「他に好きな女性がいる」と婚約を破棄したあなたは、誰とも結婚していませんでした
春の終わり、アシュフォード侯爵家の庭は白薔薇の香りで満ちていた。
「そんなに嬉しそうなお顔をなさって。そこまで御結婚が楽しみなのですか」
「楽しみでない花嫁がいて?」
侍女がくすくすと笑う。
結婚式はひと月後。婚約者はエドガー・レイヴンヒル。
真面目で、寡黙で、不器用なほど誠実な人だった。
婚約が決まってからの二年で、セシリアはそのことをよく知った。
彼は口先だけで優しい人ではない。大事なものを、自分のやり方で静かに守ろうとする人だ。
だから好きになった。
そして彼もまた、自分を大切に思ってくれていると信じていた。
「お嬢様」
テラスの扉が開き、執事が硬い顔で一礼した。
「旦那様がお呼びです。至急、書斎へ」
その声音に、セシリアの胸がざわついた。
お父様が私を“至急”で呼ぶことは、めったにない。
嫌な予感がした。
書斎の扉を開く前から、父の低い声が聞こえた。
「……正式決定だ。レイヴンヒル伯爵家は責任を問われ、騎士爵へ降爵。婚姻許可は失効した」
「そんな……」
母の息を呑む声が続く。
セシリアの足が止まった。
耳に入った言葉の意味を理解するまで、数拍かかった。
婚姻許可が失効した。
この国では、侯爵家以上の娘が格下へ嫁ぐには王家の婚姻許可がいる。
許可は婚約相手の家格を前提に出されるため、婚約中に相手が降爵すれば自動的に失効する。
そして一度失効した許可は、同じ年のうちには再申請できない。
つまり――今のままでは、結婚できない。
セシリアは自分で扉を開けた。
「お父様」
父ローレンス侯爵と母が同時に振り返る。
二人とも、ひどく疲れた顔をしていた。
「今のお話は、本当ですの」
「セシリア……」
「レイヴンヒル家が降爵されたのですか」
父は苦々しくうなずいた。
「王宮会計局の不正の責任を押しつけられた。濡れ衣の可能性は高い。だが覆るまでには時間がかかる」
「私は待てます」
「お前一人の問題ではない」
父の声が硬くなる。
「今の身分差では婚姻許可は下りん。この婚姻を押し通すなら、お前はアシュフォード家を出るしかない」
「出ます」
「セシリア!」
母が青ざめる。
だがセシリアは父から目を逸らさなかった。
「私はエドガー様と結婚します」
「ならん」
父は言い切った。
「お前が不幸になる結婚を、私は認めん」
「不幸かどうかは、私が決めます」
「家名も後ろ盾も家族も捨てるのだぞ」
「それでも――」
「それ以上はやめてください」
低い声がした。
振り返れば、開いたままの扉の向こうにエドガーが立っていた。
いつから聞いていたのかは分からない。
だが、少なくとも父と娘の口論は耳に入っていたのだろう。
青ざめた顔が、そのことを物語っていた。
「失礼いたします、ローレンス侯爵閣下」
旅装のままのエドガーが一礼する。
今日この屋敷に来たのは、事情の説明のためだったのだろう。悪い知らせほど自分の口で伝えようとする人だ。
父が短くうなずいた。
「入れ」
エドガーは静かに書斎へ入り、父に向かって言った。
「今回の件により、アシュフォード家との婚約継続は不可能となりました。婚約は本日をもって解消をお願いしたく」
「エドガー様!」
セシリアが叫ぶ。
彼はようやくこちらを見た。けれど、その目にいつもの温度はない。
「私は嫌です」
「セシリア」
「婚約解消など認めません。私は家を出ても――」
「駄目だ」
鋭すぎるほどの否定に、セシリアの胸が一瞬だけ熱くなった。
やはり彼も、本心では同じなのだと。
だが、その次の瞬間。
エドガーはゆっくりと感情を消した。
「……そこまでされるほどの価値は、私にはない」
「そんなこと――」
「もっと正直に申し上げましょう」
彼は一度だけ息を吸った。
その一拍が、ひどく長かった。
「私は最初から、あなたを好いていたわけではありません」
室内の空気が凍った。
