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 以来水曜日になると、祥子は透のピックアップトラックの同乗者となった。

 幸い商店街が休みなので、誰かに見咎められることはない。一番やっかいな母の早苗も、前夜の疲れと腰の痛みで、休日は昼まで寝ているのが常だった。透自身は何も言わなかったが、助手席に座ると、ドリンクホルダーにはいつも2本のペットボトルが用意されていた。


「透ちゃんは、店で売るより配達重視?」

「いや、基本はやっぱ店だよ。地元あっての『八百初』じゃん」

 配達先を回りながらの四方山話は、自然と仕事や家族の話題が多くなる。店が隣同士で、幼稚園から中学までずっと一緒の同級生。大人の会話をするのは、少しくすぐったい。

「親父がさ、自分が入院してた間もずっと通い続けてくれたお客さんが、ほんとにありがたい、って。もっとお客さんに喜ばれる店を作りたい、ってんで相談して店を改装したんだ。万屋よろずやみたいにいろんなもん置いて」

 透が本格的に店を継いでから、『八百初』は『八百初ストア』になり、野菜や果物のみならず、醤油やパン粉、カレーのルーや蜂蜜まで売るようになった。

「八百屋が青果以外を扱うのは邪道だろうし、品が増えた分、在庫管理も増える。だけど、うちの店に来て『あ、これが足りない』って思った客は、『じゃ、次はスーパーに行こう』ってなるじゃん。料理や食事に必要な最低限のものだけは、揃えておくようにしようと思って」

 明るく働いているだけに見える彼は、意外にも戦略家だった。

「透ちゃんって、結構チャレンジャーだよね。新しいもの、どんどん取り入れるし」

「んー、確実に世の中が変わってきて、元のまま店を守るってのも難しいからな。祥ちゃんのとこだってそうだろ?」

「うーん、基本うちはおばあちゃんの味を守ってるだけかも」

「祥ちゃん、ばあちゃん子だったもんな」

 透は目を細めた。そういう透も、祥子の祖母によく懐いていた。祖母にもらったおやつを喜んで頬張る、半ズボン姿の透を思い出す。

「やっぱ、敵わないんだよね。おばあちゃんには。うちのお好み焼き、粗みじんのキャベツをどっさりいれるでしょ。あれ、昔からおばあちゃんに教わったとおりのやり方なの。切り方も、根っこの方と上の方では違うし、切ってから冷蔵庫で冷やす時間も、春夏と秋冬では変えて」

「へえ」

「毎日毎日、キャベツばっか刻んで。手が痛くてしびれて、包丁を握れないときもあって。店を手伝い始めたころ、つらくてお母さんに『どうせ焼くんだし、適当にやっても変わんないよ』って言ったのね。そしたら『じゃあ、やってみてごらんよ。おばあちゃんのやりかたじゃないと絶対おいしく焼けないから』って」

 透が黙って聞いてくれるから、いつもひとりで飲み込んでいる弱音が、つい、こぼれる。

「やってみたら、悔しいけど、確かに言われたとおりに刻んだほうがおいしいの。もしかしたら、お客さんにはわかんない差かもしれないんだけどね」

 透のふわふわ頭がこくこく、と頷いた。

「そうそう。八百屋もさ、今は市場になんか行かずに、ネットやFAXで発注する店のほうが多いわけ。だけどやっぱり実際に見て、いいもの選んでくるのも八百屋の裁量だと思うんだよ。だれだってしなびたキャベツより、ぱりぱりの生きのいいキャベツのがいいもんな」

 その心意気は伝わり、『巴』のキャベツは祖母や母の代からずっと『八百初』だ。透の持ってくるキャベツは葉脈までぴかぴかと張り、巻きがしっかり入った新鮮なものばかり。決してごまかすことはない。キャベツが『巴』の命だと、ちゃんとわかってくれているのだ。

 

「お客さんに見えてる部分ってのは、ほんとにちっちぇえんだよな。そのちっちぇえところが、いつだってぴかぴか光ってるように、毎日黙って磨きをかける。商売ってそういうもんだと、俺は思う」


 透の声の後ろでかかるクリスマスソングは、『Angels We Have Heard On High(荒野の果てに)』。グローリア、栄光あれ。ささやかな意気込みを後押しする、神々しい響きだ。透はハンドルを握りしめ、誇らしげに前を向く。いっぱしの男の顔をした幼なじみが眩しい。


