―2-2― 「AとWA」
淡々と授業用のテキストを配布しようとしだした青柳さん。どうやら僕の存在が完全に忘れられている。何かの手違いだろうか。僕はとっさに手を挙げて問いかけた。
「あの……、すいません。僕、まだ名前呼ばれていないんですが」
僕の申告に驚いた顔をした青柳さんは「これは失礼」と、改めて名簿をチェックするのだった。
「えと……君、名前は?」
「奥村です」
「おくむら……。おくむら……? うーん、おかしいな」
その青柳さんの最後の言葉に僕は背筋が凍った。
「ちょっと待っていてね」
名簿を手に慌てた感じで部屋を出る青柳さん。その途端、室内は先ほどまでの張り詰めた緊張の糸が切れ、みな安堵の表情を浮かべるのだった。
しかし僕はそんな余裕などない。ひょっとして僕は合格していないのか? そうだとしたらこの場所から強制退去の可能性も出てきたのだ。隣の中條さんが気を使って話しかけてくる。
「ちゃんと合格証書届いたんだよね?」
「うん……」
「じゃあ心配いらないって! 何かの間違いだよ」
彼女の励ましは嬉しかったけど、どこか空しく聞こえ、いたたまれぬ気持ちのまま待つこと数分後、ようやく青柳さんが部屋に戻ってきた。
「奥村君、違う違う、ここじゃ、ここじゃなーい」
「はい?」
彼は何を言っているのか。理解できずに困惑していると、それを告げられるのだった。
「君は四階の入所式に行ってください」
「え?」
「ここはAクラス、俳優、女優クラスの入所式。君のクラスはお笑い芸人。バラエティ部門のWAクラスなんだ」
その時、僕の体に電気が走り、目の前が真っ白に輝いた。そして大きく上ずった声でそれを叫んだ。
「バッ、バラエティぶもん?」
その瞬間、室内が大爆笑に包まれてしまったのだった。すると隣の中條さんが少し怪訝な顔でこちらを見ている。
「奥村くん……。そうだったの?」
「えっ?」
「お笑い芸人志望で申し込んだんだ?」
「ち、違うよっ、僕は役者を……」
すると、青柳さんの呼ぶ声。どうやらその場所まで連れて行ってくれるらしい。僕はそのまま部屋を後にし、WAクラスの入所式が行われている部屋の前までやってきた。
僕に届いた合格証書や関連書類には、確かに『Aクラス』と表記がされていた。聞けば、どうやら事務局の手違いがあったらしい。合格証書などは改めて訂正したものを送ってくれるそうだが、今の僕にとってそんな事はもうどうでもいい。
「WAって……。バラエティ部門って聞いてないよっ!」
「……どうしたんだい? 奥村君」
「はいっ、いえ、何でもありません」
「そうかい。あ、坂野先生。彼が先ほどお話した奥村君です」
青柳さんが部屋のドアを開けると、中にいた初老の男性に話しかけた。その人を見て僕はようやく思い出すのだった。そうだ、オーディションを受けた時に演技を審査してくれた坂野重雄先生だ。
「……早く入りなさい」
「あ、はい」
坂野先生に促され、僕は足早に部屋に入ると一番手前の空いていた席に着いた。
僕は横目でチラリと坂野先生に視線を送る。面接の時から感じていたが、少し威圧感ある坂野先生。バラエティ部門というクラスに似つかわしくない無愛想な表情。僕はこの雰囲気の前で完全に萎縮してしまうのだった。
「じゃあ奥村君、こっちで頑張って。……では、先生。あとよろしくお願いします」
そう言うと青柳さんは軽く僕にガッツポーズを見せてドアを閉めた。すると坂野先生は青柳さんを一瞥することも無く、静かに、しかし氷のように冷たい口調で皆の前で言い切った。
「余計な横槍が入りましたが、改めてあなた方に言っておく。……辞めるなら今のうちです」
僕は自分の耳を疑った。一体この先生は何を言っているのだ。少なくとも入所式に聞くような言葉ではない。だが、クラスの生徒たちは坂野先生の話をただ黙って聞いている。
「巷ではお笑いブームだとか言われているようですが、僕はそんなものを認めていません。そもそもお笑いなど『フェイス・アクト』に必要ないのです」
無茶苦茶な話だ。だったら一体何のためにこのバラエティ部門のWAクラスは存在するのか。その僕の疑問をまるで見抜いたかのように坂野先生は続けた。
「何度も言いますが、『お笑いなら楽に芸能人になれそうだ』そう思って来た人はさっさと帰りなさい。何故ならこのクラスは俳優、女優クラスにすら選ばれなかった、言わば補欠クラスみたいなものですからね」
……補欠クラス。叩きつけられた現実に、先ほどまで湧き出ていた僕のやる気は、風前の灯と化していたのだった。