「父から言われていました。侯爵家の後ろ盾を得ろと。あなたとの婚約は家のために都合がよかった」
「嘘です」
「嘘ではありません」
セシリアは首を振った。
そんなはずがない。
でなければ、この二年のすべてがあまりに惨めだ。
「私には他に好きな女性がいます」
「……っ」
「今回の件でようやく踏ん切りがつきました。彼女と結婚するつもりです。ですから、これでちょうどよかった」
静かな声だった。
静かすぎて、かえって残酷だった。
「最低ですわ、エドガー様」
「そうでしょうね」
彼は深く一礼した。
「今までありがとうございました、セシリア嬢。どうかお幸せに」
そして本当に、振り返ることなく去っていった。
一度も。
――いや。
一度も振り返らなかったのではない。
振り返れなかったのだと知るのは、ずっと後のことだった。
忘れようとした。
本当に、忘れようとしたのだ。
婚約指輪は箱の奥にしまい込み、彼から贈られた本は書庫へ移した。
並んで歩いた庭を避け、同じ茶葉の香りも遠ざけた。
父はそれ以上何も言わず、母は見守るだけだった。
ありがたかった。慰められれば泣き崩れてしまいそうだったから。
それでも夜になると、エドガーの言葉ばかり思い出した。
『私は最初から、あなたを好いていたわけではありません』
『私には他に好きな女性がいます』
あれほどはっきり言われたのに、どうして信じ切れないのだろう。
彼は嘘が上手い人ではない。
社交の場で愛想笑いをしても、目だけは少しも笑えない人だった。
好きでもない相手に、あれほど長く誠実でいられるだろうか。
ひと月、ふた月と過ぎた頃、父が新しい縁談を遠回しに示した。
「今すぐ返事をしろとは言わん。ただ、いずれは考えねばならぬ」
当然だった。
侯爵令嬢がいつまでも破談の傷に浸っているわけにはいかない。
それでも、その夜、セシリアは決めた。
王都で名の知られた民間調査士、ヴィクター・ヘイル宛の手紙に、たった一行だけ書く。
婚約解消の際、元婚約者は『他家の令嬢と結婚する』と述べました。その事実確認をお願いいたします。
復縁したいわけではない。
ただ真実を知りたかった。
そうでなければ、前へ進めなかった。
ヴィクター・ヘイルは、噂よりずっと普通の男だった。
三十代半ばほど。
身なりは地味だが清潔で、目だけが妙に鋭い。
「確認します」
彼は依頼書を机上に置いた。
「ご依頼は『エドガー・レイヴンヒル氏の婚姻事実の有無の確認』。理由は伺いません」
「ええ」
「結果によっては、望まぬ事実が出る可能性もあります」
「承知しています」
「二週間ください。確かなものをお持ちします」
十三日後、彼は報告書を携えて戻ってきた。
「結論から申し上げます。エドガー・レイヴンヒル氏に婚姻の事実はありません。婚約記録もなし。『好きな女性』とされる令嬢との接触も、社交上の最低限のみです」
セシリアの指先が震えた。
「……本当に?」
「事実です」
では、あの言葉は嘘だった。
あれほど残酷な嘘を、彼は自分に向かって吐いたのだ。
「追加調査を」
「内容は」
「なぜあんな嘘をついたのか。何を隠しているのか。分かる範囲で」
ヴィクターは数秒沈黙し、やがてうなずいた。
「承知しました」
二度目の報告書は厚かった。
「事実から申し上げます」
ヴィクターは淡々とページをめくる。
「婚約解消後、レイヴンヒル家は家計逼迫のため多くの使用人を暇に出しました。にもかかわらず、エドガー氏は私財を処分し、アシュフォード侯爵家に対する悪意ある噂が広まらぬよう裏で動いています」
「噂?」
「『セシリア嬢は降爵した家を捨てた薄情な女だ』という類いのものです。三件立ちましたが、いずれも拡散前に潰されています」
報告書をめくる指先が冷たかった。
知りたいと願ったのは自分なのに、知るほどに胸が痛んだ。
「なぜ、そんなことを」
「本人に聞かねば分かりません。ですが、もう一つあります」
ヴィクターは別の紙を差し出した。
