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 もうすぐ午前3時。

 シャッターの閉まった商店街の一角にある、お好み焼き屋「巴」。

 若女将の祥子しょうこが後片付けを終え、自宅に帰ろうと店の鍵を閉めるころ。

 隣の店には、煌々と明かりが灯っている。

『八百初ストア』。

 市場に仕入れに行くとおるが、赤いピックアップトラックにエンジンを駆け、準備をしているのだ。


「透ちゃん、おはよ。ご苦労さま」

「おう、祥ちゃん、おつかれ。おやすみ」


 彼の「おはよう」は、私の「おやすみ」。


 闇夜に航海をしたことはないけれど。

 何の目印もない漆黒の彼方に、遠く灯台の光を見つけたら、きっとこんな気持ちだろう。


 まだ空に居残る月だけが、ふたりを見ている。

 



 ——とんとんとんとん。

 軽快な音と共に、まな板の上には粗みじんにしたキャベツがあっという間に山になる。

 今は8月、夏真っ盛りの午後2時半。

 お好み焼き屋『巴』はランチタイムが終わったところ。後片付けもおわり、祥子は夜の部の仕込みを始めていた。

 木目調のおんぼろエアコンが、がたぴし文句を言いながらフル稼働している。


 『巴』とは亡くなった祖母の名前だ。連れ合いである祖父が名付けたというから、仲のいい夫婦だったのだろう。祖父 甚六じんろくは出自が謎の人物で、戦後のどさくさの中ふらりとこの界隈にやってきて、いつのまにか祖母の家に住み着いたのだという。大店おおだなの呉服屋の六男坊だったとか、闇の仕事の手配師だったとか、怪しげな噂は数え切れない。それというのも、この『巴』を開業するにあたり、ことげに、ぽん、と資金を出したあと、開店を見届けた翌日に他界してしまったからだ。祖母は涙に暮れる暇もなく、娘の早苗と残された店を守るべくひとりで奮闘した。70を過ぎても颯爽とコテをふるい、亡くなる前日まで客前でお好み焼きを焼いていたのは今でも語り草である。


『お好み焼き屋だからって、店が脂ぎってすすけてたら、お客が逃げちまうよ』


 いつも祖母はそう言って板張りの壁や床をぴかぴかに磨き上げていたものだ。その意志は2代目女将、祥子の母早苗に引き継がれ、店は古くても清潔感にあふれていた。キッチンのステンレスや鉄板は言わずもがな、木製のカウンターや床は濡れたような飴色に光っている。時代遅れのモスグリーンの大型冷蔵庫だって未だ健在だ。

 その頑張りがたたり、ここ数年、母早苗はひどい肩や腰の痛みに悩まされていた。苦肉の策で、忙しい夜の数時間だけ出てきてもらい、下ごしらえや客の少ない時間は祥子ひとりで頑張っている。それでも口八丁手八丁の2代目女将早苗は『巴』の顔だ。元気でいてもらわねば店は立ちゆかない。今ごろは夜の出番に備え、自宅でワイドショーでも見ながら、うつらうつらしているだろう。


 今日も真夏日で、鉄板を扱うお好み焼き屋には厳しい時期だが、ありがたいことにランチは完売になった。祥子のアイディアで始めた、ミニお好み焼き2種と小皿料理やスープがついた定食が好評で、カウンター席はいつも近所のサラリーマンで賑わう。

 ランチが終われば子供や主婦のおやつタイムで、夕方には学生が、夜はお酒を出しての大人時間になる。


「うんしょーっと。しょーちゃーん、おなかすいたーっ!」


 ガラスのドアを懸命に押し開け、元気に入って来たのは幼稚園児の陽介だ。その後ろに母親のみちるの姿も見える。みちるは祥子のふたつ年下の幼なじみだった。

「いらっしゃい、どしたの?」

「聞いてよ、祥ちゃん。ふたりで恐竜博行って来たんだけど、夏休みだからもう会場がすっごい混みこみで」

 みちるは汗を拭きふきカウンター席に歩み寄る。

「なのにこいつったら、『じぇーたい、恐竜バッジもらうんだ』って、無料配布のなっがい列に並んじゃってさ」

「出た、陽ちゃんの『じぇーたい』」

 最近の陽介は、何かと我を張って周囲を困らせる。よく知らぬ他人なら反抗期だというだろうが、母親のみちるや祥子に言われせば、この現象は『単なる父親似』だ。陽介の父親である俊介も祥子の幼なじみで、幼稚園の頃から好きなものは絶対に譲らない男だった。

