち回り、明るい活気に溢れていた『巴』。一晩で、こんなことになるなんて。

 祖母が生きていたら、何と言うだろう。祥子は涙を拭いながら火事の後始末に追われた。




「祥子。ちょっと、そこに座って」

 床にワックス掛けをしていると、母の早苗が座敷席に座って手招きをした。

「なあに。ワックスむらになっちゃうから、最後までかけてからでいい?」

 モップを再び構える祥子に、早苗は首を振った。

「もう、いいよ」

「え?」

「もう、そんなことしなくていい」

 母はいつになく真剣な顔で祥子を見つめた。


「祥子。『巴』はもうおしまいにしよう」


「おしまい?」

 余りに唐突で、言葉の意味をすぐには理解出来なかった。

「店を、閉めるんだよ。一生懸命働いてきたつもりだったのに、こんなことになっちゃって。うちが火元じゃないって言っても、お客さんや町内の人までわけわかんない噂話のほうを信じるし。人情も地に落ちたもんだよねえ。もうほとほと疲れちゃったよ。腰や肩もガタがきてるし、気力もなくなった。あたしももう年だね」

「何言ってんの、いつも年寄り扱いすると怒るくせに! だいたい『巴』をやめて食べていけんの?」

「つましく暮らせばお父さんの稼ぎだけでなんとかなるって。あんただって店がなけりゃ心置きなく嫁に行けるだろ?」

 はっとする祥子の顔を見て、早苗はえへへ、と笑った。

「火事の時の透ちゃん、かっこよかったよねえ。商工会の避難訓練で消火器使ったことがあったんだってね。大事そうに祥子を背中にかばって、スーパーマンみたいだった。あれには惚れ直したろ?」

「お母さん! 透ちゃんは私のことなんて幼なじみとしか」

「よく言うよ。水曜日、こそこそふたりで出かけたくせに」

 早苗は肘で娘を小突いた。

「我慢しないで、大手を振って好きな人と一緒になりな。火事はあたしたちのせいじゃないし、おばあちゃんも許してくれるって」

「お母さん、嫌だよ」

 子供のように泣きながら首を振る。

「私、お好み焼き焼くくらいしかできないんだよ。他に何にも取り柄がない。愛想もよくなければ美人でもないし、『巴』がなくなったら」

「好きな人のためなら、八百屋のおかみさんだってなんだってできるさ。それにもう、あたしは決めたんだ」

 誰より『巴』を大事にしていた母早苗。身体を壊すまで店を磨き、毎日神棚に手を合わせて商売繁盛を祈っていた。その店を手放してまで、決まってもいない娘の幸せを願うのか。透とは結婚はおろかお互いの気持ちすらわからないというのに。祥子にはその気持ちが痛い。

「年明けには、どうするか考えよう。取り壊すか、ある程度直して貸すか。古い家の上にぼや騒ぎまであっちゃ、買い手がつくかどうかわかんないけどね」

 母は無理に笑みを作ると、よっこらしょう、と声を上げて立ち上がる。火事の騒ぎのストレスでげっそりと痩せたその顔は、格段に老けて見えた。


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