◆第四十六話 花を捧げに
ひんやりと湿った空気の中に、微かな靴音が二つ響いている。
まだ夜が明ける前、テオバルド様と私はグラナード城の地下通路を歩いていた。彼が持つカンテラの灯りが、闇の中で揺れている。
「イーザ、足元に気を付けろ」
振り返った彼に差し出された手を握り、私は彼の先へと進んだ。
そこには、階段が続いていた。少し大きめの黒い外套とドレスの裾を持ち上げ、ゆっくりと階段を登っていく。
(外だわ……)
青い草の匂いに包まれる。出口は城壁の外に繋がっていた。
振り返ると、少し離れた場所にグラナード城が見える。まだ、あたりは薄暗かった。
「王家の者だけが知る抜け道だ」
そういった彼は、いつの間にか黒い馬を引いていた。
「さぁ、イーザ」
彼に手を差し出されて、私は馬へと乗った。その後ろにテオバルド様が跨る。
「しっかり掴まっていろ」
背を支える彼の硬い胸板を感じる間もなく、馬は駆け始めた。
私の故国であるペルラへ向かって――
◇
馬を走らせ続けて、陽が沈んだ。
森の中、テオバルド様は大きな木にもたれかかり、私はその胸に身を寄せていた。時折吹く風に、葉擦れの音が静かに響いている。
そっと見上げれば、木々の間からは白銀の星々が煌めいているのが見えた。
こうして城の外で過ごすのは初めてだった。
不思議な感覚に、私は夜空を見上げた。
「イーザ、大丈夫か」
「ええ、平気ですわ……わたくしの我が儘を聞いてくださって、感謝いたします」
「……私も挨拶に行きたいと思っていた」
そう静かに返してくれた彼の胸に、私は頬を寄せた。
亡き父と兄弟たちに花を捧げたいという私の願いのために、彼はこうして忍んで連れてきてくれたのだ。
「……ですが、数日も城を空けて大丈夫なのですか」
「バルデスに頼んである。何も心配しなくて良い」
彼の手が私の髪を撫でた。
「それよりも、私はお前のことが……」
言葉を詰まらせた彼は、言い淀んだまま視線を落とした。
「テオバルド様?」
「いや、何でもない……」と彼は微かに微笑むと、外套で私を包み込んで抱き寄せた。
彼の香りに、胸が高鳴り始める。
夜風に葉擦れの音が響く。
ふと、湧き上がった疑問に私は顔を上げた。
「テオバルド様は……どうしてここまでしてくださるのですか」
私がそう問うと、彼は目を見開いた。
黙って見上げていると、小さく吹き出した彼が「私にそれを聞くのか」と笑った。
交わった視線。
彼の赤い瞳には、私が映っている。
「……お前、私のことを怖がらなかっただろう」
「……?」
少し首を傾げた私の頬に、「昔の話だ」と微笑んだ彼が触れた。
「この瞳を少しも怖がらなかったのは――お前が初めてだった」
細められた、柘榴石のような瞳。
「イーザはまだ小さかったから、覚えていないだろうが――」
「宝石のようだと笑ったんだ」と言った彼の瞳は僅かに滲んで見えた。
(テオバルド様……)
「……忘れてくれ」
そう言って瞼を伏せた彼に、私は首を振った。
微笑んで見上げると、視線を逸らした彼にきつく抱き締められる。
「もう眠れ……お前のことは、私が守ってやる」
掠れた彼の声に、私は瞼を閉じた。
彼の鼓動と温もりに包まれながら、意識は微睡みに溶けていく。
どこからか、梟の鳴き声が響いていた――
◇
イーザが、私の腕の中で微かな寝息を立て始めた。その寝顔は、無邪気に笑っていたあの頃と変わらぬままだ――
バルデスに調べさせた報告書の内容が、脳裏を過ぎる。
――十一年前。
私と二つ違いだったペルラの廃太子と王妃の幽閉。
そして彼女のために用意された、女だけの離宮――