「妙なのは、あなたへの悪評は消えているのに、彼には『侯爵家の後ろ盾目当てで近づいた男』『家のために婚約した打算家』という評判だけが残っていることです」
「……」
「しかも本人はそれを否定していません」
セシリアの喉が詰まった。
彼は、わざとそう見られていた。
自分が最低の男だと信じられるように。
「推測を述べても?」
「お願いします」
「おそらく彼は、婚約解消を望んでいなかった。しかし継続も望めなかった。あなたが家を捨てる覚悟を口にしたことで、決めたのでしょう。身分差そのものではなく、“あなたにそこまでさせること”が耐えられなかった」
セシリアは目を閉じた。
あのときの彼の顔が、ようやくつながった。
「……会いに行きます」
「それがよろしいかと」
「ありがとう、ヴィクター」
忘れられないからではない。
真実を知ったからでもない。
勝手に終わらせられたままでは、終われない。
それだけだった。
レイヴンヒル家の屋敷はひどく静かだった。
書庫の扉を叩くと、内側で椅子が鳴る音がした。
「――誰だ」
その声だけで胸が痛んだ。
忘れられなかったのは本当だった。
扉を開けると、エドガーが立ち尽くした。
まるで幽霊でも見たような顔だった。
「セシリア」
「ごきげんよう、エドガー様」
「なぜここに」
「婚約を破棄した相手を探偵に調べさせる女もおりますの」
彼の顔色が変わる。
「……探偵?」
「ええ。まず確かめたかったのです。あなたが本当に、他の娘と結婚したのか」
沈黙が落ちた。
「結婚していませんでしたわね」
「……」
「好きな女性もいなかった」
エドガーが苦しげに目を伏せる。
「帰ってくれ」
「嫌です」
「セシリア」
「また勝手に決めるおつもりですか」
彼の肩が震えた。
「どうして、あんな嘘をついたのです」
「言えば、君は諦めなかった」
「当然です」
即答すると、彼はひどくつらそうに眉を寄せた。
「君は家を捨てると言った」
「ええ」
「そんなことをさせられるはずがない」
かすれた声だった。
「家名も、父君も、母君も、君が生まれてからずっと大事にしてきたものを、私のために捨てさせるなどできない。今の私には、君に何一つ返せない。家は落ち、財もない。そんなところへ引きずり下ろしておいて、愛しているなどとどう言えというんだ」
「だから、嫌われることを選んだ?」
「そうだ」
エドガーは目を伏せた。
「最低の男だと思われた方がましだった。君が私を恨んで忘れてくれれば、それでよかった」
「本当に、馬鹿ですわ」
エドガーがわずかに目を見開く。
「私のためだったとおっしゃるのなら、なおさら馬鹿です」
「セシリア」
「私は忘れようとしました。指輪をしまって、思い出を遠ざけて、新しい縁談まで考えました。それでも忘れられなかった。苦しくて、信じ切れなくて、眠れない夜ばかりでした」
彼の顔が痛みに歪む。
「……すまない」
「謝れば済むと思っていらっしゃるの」
セシリアはまっすぐ彼を見た。
「私のためだったと言うなら、なぜ私から選ぶ権利まで奪ったのですか」
「……」
「私が家を捨てると決めるなら、それは私の選択です。後悔するかもしれない。泣くかもしれない。それでも決めるのは私です。それなのにあなたは、守ると言いながら、私の人生を勝手に終わらせた」
エドガーは反論しなかった。
ただ立ち尽くし、拳を握りしめる。
「私が怖かったんだ」
しばらくして、彼は絞り出すように言った。
「君が本当にすべてを捨てることが。君の父君の顔を見るのも、母君に頭を下げられるのも、怖かった。君に後悔させる未来が。だから先に切った。君が私を嫌えば、それで済むと思った」
セシリアは目を閉じた。
彼は彼なりに誠実だったのだろう。
だが誠実であろうとして、ひどく不誠実なことをした。
「エドガー様」
静かに呼ぶと、彼が顔を上げる。
「私はまだ、あなたを愛しています」
「……っ」
「だからこそ、今日ここで頷くことはできません」
