屋上と夕陽
一つ疑問に思った事がある。
何故、朝日はこんなにも煩わしくて、夕陽はこんなにも寂しいのだろう。
日が昇っているだけで憂鬱になる。眩しい。僕はこんな光の強いところに立っていたくない。もう少し、暗くて、光のない場所で過ごしていたい。
そう思った。
空は答えた。
日を落として、闇を作ってくれた。僕の時間。僕が有意義に過ごせる一番の時間。
しかし、その瞬間の夕陽を見ているのはとても辛かった。
喜ぶべきなのだ。
僕にとっては邪魔なだけの太陽が落ちることを、喜ぶべきだった。
しかし、頭ではそう思っても心の部分はそうはいかなかった。
寂しかった。一日が終わる。そう思いながら見つめていた。
矛盾だ。
こんなにも一日を、一ヶ月を、一年を、煩わしいと感じているのに、いざなくなると寂しいと思ってしまう。そんな自分に腹が立った。
たった一日、たった一日で僕は寂しくて泣きそうになった。
心が抉られるようだった。
そんな毎日を過ごしていた。
結局のところ、僕はどうしたかったのだろう。
闇が欲しかったのか。それとも光が欲しかったのか。
わからない。
わからない。
ただ、わかるのは。
僕がただ、どうしようもなく我儘なだけで、これからもきっと貪欲なままなんだなという、本当にくだらない。どうしようもない未来だけだった。
ああ、本当にくだらない。
本当に。
放課後だった。
僕はいつものように屋上に上がっていた。
習慣だった。
こうやって屋上にでて夕陽を落ちるのを見届ける。
もう、いつからやっているかわからない。気が付いたら、僕はこんなことをしていた。
別に夕陽が好きなんじゃない。
嫌いでもない。
それでも、どちらかを選べと言われたら、僕はきっと嫌いと答えるだろう。
なら、どうしてわざわざ僕は屋上に来てまで夕陽を眺めているんだろうか。
それはきっと、水を飲むのと同じだ。
生きる為に必要な行為。多分、それが一番当て嵌まる。
こうしていないと、僕は死んでしまう。僕という僕が壊れてしまうから。だから、こうして夕陽を見る。
自分を保つ為に。僕という自分自身を、この世に縛り付ける為に。
つくづく、自分は無駄な事をしていると思う。
この世がどれだけ大事なのだというのか。
死んでしまったって構わないじゃないか。
何故、この世にそれだけ執着出来る? 何故、生きていることを当たり前だと思う? 生きるってなんだ? 死ぬってなんだ?
そんな考えが、くだらない思考が、僕の頭をぐるぐると掻きまわす。
その考えこそが、無駄だというのに。
この世にいるのは意志じゃない。本能だ。ここにいたいからじゃなく、、ただそこにいたから今に至る。それだけだ。
僕らはすべからく人形なのだ。
「くだらない」
全くだ。全くくだらない。
階段を上りながら、僕は自分の考えを自分で貶す。
屋上へと続く鉄格子が見えてきた。
今日も僕はそこでいつもの日常が始まる。
そう思っていた。
「……?」
しかし、僕の視界の先に映ったものは異常だった。日常とは全く逆。そこは僕の知らない世界だった。
風景は変わらない。風景だけはいつもと同じ。青とオレンジが混ざり合ったような、そんな色。僕が毎日毎日見飽きる程に見て来た。いつもの光景。
しかし、一つだけ違った。その一つが、僕の日常を粉々にした。
夕やけ色の空に一滴の黒を足しただけ。それだけで、この世は黒く染まる。
そんな少女だった。
そう、少女。女の子。
黒い髪をした女の子が、そこに居た。
ちょこんと座りながら、空を見上げている。
ここまでなら、きっと異常なんかじゃない。僕と同じ変わった人間が居ただけだ。それだけ。
しかし、違った。その少女は僕以上に普通じゃなかった。
彼女は境界線の向こう側に座っていた。生と死の境界線。緑色のフェンスの先。屋上の淵に座って。足を全て投げ出して、彼女は空を見上げていた。