「……透ちゃん、かーっこいい」


 照れくさくて、褒め言葉がつい野次になった。透も、かはは、と大口を開いて笑う。

「もっと言って。俺、褒めると伸びるタイプ」




「いらっしゃい。おっ、祥子ちゃん、今日のそのワンピースの色、いいねえ。秋らしい」

 『シードラゴン』のマスターは、行けばさりげなくどこかしらを褒めてくれる。

「え、あ、こういう地味なのしか、持ってないから」

 透と違い、祥子は素直に礼も言えず、もごもごとカウンター席に座るのが常だった。客商売をしているわりに人見知りな祥子は、あからさまな男性のアプローチが苦手だ。そんな祥子を困らせながらも、このマスターはするりと懐に入ってくるのがうまかった。お節介だが、彼が言うとなぜか押しつけがましさを感じない。母親に言われれば煙たがる恋愛指南にも、気付けばつい耳を傾けている。

「この俺が再婚できたんだぜ? 祥子ちゃんはいい女なんだからもっと自信持ちな。透がだめなら、俺がいい奴紹介してやるから」

「またそっちの話。祥ちゃんもうんざりだろ」

 半ば呆れる透に、マスターは、ちっちっち、とひとさし指を振る。

「恋愛はさあ、タイミングなんだよ。俺、馬鹿やって、つまんない意地張って玲子と一度は別れて。今でも後悔してるわけ。あんなとびっきりの女、長い間ほっといて損したなあ、って」

「うわ。結局、惚気、すか」

「はは、まあな。でもマジな話、ここぞ、と思ったときには、がんばんなきゃだめだよ? 祥子ちゃん」

 マスターは再び祥子のほうに乗り出す。

「男は臆病だからさ。そのときになったら、ちょっと隙を与えてチャンスを待つんだ。上目遣いで、顎を引いて、じっと彼を見るんだよ。あとは頷くだけでいい」

 マスターは恋する乙女よろしく両手を胸に当て、ぱちぱちと目を瞬かせてみせる。その様子を透が鼻で笑った。

「おい、透。笑い事じゃないって。恋の神様には後ろ髪がないんだぞ」

「へいへい、そうでございますか」


 ——恋の、神様、か。

 ふっと祥子の溜息が漏れる。

 自分にはきっと、その後ろ姿さえ見えない。                           


「ほら、マスター、祥ちゃんがあきれてるだろ。そろそろ、帰るか、祥ちゃん、なっ?」

 なのに、透が促すように背に触れただけで、どきっとする。

 その理由を考えないことにして、祥子は慌てて席を立つ。マスターの意味深な視線に気付かないふりをして。

 



「おう、久しぶり」

 秋も深まってきたその日、『シードラゴン』にやってきたのは、透とサーフショップをやっていたユージという友達だった。やはりピックアップトラックに乗ってリサイクルショップをやっているというから、透と同じ『マスター信者』に違いない。ごつい指輪をいくつもはめ、片耳にピアスが光るその男は、脇にいる祥子を上から下まで眺め、にやにや笑う。

「なるほどね、透の本命はスレンダーな清純派か」

 今日の祥子は白いブラウスにカーディガン、ベロアのフレアスカート。凹凸のない身体や地味な見てくれを、苦し紛れにそう言ってくれたのだろう。世慣れた男に褒められても、気後れするばかりだ。

「そういうんじゃねえよ。幼なじみだ、って」

「照れんな、照れんな。だからあの子がガンガンきてもだめだったんだ」

「あの子?」

「とぼけんなよ、ほら」

 友人は手で、胸の辺りに大きな膨らみを作ってみせる。

「お前な」

 雲行きが怪しくなり、透は友人を睨むが、今度はマスターが口を挟んできた。

「ああ、あのトランジスタ・グラマーか。何て名前だっけ、リオちゃん? 確か、透が通ってた野菜ソムリエの教室まで押しかけてったんだろ?」

 野菜ソムリエの教室。聞き覚えのある話にどきっとした。

『透ちゃん、商売の一環で野菜ソムリエの教室通ってるらしいよ。男性ひとりでモテモテだって』

 みちるが聞いた噂はあながち間違っていなかったらしい。マスターが話に乗ってきたことで気を良くして、友人の舌も滑らかになる。

「そうそう。なのに、結局あのスキューバ野郎に鞍替えしてさ。彼女、今フリーらしいぜ。今日、透に会うって言ったら、『えー、あたしも会いたーい』なんて言っちゃって。どうする?」

