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第六話 失った短剣

 テオバルドの命で数名の侍女が現れ、湯浴みを終えた私はドレスに着替えていた。淡い紫色の絹のドレスだ。


(随分、丁寧ね……)


 鏡台の前で、両脇に立った二人の侍女が私の長い髪を梳いている。櫛を持つ彼女たちの手は、微かに震えていた。


「あっ……!」


 鏡越しに目が合った片方の侍女の手から、櫛が滑り落ちた。


「申し訳ございません!」


 青褪めた顔で頭を垂れた侍女。もう片方の侍女も震えている。


「大丈夫よ。二人ともありがとう……もう十分よ」


 微笑んでそう言うと、彼女たちは潤んだ瞳で深々と頭を下げた。

 侍女が揃って部屋を出て行くと、張り詰めていた空気が解け、ひと時の静寂に満たされた。


(随分怯えていたわ……)


 私は、鏡越しに背後に佇む赤い瞳を見つめた。


「……髪は結わずとも良いのか」


(誰のせいだと……)


 私は小さくため息を吐くと振り返る。

 壁に寄り掛かるテオバルドは、私の髪が梳かれ始めたときからこうして立っていた。

 皇帝からこのように見つめられては、侍女たちが落ち着いて髪を結えるわけなどない。


「その色もよく似合うが……他にもドレスはあっただろう」


「……あのドレスは、わたくしには華やかすぎますわ」


 そう返して微笑む。

 用意されていた深紅のドレスのことを言っているのだろう。

 私はそれを「畏れ多い」と断り、他のドレスを用意してもらった。皇帝の瞳の色を堂々と纏うなど、この城の者たちからどう思われるか分かったものではない。

 今や私の身分は、“戦利品”なのだから――


「そうか……」


 僅かに伏せられた彼の瞳に、何故か胸がざわめいた。

 私たちの間に、短い沈黙が落ちる。


(短剣を返してもらわないと……)


 もらったはずの短剣の行方が、気になって仕方なかった。


「皇帝陛下……いただいた短剣が見当たらないのですが」


「……あれは、私が預かる」


「護身用にと、くださったではありませんか!」


 思わず少し声を荒げてしまった。

 確かに、馬車の中で彼はそう言ったはずだ。


「この城は安全だ。……お前は、私に守られていれば良い」


 “守る”――その言葉に、胸がざわめく。

 幼い頃、私たちの間に正式な婚約はなされなかったはずだ。七歳の頃から離宮で育てられた私は、彼と会った覚えもない。

 彼は、略奪され他国の王妃になるはずだった私をどうするつもりなのだろうか。


 けれど――


(ここが安全だなんて……本気で言っているのなら、随分おめでたい頭をしているのね)


 私はその言葉を呑み込んだ。私を殺すかもしれない彼に、言えるはずもなかった。

 私を欲する男は、何もテオバルドやプラータの亡き王族たちだけではない。吐き気がするが、それは私には変えようのない事実だった。


「……わたくしの身が危険に晒されたとき、皇帝陛下が守ってくださるのですか」


「傍にいるときは私が守る。……普段のことは、近衛に任せている」


 近衛──扉の外に控えている、若い二人の騎士の姿が浮かぶ。二人とも、やけに綺麗な顔立ちをしていた。


 そういえば――


(小説で……ロマンスの相手は誰だった……?)


 重要なことをすっかり忘れていた。

 けれど、記憶を必死に手繰り寄せても、思い出せることは何もなかった。

 

 相手はこのテオバルドの可能性もある。

 だが、もし彼が相手なら、アダルジーザは愛する男から殺されることになる。そんなロマンス小説があるのだろうか。


 それとも、アダルジーザはこの城の騎士や侍従などと恋仲になって、テオバルドから不興を買うのだろうか。


 男は、危険な存在だ――


(近衛騎士だからと、信用できないわ……)


 私は、扉をちらりと見た。

 近衛だから何だというのだろうか。私にとっては、兵も騎士も王子も皆同じだ。ただの男でしかない。


 理性を失えば、血を分けた兄弟ですら躊躇わずに手に掛ける――それが、私が目の当たりにしてきたことだ。


「アダルジーザ、何かあるのか」


「いえ、何も……皇帝陛下の御心のままに」


 私は胸に手を当て一礼すると、テオバルドに薄く微笑んだ。


 ◇


(あの態度は、何だ……)


 執務室に戻りしばらく経っても、テオバルドの心はざわめいていた。

 執務机の上で指を組み、部屋の隅に控えるバルデスを見る。


「バルデス。……近衛の人選は間違いないのだろうな」


「皇帝陛下の仰せの通りに、近衛隊の中でも極めて信頼できる騎士を選びましたが」


 “極めて”──その言葉が、テオバルドの心に引っかかった。彼が鋭い眼差しで見やると、バルデスの咳払いが落ちる。


「二人とも上位貴族の出身で品行方正。浮いた噂一つない男です。フィデル卿は結婚したばかり。クレメンテ卿は信仰心に厚く、清廉潔白だと評判です」


 「何より――アダルジーザ様にもし何かあれば文字通り首が飛ぶので、命に換えてもお守りするようにと申し伝えてありますので」とバルデスは頭を垂れた。


「……信仰とは――エルシリア教か」


 「他に何を信仰すると仰るのですか」と不思議そうな顔をしたバルデスに、テオバルドはほんの僅かに眉を寄せた。

 思い出した何かを打ち消すように、瞳を伏せる。


 テオバルドは、執務机の上に置いていた銀の短剣を抜いた。鞘に嵌め込まれた柘榴石が、灯りを弾いて煌めく。


 ──『これ以上わたくしに触れれば、死んで差し上げますわ』


 馬車の中で見た、アダルジーザの真っ直ぐな瞳を思い出す。

 彼女は短剣を自らの喉に突きつけ、震えもせずにそう言ったのだ。白く細い首を今にも貫きそうだった切っ先に、テオバルドの手が微かに震えた。


「皇帝陛下……」


「もう、下がって良い」


 立っていたバルデスを下がらせると、テオバルドは短剣を引き出しの奥へと仕舞った。


「急ぐことはない……」


 アダルジーザは、もうここにいる。

 ペルラ王国が滅ぼされ、彼女を奪われたあの日のように、絶望や憤りに支配されることはない。


 この時の彼は、そう信じていた――

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