まるで、今からでも飛び下りてしまいそうな。
それほどに、はかない存在だった。
なんとなく、自分に似ている。そう思った。
だからだろうか。
普段、誰とも会話をしない僕なのに、いつの間にかフェンスを挟んで、少女に声を掛けていた。
「ここで何をしているの?」
少女は言う。
「空を見ているんだよ」
「ここは危ないよ」
「大丈夫。私は落ちないから。私が落ちたってしょうがないし」
「なら、こっちにおいでよ。どうしてそんなとこにいるの?」
今まで空だけを見上げていた少女がゆっくりとこちらを振り向いた。
「さぁ、死にたいからじゃないかな?」
「死にたいの?」
「君は死にたくないの?」
「わかんない」
「そっか。そうかもね」
何に納得したのかはわからないけど、少女は立ち上がり、フェンスをよじ登って来た。
「よいしょっと」
フェンスの上まで来ると、彼女はそのままぴょんと僕の隣に着地した。
「君、名前は?」
「名前? うーん……」
僕が名前を聞くと少女は少し困った顔をした。なんで、そんな顔をするのだろう。僕はそんなに困らせるような質問をしただろうか。
「んー、愛莉」
「え?」
「愛莉って言うの。そういうことにしといて」
「うん」
そういうことってどういうことだろう。
「私の話はそれでおしまい。今度は私の番。君の名前……はいいや。別に聞かなくてもわかってるし」
「わかってる? どうして?」
「私と、君、同じクラスだよ。もしかして気付かなかったの?」
気付かなかった。
というか、自分のクラスにどんな人がいるのかさえわからない。クラスの半分どころか、きっとその中の一人すら僕は知らない。
顔はわかる。でも、名前はわからない。
興味ないものを覚えても仕方ないから。
「まぁ、いっか。君はいっつもそんな感じだもんね。そんなことよりさ、君はこんなところで何をしているの?」
「僕? 僕は夕陽を見に来たんだ」
「夕陽? そっか、私と同じなんだね」
「うん」
「ねえ、どうして夕陽を見ているの?」
「…………」
答えに迷う。
だって、僕にだってどうしてこんなことをしているのか、わからないから。何を求めて、僕は空を見に来ているのか、わからない。
だから、僕にはこう言う事しか出来ない。
「生きる為かな」
「さっき、わかんないって言ったくせに」
そう言ってくすりと笑う。
「そういえば、そうだね」
そう言って僕も笑う。
何がおかしいのかわからない。でも、なんとなく笑えてしまった。もしかしたら、それは自分の滑稽さに笑っているのかもしれない。
「あ、もう夕陽が落ちちゃうね」
「ほんとだ」
気が付くと、夕陽はもう半分程、顔を隠していた。これから、すぐに彼は辺りの光を根こそぎ奪い、闇を与えるはずだ。僕の時間。僕が一番好きな時間がやって来る合図。
今日も、それは変わらなかった。
「もう、帰るの?」
愛莉が僕を見ながら言う。
「うん。ちゃんと確認出来たから」
「夕陽が落ちるのを?」
こくり、と頷く。
「そっか。明日も来るの?」
「うん」
「じゃ、また明日も一緒に見ようね」
僕は約束をして、屋上を後にした。愛莉はまだ少しだけ夕陽を見てから帰るらしい。
下駄箱で靴に履き替えて外に出る。屋上の方を見上げると、愛莉はまたフェンスの外に出ていた。足を放り投げて、どこかを見ていた。
僕を見つけた愛莉が手を振る。
僕も振る。
その時、僕は心の中で、あの先からは、愛莉のいるフェンスの向こう、生の境界線の先からは一体何が見えるのだろうと、考えていた。
学校が面白いと思った事は一回もなかった。
いや、学校だけじゃない。僕にとっては目に見える全ての世界がつまらなく見えた。
家も町も人間も。
どうして笑っていられるのか、どうしてそんな表情が出来るのか、わからない。
この世に生れてはいけないはずの欠陥人間。