「結局、ちっちゃなバッジ1個ゲットするのに1時間半よ? お昼食べ損ねて、持っていったお菓子つまんだだけなの。超疲れたー」

「しょーちゃん! 見て、見てぇ!」

 陽介は胸をつきだして、つけている恐竜バッジを得意げに見せる。祥子はそれを眺めて、ほう、と感心してみせた。

「かーっこいい。それ、何ていう恐竜?」

「ちょりけらちょぷしゅ!」

「ええっと」

「……トリケラトプス」

 母親のみちるが耳打ちする。

「あ、ああ、トリケラトプスか! 強そうだなあ!」

 褒めてもらった陽介は満足げに頷くと、母親に抱き上げてもらいカウンター席に座った。みちるもその横に落ち着くと、メニューも見ずにすらすらとオーダーする。

「巴焼きの餅チーズ入りひとつに、ミックスジュース2つお願いしまーす!」

「しまーしゅ!」

「はーい、かしこまりました。待っててね」

 祥子はバナナを手早く切ってジューサーに放り込む。缶詰のフルーツと一緒に、牛乳、氷を入れてスイッチオン。出来上がったミックスジュースで親子が喉を潤している間に、お好み焼きの材料を出して次々とボウルに入れていく。

 温度の上がった鉄板にまんべんなく油を引くと、カウンター席のふたりから、熱い視線が寄せられた。


『コテを握ったら、そこからは私らのショー・タイムだよ。ちょっとくらい失敗したって、堂々と、笑顔で焼けばいいんだ』


 母の教えに従って、祥子は大きく息を吸うと、悠然と微笑み背筋を伸ばした。


 『巴焼き』は具に牛すじ、イカ、豚肉が入る『巴』の看板メニューだ。

 タネと具材が入った銀色のボウルには、粗みじんのキャベツがこれでもか、と、てんこ盛りになっている。祥子は真ん中に卵を割り入れ、かしゅ、かしゅと底から掬うように大きく全体を掻き混ぜた。混ぜ過ぎず、空気を含ませるようにするのがコツだ。そのまま鉄板の上に思い切りよくひっくり返せば、タネが熱した油に当たって威勢よく弾ける。コテで散らばったキャベツを集め、きれいに山を整えたら、豚バラ肉を上から1,2,3枚。ドーム型の蓋をかぶせてじっくりじっくり焼き上げる。いい頃合いを見計らって蓋を開け、2枚のコテで挟んでくるり、とひっくり返せば、こんがりいい焼き色が現れた。

「おいちそー!」

「いいぞ! 若女将!」

 みちる親子はなかなかいい観客である。

 裏もじっくり焼き上げて、香ばしく焼けた表面に刷毛でソースをたっぷり塗り込める。その上からマヨネーズを素早く糸のようにかけていくと、茶色とクリーム色の縞模様になった。最後に竹串で、縞と垂直に、すっ、すっ、と等間隔で線を引いて行けば。


「おまちどうさま!」


 ソースとマヨネーズのマーブル模様も美しい、巴焼きの出来上がり。


「いただきまーす!」

「いったーきまーす!」

「ちょっ、陽介! がっつきすぎ! あちち、だよ!」

「んー!」

 母の制止をもろともせず、陽介はお好み焼きにかぶりつく。無邪気な姿についまなじりを下げて見つめていると、みちるに笑われた。

「祥ちゃんって、ほんと陽介好きだよね。男性のお客が下心見え見えで話しかけてもさらっとスルーするのに、陽介見るときはもう、にっこにこしちゃって」

「陽ちゃんは、生まれたときからずっと見てるから、気分はもう親戚のおばちゃんだもん。最近は話しかたがまたかわいくて」

「自分の子供だと、尚更かわいいよ?」

 みちるは意味ありげな眼差しを向けるが、祥子の返しはいつも決まっている。


「それには、この『巴』ごと、私を引き受けてくれる勇者がいないとね?」


 後先も考えずに恋をする年齢は、もう過ぎた。

 自営業のひとり娘の結婚は、30の声を聞けば飛び越えねばならないハードルばかりが増えて行く。叶わない恋をするエネルギーなんて持ち合わせがない。日々の仕事をこなすことで精一杯。

 だから今日も祥子は、結婚相手を探す気もないのに、見つからないふりをする。

 ややもすれば飛び立とうとする恋心に、蓋をする。









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