「おお、これは波乱の恋の予感。オジサン、どきどきだなあ」

 面白がって騒ぎ立てる男たちに、透だけが憮然とした顔をする。

「もうその話はいいから! ユージ、お前、新しいカーステ入れたんだろ? 見せろって、ほら!」

 ぐいぐいと友人の肩を押しながら、外へ出て行ってしまった。

 祥子が静かにコーヒーを飲んでいると、ふっと、マスターの笑う気配がする。

「クールだよなあ。ってか余裕なのかな、祥子ちゃんは」

「はい?」

「彼の過去に、妬いたりしないの」

 マスターが透のことでからかうのは、一種のコミュニケーションだと思うことにしている。黙って肩をすくめると、マスターも肩をすくめ返してきた。

「つまんないな。わざと盛り上げてみたのに」

 確信犯か。そこまでやるとは思わず、さすがに呆れる。

「わざと、って、マスター。いい大人なんですから勘弁してくださいよ」

「祥子ちゃん、そんな悠長に構えてていいのかなあ」

「は?」

 思わず目を見開くと、マスターは思いの外真面目な顔をしていた。 

「前にも言ったけど、透は結構お買い得物件だよ。こっちにいたときはそこそこ遊んでもててたし、やさしいから向こうからアプローチされれば強く拒絶できない。ほんとに、どっかのグラマーにかっさらわれても知らないぜ?」

「あのですね、私は」

「『ただの、幼なじみ』。リフレイン、同じ歌詞を繰り返し。何かもう君たち、古い流行歌みたいだよねえ」

 呆れたように肩をすくめる。

「透も同じことを言うけど、あいつはほんと単純馬鹿だからさ、見え見えなんだよね。配達のついでなんていいながら、ここに祥子ちゃんを連れてきて。『こいつ、俺の。いい女だろ』的な、あの自慢げな顔ったらさ」

「私みたいなの、自慢になんかなりませんよ。透ちゃんはマスターが大好きで、私に紹介したかっただけで」

「その大好きな俺んとこに、自分から女の子連れてくるなんて初めてなんだぜ? うちの店に来れば、盛大にからかわれるのもわかってる。なのにわざわざ来るのは、大事な君を俺に見てほしいからだ。猫が捕ったネズミを飼い主に見せるみたいに」

 マスターはじっと祥子を見据えた。

「祥子ちゃんだって、そうだ。幼なじみだ、誤解されるのが嫌だ、って言うんなら、ふたりきりで出かけなきゃいい。まんざらでもないから、こんな『デートごっこ』に付き合ってるんだろ?」


 ——『デートごっこ』。

 どきん、とした。

 余りに的を射た言葉だったから。


 水曜日が待ち遠しくてわくわくしていた。

 普段着ないスカートを着て彼の助手席に乗る。並んだペットボトル、他愛ないお喋り。はじめは鬱陶しかったエンドレスのクリスマスソングも、いつしか好きになっていた。透と一緒に、野菜を届けるサンタになった気がして。

 だけど。

 ——どうせふたりの未来は重ならない。

 わかってる。

 わかっているけど、わからないふりをしていた。


 ひたむきに仕事に没頭する透。老いた父親。女手のない彼の家には、しっかり家庭を守り、彼をサポートをしてくれる女性こそ必要なのだ。夜中まで働くお好み焼き屋の女などお呼びではない。


