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「他に好きな女性がいる」と婚約を破棄したあなたは、誰とも結婚していませんでした

作者: momotarou
掲載日:2026/04/23

 春の終わり、アシュフォード侯爵家の庭は白薔薇の香りで満ちていた。


「そんなに嬉しそうなお顔をなさって。そこまで御結婚が楽しみなのですか」

「楽しみでない花嫁がいて?」


 侍女がくすくすと笑う。

 結婚式はひと月後。婚約者はエドガー・レイヴンヒル。

 真面目で、寡黙で、不器用なほど誠実な人だった。


 婚約が決まってからの二年で、セシリアはそのことをよく知った。

 彼は口先だけで優しい人ではない。大事なものを、自分のやり方で静かに守ろうとする人だ。


 だから好きになった。

 そして彼もまた、自分を大切に思ってくれていると信じていた。


「お嬢様」


 テラスの扉が開き、執事が硬い顔で一礼した。


「旦那様がお呼びです。至急、書斎へ」


 その声音に、セシリアの胸がざわついた。

 お父様が私を“至急”で呼ぶことは、めったにない。


 嫌な予感がした。


 書斎の扉を開く前から、父の低い声が聞こえた。


「……正式決定だ。レイヴンヒル伯爵家は責任を問われ、騎士爵へ降爵。婚姻許可は失効した」

「そんな……」


 母の息を呑む声が続く。


 セシリアの足が止まった。

 耳に入った言葉の意味を理解するまで、数拍かかった。


 婚姻許可が失効した。


 この国では、侯爵家以上の娘が格下へ嫁ぐには王家の婚姻許可がいる。

 許可は婚約相手の家格を前提に出されるため、婚約中に相手が降爵すれば自動的に失効する。

 そして一度失効した許可は、同じ年のうちには再申請できない。


 つまり――今のままでは、結婚できない。


 セシリアは自分で扉を開けた。


「お父様」


 父ローレンス侯爵と母が同時に振り返る。

 二人とも、ひどく疲れた顔をしていた。


「今のお話は、本当ですの」

「セシリア……」

「レイヴンヒル家が降爵されたのですか」


 父は苦々しくうなずいた。


「王宮会計局の不正の責任を押しつけられた。濡れ衣の可能性は高い。だが覆るまでには時間がかかる」

「私は待てます」

「お前一人の問題ではない」


 父の声が硬くなる。


「今の身分差では婚姻許可は下りん。この婚姻を押し通すなら、お前はアシュフォード家を出るしかない」

「出ます」

「セシリア!」


 母が青ざめる。

 だがセシリアは父から目を逸らさなかった。


「私はエドガー様と結婚します」

「ならん」


 父は言い切った。


「お前が不幸になる結婚を、私は認めん」

「不幸かどうかは、私が決めます」

「家名も後ろ盾も家族も捨てるのだぞ」

「それでも――」


「それ以上はやめてください」


 低い声がした。


 振り返れば、開いたままの扉の向こうにエドガーが立っていた。

 いつから聞いていたのかは分からない。

 だが、少なくとも父と娘の口論は耳に入っていたのだろう。


 青ざめた顔が、そのことを物語っていた。


「失礼いたします、ローレンス侯爵閣下」


 旅装のままのエドガーが一礼する。

 今日この屋敷に来たのは、事情の説明のためだったのだろう。悪い知らせほど自分の口で伝えようとする人だ。


 父が短くうなずいた。

「入れ」


 エドガーは静かに書斎へ入り、父に向かって言った。


「今回の件により、アシュフォード家との婚約継続は不可能となりました。婚約は本日をもって解消をお願いしたく」


「エドガー様!」


 セシリアが叫ぶ。

 彼はようやくこちらを見た。けれど、その目にいつもの温度はない。


「私は嫌です」

「セシリア」

「婚約解消など認めません。私は家を出ても――」

「駄目だ」


 鋭すぎるほどの否定に、セシリアの胸が一瞬だけ熱くなった。

 やはり彼も、本心では同じなのだと。


 だが、その次の瞬間。


 エドガーはゆっくりと感情を消した。


