第九話 違われた約束
大聖堂を初めて訪れた日の夜更け――
眠りが浅くなった私は、瞼を閉じたままで身動ぎをした。
「ん……」
寝返りを打とうとすると、何かにぶつかった。
(何……?)
目を開くと、黒い影が私に覆い被さっていた。
「なっ……──んんっ……!」
口を塞がれて声が出せない。
薄暗かった部屋に月明かりが差し、その顔が照らし出される。
(フィデル卿……?!)
「大声を出さないでください……貴女も、私のことはお嫌いではないはずだ……」
囁くように落ちた声に、私は目を見開いた。
私を見下ろす彼の瞳が、見たことのない色に染まっている。
(――!)
しゅるりと、布が擦れる音が響いた。
腰に結ばれていたはずのリボンが、彼の手に握られている。
「皇帝陛下に、首を跳ねられますわよ」
「……承知の上です」
リボンが唇を覆った。後頭部で結ばれた残りが、両手首にまで巻き付けられる。
(最悪だわ、このままじゃ……)
ふいに、テオバルドに奪われた短剣を思い出す。
「アダルジーザ様……貴女に一瞬でも触れられるのならば、この命惜しくはありません……」
掠れた声とともに、彼の顔が近づいてくる。
(誰か……!)
その時、扉が勢い良く開かれて誰かが駆け込んできた。
その誰かはフィデル卿を殴り飛ばすと、私を抱き起こし、口を塞いでいたリボンを外してくれた。
「アダルジーザ様、ご無事ですか?!」
「クレメンテ卿……」
彼のマントに包まれると、涙が零れそうになった。私は震える手でマントの胸元を手繰り寄せる。
「皇帝陛下にお伝えしろ!」
クレメンテ卿が叫んで、続いて入ってきた騎士が部屋を飛び出して行った。
そしてクレメンテ卿は、部屋の奥に倒れていたフィデル卿を拘束した。
私は、その様子から顔を背けた。
◇
「アダルジーザ!!」
少しして、息を切らせたテオバルドが飛び込んできた。
「……その男は、牢に入れておけ」
恐ろしく低い声が落ちた。
彼は拘束されたフィデル卿を一瞥すると、私に近付いてきた。
「クレメンテ卿、ご苦労だった。もう下がって良い」
クレメンテ卿が下がると、私を包んでいたマントがテオバルドの手で剥がされた。
彼は、息を呑んだ。
拘束されたままの両手首が露わになる。
彼は沈黙したまま、そっとリボンを解いた。
「アダルジーザ……」
私の頬に触れようとした彼の手を、思わず払いのけてしまった。
さっき起きたことは、彼が悪いわけではない。それでも、触れられたくなかった。
「アダルジーザ……すまない……」
掠れた声が落ち、俯いた私は彼に背を向けた。
「一人にしてくださいませ……」
「……わかった」
彼はそれだけを言うと、部屋を後にした。
頬に触れようとした彼の手は、震えていた。
ひどく揺らいでいた赤い瞳――私を案じ、憔悴したあの眼差しに、何故か父を思い出した。
故国を滅ぼされてから、幾度も危険な目に遭ってきた。その度に、何とか身を守っては来たが――
私は、父にずっと守られていたのだと改めて強く感じた。
(お父様……)
私一人の部屋は、静寂に満ちていた。
震える肩を、強く抱き締める。
窓から差し込む月明かりは、まるで何も起きなかったかのように部屋を照らしていた――
◇
どこからか、雫が落ちる音が微かに響いた。
肌に纏わりつくように湿度を帯びた空気は、ひどくひんやりとしている。
「貴様……アダルジーザに触れられるなら、命は惜しくないと抜かしたそうだな」
薄暗い地下牢に、低く冷酷な声が落ちた。
両膝を付いたままのフィデルが、布を噛まされたままテオバルドを見上げる。
「その望みを叶えてやろう」
テオバルドの剣が振るわれ、フィデルが石床に倒れる音が鈍く響いた。
テオバルドが、背後の男に声を掛ける。
「扉を守る近衛はもう一人いたはずだ」
「ベルナルディータ卿はフィデルに言われ休憩を取っていたそうです」
バルデスの返答に、テオバルドは険しい顔で拳を握り締めた。
(いや――悪いのは、私だ……)
甘く考え過ぎていた――彼は、強くそう感じていた。
――『……わたくしの身が危険に晒されたとき、皇帝陛下が守ってくださるのですか』
彼女の言葉と、真っ直ぐな瞳が脳裏に浮かぶ。
「アダルジーザの部屋を皇后宮へ移せ。近衛は、改めて私が決める」
「皇帝陛下、それは──」
「命令だ」
低く放たれた声に、バルデスは頭を垂れた。
石造りの階段を昇る冷たい靴音だけが、響いていた。