彼の喉がかすかに動いた。
「あなたが私を想っていたことは分かりました。けれど、あの日の傷まで消えたわけではありません」
「当然だ」
「ええ。当然です」
セシリアは一歩下がった。
「次に私の前に来るなら、まずお父様に本当のことを話してください」
「……侯爵に?」
「ええ。私を遠ざけるためについた嘘も、私を傷つけたことも、全部です」
エドガーは言葉を失った。
「私にだけ本当のことを言って済ませるのは許しません。あの日、あなたはお父様にも、家にも、嘘をついて去ったのです。もし本当に、今度こそ私に選ばせてほしいと願うなら――逃げずにそこから始めてください」
長い沈黙のあと、彼はゆっくりとうなずいた。
「……分かった」
「本当に?」
「ああ。次は逃げない」
その声は震えていたが、今度は嘘ではないと分かった。
セシリアは踵を返す。
「待ってくれ」
背後で、かすれた声がした。
初めてだった。
彼が自分を引き止める声を聞いたのは。
それでもセシリアは振り返らなかった。
なぜか涙がこぼれて、今の顔を見せたくなかった。
そのときふと、去っていく彼の背を見送った日のことが胸をよぎる。
――ああ、あのときエドガー様も、振り返らなかったのではなく、振り返れなかったのだ。
「待つかどうかは、私が決めますわ」
前を向いたまま、セシリアは言った。
扉を開ける直前、背後で深く頭を下げる気配がした。
「……次は、嘘をつかない」
「でしたら、そのとき考えて差し上げます」
それだけを残して、セシリアは書庫を出た。
その三日後、父が珍しく朝食の席でセシリアを呼び止めた。
「あとで少し、書斎へ来なさい」
厳しい声ではなかった。
けれど軽くもなかった。
セシリアは心臓が早くなるのを感じながら、食後に父の書斎を訪れた。
扉の前まで来たところで、中から聞き覚えのある声がした。
「……あのとき私は、侯爵家の御令嬢を守るつもりで、御令嬢の意志を踏みにじりました」
エドガーだった。
セシリアは思わず足を止める。
「私は彼女に嫌われればそれでよいと考えました。自分が最低の男だと思われれば、彼女は前を向けると。ですが、それはただの臆病でした」
父はしばらく黙っていたらしい。
やがて、低い声が返る。
「お前が臆病だったことは分かった。では今は何だ」
「臆病なままです」
エドガーはそう答えた。
「ですが、それでも逃げずに申し上げます。私は今もセシリア様を愛しています。愛しているから手放したなどと、今さら綺麗に言うつもりはありません。私は彼女に選ばれる覚悟も、拒まれる覚悟も持たずに去りました。そのことをまず、あなたに詫びに参りました」
セシリアの喉が熱くなった。
父はすぐには何も言わなかった。
長い沈黙のあと、扉越しに静かな声が落ちる。
「お前が謝るべき相手は、私ではなく娘だ」
「承知しております」
「それでもまずここへ来たのは」
「彼女に近づく前に、逃げた場所へ戻るべきだと思ったからです」
セシリアは、思わず目を伏せた。
やがて父の足音が近づき、書斎の扉が開いた。
ローレンス侯爵は娘の姿を見ても驚かなかった。最初から気づいていたのだろう。
「聞いていたか」
「……はい」
「なら、あとはお前が決めなさい」
父は少しだけ脇へ退いた。
開いた扉の向こう、書斎の中央にエドガーが立っていた。
あの日と同じ部屋なのに、今度の彼は逃げるためではなく、残るためにそこにいる。
視線が合う。
彼は何も言わなかった。
言い訳も、懇願も、しなかった。
ただまっすぐに、セシリアの答えを待っていた。
あの日、自分から奪われたものが、ようやくそこに戻ってきたのだと分かった。
選ぶ権利。
セシリアは胸の前で指を重ね、ひとつ息を吸った。
もう勝手に終わらせはしない。
だから今度は、自分で決める。
「――今度こそ、あなたの本当の言葉を聞かせてくださいませ、エドガー様」
その一歩は、誰にも奪われない、セシリア自身のものだった。