「……そこまでされるほどの価値は、私にはない」

「そんなこと――」

「もっと正直に申し上げましょう」


 彼は一度だけ息を吸った。

 その一拍が、ひどく長かった。


「私は最初から、あなたを好いていたわけではありません」


 室内の空気が凍った。


「父から言われていました。侯爵家の後ろ盾を得ろと。あなたとの婚約は家のために都合がよかった」

「嘘です」

「嘘ではありません」


 セシリアは首を振った。

 そんなはずがない。

 でなければ、この二年のすべてがあまりに惨めだ。


「私には他に好きな女性がいます」

「……っ」

「今回の件でようやく踏ん切りがつきました。彼女と結婚するつもりです。ですから、これでちょうどよかった」


 静かな声だった。

 静かすぎて、かえって残酷だった。


「最低ですわ、エドガー様」

「そうでしょうね」


 彼は深く一礼した。


「今までありがとうございました、セシリア嬢。どうかお幸せに」


 そして本当に、振り返ることなく去っていった。


 一度も。


 ――いや。

 一度も振り返らなかったのではない。

 振り返れなかったのだと知るのは、ずっと後のことだった。


 忘れようとした。


 本当に、忘れようとしたのだ。


 婚約指輪は箱の奥にしまい込み、彼から贈られた本は書庫へ移した。

 並んで歩いた庭を避け、同じ茶葉の香りも遠ざけた。


 父はそれ以上何も言わず、母は見守るだけだった。

 ありがたかった。慰められれば泣き崩れてしまいそうだったから。


 それでも夜になると、エドガーの言葉ばかり思い出した。


『私は最初から、あなたを好いていたわけではありません』

『私には他に好きな女性がいます』


 あれほどはっきり言われたのに、どうして信じ切れないのだろう。


 彼は嘘が上手い人ではない。

 社交の場で愛想笑いをしても、目だけは少しも笑えない人だった。

 好きでもない相手に、あれほど長く誠実でいられるだろうか。


 ひと月、ふた月と過ぎた頃、父が新しい縁談を遠回しに示した。


「今すぐ返事をしろとは言わん。ただ、いずれは考えねばならぬ」


 当然だった。

 侯爵令嬢がいつまでも破談の傷に浸っているわけにはいかない。


 それでも、その夜、セシリアは決めた。


 王都で名の知られた民間調査士、ヴィクター・ヘイル宛の手紙に、たった一行だけ書く。


 婚約解消の際、元婚約者は『他家の令嬢と結婚する』と述べました。その事実確認をお願いいたします。


 復縁したいわけではない。

 ただ真実を知りたかった。


 そうでなければ、前へ進めなかった。


 ヴィクター・ヘイルは、噂よりずっと普通の男だった。


 三十代半ばほど。

 身なりは地味だが清潔で、目だけが妙に鋭い。


「確認します」


 彼は依頼書を机上に置いた。


「ご依頼は『エドガー・レイヴンヒル氏の婚姻事実の有無の確認』。理由は伺いません」

「ええ」

「結果によっては、望まぬ事実が出る可能性もあります」

「承知しています」


「二週間ください。確かなものをお持ちします」


 十三日後、彼は報告書を携えて戻ってきた。


「結論から申し上げます。エドガー・レイヴンヒル氏に婚姻の事実はありません。婚約記録もなし。『好きな女性』とされる令嬢との接触も、社交上の最低限のみです」


 セシリアの指先が震えた。


「……本当に?」

「事実です」


 では、あの言葉は嘘だった。


 あれほど残酷な嘘を、彼は自分に向かって吐いたのだ。


「追加調査を」

「内容は」

「なぜあんな嘘をついたのか。何を隠しているのか。分かる範囲で」


 ヴィクターは数秒沈黙し、やがてうなずいた。


「承知しました」


 二度目の報告書は厚かった。


「事実から申し上げます」


 ヴィクターは淡々とページをめくる。


「婚約解消後、レイヴンヒル家は家計逼迫のため多くの使用人を暇に出しました。にもかかわらず、エドガー氏は私財を処分し、アシュフォード侯爵家に対する悪意ある噂が広まらぬよう裏で動いています」

