第八話 再会と魔の手
グラナード城で過ごし始めてから、数日が経った。
私は、昼下がりに大聖堂を訪れていた。
ベルナルディータ卿が加わってから近衛は交代制になり、今日の日中はフィデル卿とクレメンテ卿が付き添っている。
(女神エルシリア……)
大聖堂の奥。女神像の足元に跪くと、白いドレスの裾が淡い青の光に照らされた。
女神は、その左腕に白桔梗の花束を抱き、右手をこちらへ差し伸べ、慈愛に満ちたたおやかな微笑を浮かべている。
女神エルシリアは、はるか昔に天上より舞い降りてこの世界に生命を生み出した――すべての命を加護する、生と豊穣の女神と云われている。
けれど、弟のアメデオを失った瞬間から、厚かったはずの私の信仰心は揺らいでいた。
(もし本当にいらっしゃるのなら、どうか──)
静かな靴音が止まった。
「アダルジーザ姫……?」
響いたのは、聞き覚えのある甘さを帯びた穏やかな声。
視線を向けると、そこには一人の神官が立っていた。
「ナタニエル様……!」
私はすぐに立ち上がると、彼に駆け寄った。
柔らかな光の中で、白金のように輝くホワイトブロンドの髪が煌めいている。
彼は純白の聖衣を纏い、金の刺繍が施されたストラと飾り帯を身に着けていた。
「この城においでだと話には伺っていましたが……貴女がご無事で何よりです」
「貴女のことは、我が国でもお救いすべく動いていたのですが、間に合わず……お許しください」と瞳を伏せた彼に、私は首を振った。
大司教である彼は、エルシリア教の総本山であるスフェール神聖国の王太子でもある。
神聖国が、エルシリア教を国教とするプラータ王国と剣を交えることなど出来なかったはずだ。
「そのお気持ちだけで……ナタニエル様にまたお会いできるなんて、夢のようですわ」
私がそう言うと、彼は赤みを帯びた深い紫色の瞳を細め微笑んだ。
――二年前、私が十六歳の頃。
五歳年上の彼は、ペルラ城の大聖堂に大司教として赴任してきた。それから約一年後に他国へ異動するまで、私たちは度々大聖堂で会っていた。
彼は、私が微笑んでも目の色を変えなかった、ただ一人の男だった。
「ナタニエル様はオーロ王国にお勤めだと聞いておりましたの……まさか、この国にいらっしゃるなんて」
「グラナードには、この春に赴任してきたばかりなのです」
「まあ……そうでしたのね」
私がそう言うと、彼は柔らかく微笑んだ。
「ナタニエル様は、しばらくこちらにお勤めなのですか」
「冬になるまではこの国にいる予定です」
その返答に、私は肩を落とした。
自分の命が脅かされるこの城で、見知った彼がいなくなることが不安なのかもしれない。
「そのようなお顔をなさらないでください。……我がスフェールは、いつでも貴女を歓迎致しますよ」
穏やかな優しい声に、私の胸は暖かくなった。
女神エルシリアのように慈愛に満ちた彼の微笑みに、心が洗われるように感じる。
(ナタニエル様……?)
彼の視線が、ふいに私の後方を捉えた。
僅かに細められた目の奥に、見たことのない鋭さが感じられる。
私の背後にいるのは、近衛騎士の――
「カンデラリア大司教様」
響いた声に振り返れば、亜麻色の髪の女性の神官がこちらを窺っていた。
「アダルジーザ姫……何か困ったことがあれば、いつでもいらしてください」
私の耳元でそう囁くと、彼は神官の元へと去って行った。残された香の甘やかな香りだけが、神聖な空気に溶けていく。
私は彼の後ろ姿を見つめていた。
彼なら、この城から私を救い出してくれるだろうか――そんな期待を少しだけ抱いてしまっていた。
「アダルジーザ様、いかがなさいますか」
クレメンテ卿の声に振り返ると、近衛の二人がいつものように佇んでいた。
(フィデル卿……?)
初めて逸らされた彼の視線に、何故だか胸がざわついた。僅かに伏せられた瞼に、その瞳の色は見えない。
「アダルジーザ様、どうかなさいましたか」
クレメンテ卿は、いつもと変わらず穏やかな表情を浮かべている。
「いえ……何でもありませんわ。もう、部屋に戻ります」
開かれた大扉をくぐって、私は大聖堂を後にした。
◇
夕食後、湯浴みを済ませた私は寝台に横たわっていた。扉の外は、フィデル卿とベルナルディータ卿が守っている。
(ナタニエル様が、この城にいらっしゃるなんて……)
ため息を零した私は、天蓋を見上げた。
彼の微笑みと穏やかな声を思い出すだけで、心が温もりに包まれる。ペルラを滅ぼされたあの日以来の、初めての安らぎを感じていた。
(また明日、大聖堂に……)
そう考えながら、私は燭台の炎をそっと消した。
◇
やけに静かな夜だった。
その日の夜更け。アダルジーザの眠る部屋の外では、一人の男が息を潜めていた。
男は扉を薄く開くと、中の様子をそっと窺う。そこには、月明かりに照らされて眠るアダルジーザの姿があった。
濡羽色の睫毛が白い頬に陰を落とし、咲初めの薔薇の花びらを思わせる唇は小さな寝息を立てている。
白い薄絹に包まれたしなやかな体が静かに上下している様に、男は喉を小さく鳴らした。
男は辺りを見回してから、静かに扉を開いた。
開かれた扉から部屋に一筋の光が差し込み、そして消えた。
静かな部屋の中に響いたのは、金属の擦れる微かな音――
忍び寄った影が、眠るアダルジーザへと手を伸ばす。
彼女は、何も知らぬまま深い夢の中にいた――