彼女との婚約の話が流れたことを父から聞かされたとき、十三歳だった私はひどく落ち込んだ。
そして、彼女と会う機会はなくなった。
だが、彼女が離宮で大切に育てられていると耳にして、『いずれ迎えに行けば良い』――そんな愚かな考えを抱いていた。
何も、知らずに――
右の拳を、強く握り締める。
この憤りは、私自身へ向けられたものだ。
何も知らず、のうのうと生きてきた自分が許せなかった――
「ん……」
僅かに身動ぎした彼女が、私の胸に頬を寄せた。華奢な体を外套で包み込む。
(必ず、守る……)
そう心に誓いながらも、私はどこか不安だった。
彼女を失うことを、恐れているのかもしれない――
冷たい風が吹き、彼女の体を守るようにそっと抱き寄せた。
見上げた木々の間からは、白銀の星たちが瞬いていた。
◇
夜が明けた。
テオバルド様の腕の中で迎えた朝は、とても温かく、少しだけ気恥ずかしかった。
私たちは、休憩を挟んで馬を走らせ続けた。
空が薄紅色に染まり始める頃、私たちはペルラの城へと到着した。
「イーザ……」
彼の気遣うような声を背に、私は城を見上げた。どこか寂しい風に、胸に抱いた白桔梗の花束が微かに揺れる。
(お父様……)
数ヶ月前に滅ぼされたペルラの城は、静かに眠るようにそこに佇んでいた。
プラータの計略によって守りが手薄になっていたペルラ城は、抵抗することも出来ずに落とされた。
美しかった城下町は無惨に破壊されたが、こうして城だけが美しいまま残されていた。
「イーザ、どこへ行くんだ」
「こちらですわ」
私は、城へと足を踏み入れた。
変わりのない外観とは違い、荒らされた城内の様子に胸がひどく締め付けられた。
ベルベットのカーテンは引き千切られ、壁を飾っていたはずの燭台や絵画も失われている。
とても、室内に入ろうとは思えなかった。
そうして城の廊下を抜け、私たちは中庭へと進んだ。
(ここに……お父様とアメデオが……)
そこには、白桔梗の花に囲まれた一つの真新しい墓石があった。墓石には、父と兄弟たちの名が刻まれている。
私は、跪いて花束を捧げた。
(……お父様、アメデオ、お兄様たち……どうか、安らかに……)
私は、亡くなった家族のために祈りを捧げた。
静かな風に、墓石に捧げた白桔梗の花が揺れた。
振り返ると、彼も跪いて祈りを捧げてくれていた。
「テオバルド様、ありがとうございます」
「イーザ……これは、一体誰が……?」
彼の視線に、私は再び墓石を見つめた。
「プラータの王太子殿下ですわ。父たちを埋葬してほしいと、お願いしたのです……」
あの婚礼の日に、弟の王子に斬られて命を落としたプラータの王太子。
彼は、私を手に入れようとしたプラータ国王から守ってくれた。愛していたわけではないが、彼に対しては感謝の念と言いようのない罪悪感を抱いていた。
そのとき、ふいにテオバルド様に抱き寄せられた。
胸元に押し付けた頬。彼の鼓動が聞こえる。
「……死んだ男のことなど忘れろ。私だけを見ていれば良い」
私は、黙ったまま彼の温かな胸に体を預けた。
辺りに咲いている白桔梗の花が静かに揺れている。
(テオバルド様……)
その時、ヒュンと風を切る音が響き、彼が体を反転させた。
「――っ……」
私を強く抱き締めていた腕が緩み、彼が低く呻いた。
「テオバルド様?」
冷たい風が吹き、白桔梗の花がざわりと揺れる。
「イーザ、すまない……」
僅かに顔を歪め、彼は片膝を付いた。
「テオバルド様……!!」
私は悲鳴をあげた。
彼の背中には、矢が刺さっていた――