「噂?」

「『セシリア嬢は降爵した家を捨てた薄情な女だ』という類いのものです。三件立ちましたが、いずれも拡散前に潰されています」


 報告書をめくる指先が冷たかった。

 知りたいと願ったのは自分なのに、知るほどに胸が痛んだ。


「なぜ、そんなことを」

「本人に聞かねば分かりません。ですが、もう一つあります」


 ヴィクターは別の紙を差し出した。


「妙なのは、あなたへの悪評は消えているのに、彼には『侯爵家の後ろ盾目当てで近づいた男』『家のために婚約した打算家』という評判だけが残っていることです」

「……」

「しかも本人はそれを否定していません」


 セシリアの喉が詰まった。


 彼は、わざとそう見られていた。

 自分が最低の男だと信じられるように。


「推測を述べても?」

「お願いします」

「おそらく彼は、婚約解消を望んでいなかった。しかし継続も望めなかった。あなたが家を捨てる覚悟を口にしたことで、決めたのでしょう。身分差そのものではなく、“あなたにそこまでさせること”が耐えられなかった」


 セシリアは目を閉じた。


 あのときの彼の顔が、ようやくつながった。


「……会いに行きます」

「それがよろしいかと」

「ありがとう、ヴィクター」


 忘れられないからではない。

 真実を知ったからでもない。


 勝手に終わらせられたままでは、終われない。

 それだけだった。


 レイヴンヒル家の屋敷はひどく静かだった。


 書庫の扉を叩くと、内側で椅子が鳴る音がした。


「――誰だ」


 その声だけで胸が痛んだ。

 忘れられなかったのは本当だった。


 扉を開けると、エドガーが立ち尽くした。

 まるで幽霊でも見たような顔だった。


「セシリア」

「ごきげんよう、エドガー様」

「なぜここに」

「婚約を破棄した相手を探偵に調べさせる女もおりますの」


 彼の顔色が変わる。


「……探偵?」

「ええ。まず確かめたかったのです。あなたが本当に、他の娘と結婚したのか」


 沈黙が落ちた。


「結婚していませんでしたわね」

「……」

「好きな女性もいなかった」


 エドガーが苦しげに目を伏せる。


「帰ってくれ」

「嫌です」

「セシリア」

「また勝手に決めるおつもりですか」


 彼の肩が震えた。


「どうして、あんな嘘をついたのです」

「言えば、君は諦めなかった」

「当然です」


 即答すると、彼はひどくつらそうに眉を寄せた。


「君は家を捨てると言った」

「ええ」

「そんなことをさせられるはずがない」


 かすれた声だった。


「家名も、父君も、母君も、君が生まれてからずっと大事にしてきたものを、私のために捨てさせるなどできない。今の私には、君に何一つ返せない。家は落ち、財もない。そんなところへ引きずり下ろしておいて、愛しているなどとどう言えというんだ」

「だから、嫌われることを選んだ?」

「そうだ」


 エドガーは目を伏せた。


「最低の男だと思われた方がましだった。君が私を恨んで忘れてくれれば、それでよかった」

「本当に、馬鹿ですわ」


 エドガーがわずかに目を見開く。


「私のためだったとおっしゃるのなら、なおさら馬鹿です」

「セシリア」

「私は忘れようとしました。指輪をしまって、思い出を遠ざけて、新しい縁談まで考えました。それでも忘れられなかった。苦しくて、信じ切れなくて、眠れない夜ばかりでした」


 彼の顔が痛みに歪む。


「……すまない」

「謝れば済むと思っていらっしゃるの」


 セシリアはまっすぐ彼を見た。


「私のためだったと言うなら、なぜ私から選ぶ権利まで奪ったのですか」

「……」

「私が家を捨てると決めるなら、それは私の選択です。後悔するかもしれない。泣くかもしれない。それでも決めるのは私です。それなのにあなたは、守ると言いながら、私の人生を勝手に終わらせた」


 エドガーは反論しなかった。

 ただ立ち尽くし、拳を握りしめる。


「私が怖かったんだ」


 しばらくして、彼は絞り出すように言った。


「君が本当にすべてを捨てることが。君の父君の顔を見るのも、母君に頭を下げられるのも、怖かった。君に後悔させる未来が。だから先に切った。君が私を嫌えば、それで済むと思った」