それが僕だ。
だからこそ、僕はどうしてここに生まれたのかがわからない。
壊れている僕を、世界はどうして生みだしたのか。その事になにか意味はあるのか。そればかり考えていた。
「……」
今だって、僕はそれの事を考えている。
目の前で並んで行く。文字列。それを、ただ、ロボットのようにノートに写しながら。別にやりたいからじゃない。皆がやっているから、やっているだけだ。そこに意思はない。本当に、つまらない日常だ。
休み時間になった。
僕の前に人が集まることはない。
僕から声を掛けることもない。
自ら望んで、そうした。
もしかしたら、最初は誰かが声を掛けてくれたのかもしれない。一緒に遊ぼうと、誘ってくれたのかもしれない。もう、覚えてはいないけれど。
学校という輪の中のさらに小さなクラスという輪の中。その中でさらに輪は作られ、僕はとうとう、そこからもあぶれてしまった。
孤独だった。本当に。
でも、誰にも邪魔されずに空が眺められるのは、とてもよかった。
そう。いじめられている訳じゃない。いじめられていたら、僕はこんなにもゆっくりとした時間を過ごしてはいない。
それよりも先。
僕は空気になった。そこに居て、居ない存在。確かにあるのに、触れられない。そこにあるのに、認識出来ない。そういうものになっていた。
だから、僕が何をしてようが、彼らが僕と関わる事は絶対にない。
だって、彼らにとって僕は居ないものなんだから。
人はその目で認識出来て初めてこの世に居ることを認めてくれる。
あれ?
それじゃ、僕は?
誰にも認識されない僕は。
空気になった僕は。
本当にこの世に存在出来ているのだろうか。
「孤独ってさ。ある意味の自由だよね」
放課後。いつものように屋上のドアを開けると、愛莉がいた。まるで、僕がいつ来るのか分かっていたかのように、僕が入って来ると同時に、彼女はそう言った。
「どういう意味?」
「私達は、どこにだって飛べるって意味だよ」
まるで、自らの翼を広げるように、愛莉は自分の両手を広げた。
「生きているとさ。やっぱり色んな意味で縛られちゃうんだよ。それは、肉体的にも精神的にも。そこに家族がいるからとか、お金がないからとか。生活しなくちゃいけないとか。そういうの。でもさ――」
そう言いながら、愛莉はフェンスの上を上っていく。
「私達には何にもないんだよ。だって、空気なんだよ? 空気である私達を見る人間なんてどこにもいない。誰も認識してくれない世界なんて、そんなの死んでるのと同じだよ」
「でも、僕は生きてる」
「ううん」
しかし、愛莉は首を振る。
「生きてないよ、私達は。ただ、死んでないだけ」
「…………」
否定出来なかった。
その通りだと、思ったから。
誰も僕の存在を見ないのなら。存在していないのなら。僕はやっぱり、死んでいるのと変わらないのだろう。
気が付くと、愛莉はフェンスの向こう側にいた。
境界線の先。
彼女はそこで、僕を見つめる。
フェンスを隔てて。
「こっちにおいでよ」
僕に手を差し出す。
「そっからは何が見えるの?」
僕は聞いた。
「全部が見えるよ」
愛莉は答えた。
全部が見える。それは、一体どんな景色なのだろうか。とても興味がある。そこに、僕の答えがあるような気がしたから。
だけど、怖かった。
僕は、自分でその境界線を作ってしまったから。
こっから先は死。
僕が立っている所が生。
もし、そちらの世界に行くのなら。僕は生を手放さなければならない。
あちらの世界に生を持って行くのは、まちがいなくタブーなのだから。
「大丈夫、怖いことじゃないよ」
そう言って、愛莉は笑う。
何も心配はいらないと。そう言いながら。
「……うん」
愛莉が言うのならきっとそうなのだろう。彼女に頷いて、同じようにフェンスに足を掛けた。