 ずっとこのまま、お隣同士、幼なじみのまま、助手席に乗っていたかった。

 透のそばは、あまりにも居心地がよすぎる。


 恨みがましく見上げれば、マスターはなぜか不敵に笑っていた。ちら、と入り口のドアのほうに目をやると、ずい、と顔を近づける。


「ねえ、祥子ちゃん、俺の目、見て」


「目?」

 唐突に何だろうと思いつつ、言われるがままマスターの瞳を覗き込む。

「うん、俺ね、少女漫画みたいに目の中に星があるの」

「星、ですか?」

「そ。虹彩、っていうの? 瞳の絞りの端っこのとこに、生まれつき傷があるんだけど、それがマジで星の形してるんだよ」

「え、自然にそうなったんですか」

「うん、ここ。ちっちゃいけどちゃんと星形してるでしょ。わかる?」

 遠くからではよくわからない。カウンター席から立ち上がり、厨房側に立つマスターの目を覗き込むと。

「きゃっ……!」

 祥子の後頭部にマスターの手が回って、強く引き寄せられる。倒れ込みそうになり、小さな声を上げてカウンターに手をついたその時。


「こ……の!」


 後頭部の手が振り払われ、マスターの身体がそのまま勢いよくカウンターの中に沈んだ。派手に食器が落ちる音がする。

 何が起きたか確かめる間もなく、揺らいだ身体が引っぱられた。

 目の前には見慣れたシャツのカーキ色。

 どく、どく、と大きな心臓の音が頬から伝わる。

 透の、胸だ。

 祥子は、透にしっかりと抱きしめられていた。

 熱い体温、男くさい肌の香り。しっかりと筋肉の付いた体躯。

「……透、ちゃん」

 おずおず見上げると、透はぐっと息を飲んで苦悶の表情を浮かべる。

「畜生」

「痛っ!」

 透のシャツの袖口が、荒々しく祥子の唇を擦った。

「くっそ」

 毒づきながら何度も袖口を擦りつける。

 その仕草でやっとわかった。

(キスされた、と思ったんだ)

 違う、と言おうとして、彼の顔にぎょっとした。

 カウンターの中を睨む、鬼のような形相。

 尻餅をついてうつむいたままのマスターに、透は祥子を抱えたまま吠えた。


「ふざけんな! 祥ちゃんはおっさんの火遊びにつきあわせるような、そんな安っぽい女じゃねえんだよ!」


 啖呵を切った透は、息を切らして大きく肩を揺らす。胸の鼓動は祥子を弾かんばかりに打ち鳴り、祥子にも伝染した。

 対するマスターは身じろぎして、乱れた髪を掻き上げた。垂れていた前髪で見えなかった彼の表情が見える。

 あろうことか、彼は笑っていた。


「ああ、それには、俺も同感だ」


「はあっ?」


 透は異変に気付き、祥子とマスターの顔を見比べる。


「透ちゃん、違うの! マスターの目の中、星型の傷がある、っていうから、覗いただけで、あの」

 慌てて捲し立てると、透は目を丸くする。信じて、と言うように、祥子は何度も頷いた。


「……マジ、かよっ!」


 かあっと真っ赤になった透が口に手を当てながらマスターを睨む。マスターは高らかに笑った。


「俺が玲子以外の女に手を出すかよ。ま、これ実際、若いころ、女の子とキスするのに使ったテクだけど」

「なっ」

「悪かった。俺もやりすぎたよ。でも打った腰はいてえし、ここまでやるこたあ、ないんじゃねえの? この落とし前は、どうつけてくれる?」

 割れた皿を見せつけるマスターに、透はもごもごと詫びると、さらに真っ赤になって縮こまった。

 



 帰りの車の中で、ふたりは言葉少なだった。

 敢えて避けてきた男女としての生々しさを目の前に突き付けられた気がした。透があれほど逆上したわけをつい、考えてしまう。必死で自分を守ろうとしてくれた。

 ——それは、まさか、もしかしたら、でも。

 祥子の心は千々に乱れる。ややもすれば走り出しそうな心をぐっと抑えた。

「ま、よかったよ。勘違いで。あのマスター、ほんと人が悪くて」

 沈黙に耐えかねて、ぺらぺら話し始めたのは透だった。


「よかったよ、マジで。祥ちゃんに何かあったら、女将さんにぶっとばされるもんな」


 母親のことを言われて、すっと冷静になった。

 そうか。別に、特別なことじゃないんだ。

 幼なじみだから。

 きっとみちるでもぶんちゃんでも同じようにするんだ。

 透ちゃんがやさしいから、助手席に乗せてくれるから、勘違いしてしまった。


 そう納得させようとするが、胸をつかまれたように苦しくなる。

 苦しい、苦しい。胸の上に乗った薄紙の上を、掻きむしっているみたいだ。

 隣にいる透に気付かれないように荒い息を逃し、必死で藻掻き続ける。

 楽になるには、どうしたらいい。


『幼なじみだ、誤解されるのが嫌だ、って言うんなら、ふたりきりで出かけなきゃいい。まんざらでもないから、こんな“デートごっこ”に付き合ってるんだろ?』


 マスターの言葉がすとんと胸に落ちた。


 ——助手席に乗るのは、もうやめよう。


 『デートごっこ』はもうおしまい。

 泣きたい気持ちを堪えて、祥子は窓の外の海に目をこらした。









 

    

  

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