 セシリアは目を閉じた。


 彼は彼なりに誠実だったのだろう。

 だが誠実であろうとして、ひどく不誠実なことをした。


「エドガー様」


 静かに呼ぶと、彼が顔を上げる。


「私はまだ、あなたを愛しています」

「……っ」

「だからこそ、今日ここで頷くことはできません」


 彼の喉がかすかに動いた。


「あなたが私を想っていたことは分かりました。けれど、あの日の傷まで消えたわけではありません」

「当然だ」

「ええ。当然です」


 セシリアは一歩下がった。


「次に私の前に来るなら、まずお父様に本当のことを話してください」

「……侯爵に?」

「ええ。私を遠ざけるためについた嘘も、私を傷つけたことも、全部です」


 エドガーは言葉を失った。


「私にだけ本当のことを言って済ませるのは許しません。あの日、あなたはお父様にも、家にも、嘘をついて去ったのです。もし本当に、今度こそ私に選ばせてほしいと願うなら――逃げずにそこから始めてください」


 長い沈黙のあと、彼はゆっくりとうなずいた。


「……分かった」

「本当に?」

「ああ。次は逃げない」


 その声は震えていたが、今度は嘘ではないと分かった。


 セシリアは踵を返す。


「待ってくれ」


 背後で、かすれた声がした。

 初めてだった。

 彼が自分を引き止める声を聞いたのは。


 それでもセシリアは振り返らなかった。

 なぜか涙がこぼれて、今の顔を見せたくなかった。

 そのときふと、去っていく彼の背を見送った日のことが胸をよぎる。

 ――ああ、あのときエドガー様も、振り返らなかったのではなく、振り返れなかったのだ。


「待つかどうかは、私が決めますわ」


 前を向いたまま、セシリアは言った。


 扉を開ける直前、背後で深く頭を下げる気配がした。


「……次は、嘘をつかない」

「でしたら、そのとき考えて差し上げます」


 それだけを残して、セシリアは書庫を出た。


 その三日後、父が珍しく朝食の席でセシリアを呼び止めた。


「あとで少し、書斎へ来なさい」


 厳しい声ではなかった。

 けれど軽くもなかった。


 セシリアは心臓が早くなるのを感じながら、食後に父の書斎を訪れた。


 扉の前まで来たところで、中から聞き覚えのある声がした。


「……あのとき私は、侯爵家の御令嬢を守るつもりで、御令嬢の意志を踏みにじりました」


 エドガーだった。


 セシリアは思わず足を止める。


「私は彼女に嫌われればそれでよいと考えました。自分が最低の男だと思われれば、彼女は前を向けると。ですが、それはただの臆病でした」


 父はしばらく黙っていたらしい。

 やがて、低い声が返る。


「お前が臆病だったことは分かった。では今は何だ」

「臆病なままです」


 エドガーはそう答えた。


「ですが、それでも逃げずに申し上げます。私は今もセシリア様を愛しています。愛しているから手放したなどと、今さら綺麗に言うつもりはありません。私は彼女に選ばれる覚悟も、拒まれる覚悟も持たずに去りました。そのことをまず、あなたに詫びに参りました」


 セシリアの喉が熱くなった。


 父はすぐには何も言わなかった。

 長い沈黙のあと、扉越しに静かな声が落ちる。


「お前が謝るべき相手は、私ではなく娘だ」

「承知しております」

「それでもまずここへ来たのは」

「彼女に近づく前に、逃げた場所へ戻るべきだと思ったからです」


 セシリアは、思わず目を伏せた。


 やがて父の足音が近づき、書斎の扉が開いた。

 ローレンス侯爵は娘の姿を見ても驚かなかった。最初から気づいていたのだろう。


「聞いていたか」

「……はい」

「なら、あとはお前が決めなさい」


 父は少しだけ脇へ退いた。


 開いた扉の向こう、書斎の中央にエドガーが立っていた。

 あの日と同じ部屋なのに、今度の彼は逃げるためではなく、残るためにそこにいる。


 視線が合う。


 彼は何も言わなかった。

 言い訳も、懇願も、しなかった。

 ただまっすぐに、セシリアの答えを待っていた。


 あの日、自分から奪われたものが、ようやくそこに戻ってきたのだと分かった。


 選ぶ権利。


 セシリアは胸の前で指を重ね、ひとつ息を吸った。


 もう勝手に終わらせはしない。

 だから今度は、自分で決める。


「――今度こそ、あなたの本当の言葉を聞かせてくださいませ、エドガー様」


 その一歩は、誰にも奪われない、セシリア自身のものだった。

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