番外編SS 「あちちのち」
「パパ、帰ってきた!」
みちるが夕餉の支度をしていると、ドアの鍵が開く音に息子の陽介が立ち上がる。
「おかえりなちゃーい!」
父親の俊介は、駆け寄る陽介を鞄を持ったまま抱き上げる。
「ただいま。いい子にしてたか?」
「うん、ちてた!」
「即答か。ほんとかよ」
そう言いながら俊介は息子の頭を撫でる。
「ただいま。夕飯、何?」
陽介を抱いたまま俊介はキッチンに入ってくる。
「おかえり。クラムチャウダーだよ」
振り返ったみちるに、俊介は陽介を抱いたまま手を伸ばす。そのまま抱き寄せようとすると、陽介が唸りながら腕を突っ張る。
「だめ! パパは手を洗ってから!」
「何で? 陽介はそのまま抱っこしたじゃんか」
「ママはお料理ちゅう! ばっちいの、だめ!」
「うっ」
最近の陽介は何かと父の俊介と張り合う。特に母みちるに関しては顕著で、俊介がべたべたするのを嫌って、悉く妨害するのだ。
「……ったく」
俊介は陽介を下ろして、渋々洗面所に向かった。
「これでいいだろ」
手を洗った俊介がキッチンに戻ると、陽介はがっちりとみちるの足にまとわりついている。すでに臨戦の構えである。
「陽介、あぶないよ。ママ、火使ってるんだから」
そう言いながらみちるも甘えられるのが満更ではない様子だ。舌打ちしてそれでも近寄ろうとする俊介に、陽介が足で蹴りを入れようとする。
「だめでしゅ!」
「うわ!」
陽介に足をつかまれていたみちるは、バランスを崩して倒れそうになる。熱く焼かれた鍋肌に手が触れた。
「あっつ!」
大きく反り返ったみちるの身体を、夫が後ろから抱え込む。さすがにびっくりした息子の陽介は母の足を離してそのまま後退った。俊介はすぐに水を出すとみちるの手をその中に突っ込む。
「痛むか」
「うん、ちょっと」
みちるの顔が歪む。
「ママ……」
泣きそうになりながら見上げてくる陽介に、みちるは元気づけるように笑ってみせた。
「大丈夫だよ。でももうキッチンで暴れちゃだめね?」
「ごめんなちゃい」
縮こまる陽介の頭を俊介が撫でた。
「俺も、ごめんな」
幼児の陽介と張り合ったことを、一応反省しているらしい。
「陽介、そこのタオル、取ってくれるか」
「あい」
「おう、ありがとな」
小さな手が差し出したタオルでふたりの手をまとめて拭いていると、陽介がふたたび近寄ってきた。
「あい」
それは棚に乗っていた救急箱だった。椅子に乗って何とか取ってきたらしい。
「えらいぞ、陽介は役に立つな」
父親に褒められ、陽介はぱあっと顔を輝かせた。ダイニングの椅子に座って夫に薬を塗られているみちるの膝に再び纏わり付く。
「いたい? ねえ、いたい?」
「うん、ちょっとね」
ふたりの会話に、俊介がにっこり笑った。
「大丈夫。パパがとっておきのお薬、使うから」
「とっておき?」
きょとんとするみちるに絆創膏を貼ると、俊介は妻の唇にちゅっ、と口づけた。
「あーっ! ちゅーした! ずるい! しかもおくち!」
じたばたする陽介を、父親の俊介はもっともらしく戒める。
「これはお薬だから、ずるくない。火傷のときは『くちちゅー』が一番効くんだ」
「ぼくも! ぼくも!」
「これはね、結婚した大人同士がやらないと効かないんだよ」
「そっかー」
項垂れる息子の前で、小さくガッツポーズをする大人げない夫。
「あのね……」
呆れながら見つめるみちるに、俊介は悪びれずににやっと笑った。
FIN