-8- オーディション(4)
僕が石原裕次郎さんの名曲『ブランデーグラス』の一番を歌い上げると、審査員の津村先生は「難しい歌なのによく歌えたね」と、笑顔を交え褒めてくれたのだった。これは良い印象を与えられたようだ。
津村先生は採点表に記号のような物と、評価らしきメッセージを書き込むと僕の前に差し出して言った。
「じゃあ、今度は演技の坂野先生ね」
僕は大きく頭を下げて「ありがとうございました」と礼を言うと、坂野先生の居るテーブルを探した。その足取りは会場に訪れたときよりも遥かに軽い。難問をクリアし、手応えを感じたのだ。
「あ、あの先生だな……」
自信満々で坂野先生の前に立つ。坂野先生は先ほどの柔和な感じを受けた津村先生とは違い、少々厳つい顔をした初老の男性だ。僕は浮き足立つ気持ちを抑えて先生の言葉を待った。
「はい、では演技を見せてもらいます。君は今、空を飛んでいます。その体で思いっきり表現してください」
やられた。またしてもカリキュラムには載っていない課題をぶつけられてしまった。どうやらこの場で体を使って一人で黙々と表現しろというらしい。しかも直訳すれば『鳥になれ』と言わんばかりの強引な設定。周りには大勢の人が居るというのに、これではしらけ鳥の刑だ。
しかし、この時僕は自分に問いかけた。
「何を恥じる必要があるのだ? ここはタレントを目指す為の第一歩の場所なのだ。ひとたびタレントになれば、人々の白い目に晒されながら、語り、踊り、時には歌わなければならないのだ。恥ずかしさも何もあったものではないではないか」
その時、再び全身に寒気が走ると青白い光が目前に広がった。僕は無意識のうちに両手を真横に広げその言葉を発した。
「僕は風の子!」
そしてテーブルの前を「ブンブン」言いながら八の字を描き走り回った。とにかく走り回った。
「僕は風の子! ブンブンブン! 僕は風の子! ブンブンブン!」
これはどうしたと言うことか? 自分で今、何をやっているか分からないほど、僕は『風の子』になっているではないか! その心地よさからついつい調子に乗り、坂野先生の存在も忘れ、無我夢中でその場を走り回るのだった。