境界線のその先へ。
「ようこそ」
そう言って、愛莉は笑った。
「お邪魔します」
なんとなく、僕も笑ってみた。
随分とあっけなかった。あっけない程、簡単に境界を越えてしまった。
「ほら、こっち来て」
そう言って、彼女がいつも座っている縁に案内された。
「……」
そこからは、本当に全てが見渡せた。邪魔なフェンスも、障害物もない。
夕陽と空。
本当に、それだけだった。
それ以外、何もなかった。
何も、見えなかった。
「どう、すごいでしょ?」
「うん」
「安心して、見れるよね」
「うん」
ここなら、僕はずっと夕陽を見てられる。
でも――
「意味が無くなっちゃったかな」
「ん? どういうこと?」
愛莉が聞き返した。何故か、その目はとても真剣で、さっきまでの笑顔はなくなっていた。
「僕が、こうやって夕陽を見ていたのは、ここに居たいからなんだ。一日が終わるのをここで見て、安心したかったからなんだ」
「どうして、それで安心出来るの?」
「誰にも見られないから、誰にも関われないから、僕だけが置いてかれてると思ってたんだ。この世界に限りなく似ていて、でも違う。そんな偽物の世界を僕だけが歩いているんじゃないかなって、そう思ったんだ」
そうだ。だからこそ、僕は夕陽を見てた。人の作った時間じゃなく、世界が作った時間を確かめる為に。僕だけが置いてかれないように、それを観察しながら。
僕はここで生きていると、認識する為に。
「そっか」
そう呟いたのは、愛莉じゃなくて僕の方だった。
納得したから。
結局、どれだけ考えようと、僕はここに居たかっただけなんだ。
死にたくなんかなかった。
消えたくなんかなかった。
ただ、ここに居たかった。
ここに来てようやく、僕は気付いた。
本能じゃなく、自分の意思で、僕はここに居た。
「本当に全部が見れたよ」
「そうみたいだね」
僕の隣に座る愛莉はなんだか清々しい表情を浮かべていた。今なら彼女がどうしてそんな表情をしていたのか、なんとなくわかる。
「それで、どうするの?」
「どうしようか」
自分の気持ちはわかった。生きたい。生きていたい。
だけど、ちょっと遅かったみたいだ。
「ここはもう、死だもんね」
「うん」
後ろに見えるフェンスの先、そこに生は置いて来た。ここにはもう、死しかない。生きようと思っても、生きる事は出来ない。そういう決まりだ。
「ここで、ずっと夕陽を見てる?」
「ううん、それはもう意味が無いから」
僕が夕陽を見たのは生きる為。でも、その生を置いて来た僕には、もう関係のない話だ。
なら、どうするか。
「ねぇ、愛莉」
「うん?」
「この気持ちってどこまで続くのかな」
「きっと、君が望むまでずっと続いていくんじゃないかな」
「そこにはさ、君は居るのかな?」
「さぁ、そこまではわかんないよ。でも、君が望むのなら居るんじゃないのかな。だって――」
風が吹いた。
言葉を乗せて。
愛莉の言葉が僕の耳に届いた。
それは、なんとなく気付いていた、僕と彼女の真実。
「そうだよね」
頷く。
「うん」
愛莉も頷く。
「それじゃ、行こうか」
「行っちゃうの?」
「次はきっと笑える気がするんだ」
「もう、笑ってるくせに」
二人で微笑む。
いや、もう二人じゃないのか。
「ほら、そこまで着いて行ってあげる」
愛莉が手を差し出した。
「ありがとう、愛莉」
彼女の手を握る。とても、暖かかった。
「じゃあ、サヨナラだね」
「それは誰に対して?」
「この世界全部に対して」
「それじゃ、また初めましてって言わないとね」
「うん」
身体が宙を舞った。
隣にはもう、愛莉の姿はない。
僕の元に帰ったんだ。
僕と彼女は二人で一つで。
私と彼は二人で一つなのだから。
そうだ。忘れるところだった。
ちゃんと、言わないとね。
サヨナラ、セカイ。
ハジメマシテ、セカイ。
fin