第四十二話 譲れない想い
私は、大聖堂の奥に佇む女神エルシリアの像の足元に跪いていた。
(どうか、クレメンテ卿を救ってください……)
私は必死に祈りを捧げていた。
彼には、禁忌とされている邪術が掛けられていたのだという。
あの夜会の晩、中庭で覆い被さってきた騎士は、おそらく操られていた彼なのだろう。
ナタニエル様が彼のために神官を呼んで解呪を行ってくれるそうだ。けれど、邪術が解けるかはわからないらしい――
私の命を狙う人物は、何故そんな卑劣な真似をしたのか。
そんなにも私を殺したいのなら、直接来るべきだ。そうすれば、彼はあんなにも苦しむことはなかったはずなのに――
聖堂は澄んだ光に包まれ、女神エルシリアは慈愛の微笑みを浮かべている。
それなのに、まるで私だけが闇の中で蹲っているかのような気分だった。
(もしまた、誰かが同じように邪術を掛けられたら――私は、どうすれば良いの……)
身近にいるアニタが、同じように邪術を掛けられる可能性もある。もし、そのせいでアニタが命を落としたら――
私は、私へ向けられる殺意と、目に見えない魔の力が恐ろしかった。
「アダルジーザ姫」
その声に顔を上げると、涙が頬を伝った。
「ナタニエル様……」
彼は傍らに跪くと、私の頬をハンカチでそっと押さえた。ほのかに甘い樹木の香りが、優しく包み込んでくれる。
この香りを嗅ぐと、不思議と心が安らいだ。
(また、涙が――)
瞬きをすると、また涙が零れた。
この城に来てから、随分涙脆くなってしまったように思う。国を滅ぼされたあの日に凍らせたはずの私の心は、いとも容易く崩されてしまった。
「アダルジーザ姫……私は、ここにいますよ」
その憂いの眼差しと優しい声音に、涙が幾つも零れる。私たちは、澄んだ光の中で見つめ合った。
その時、勢い良く大扉が開かれ、私たちは一緒に視線を向けた。
「陛下……」
硬い靴音を響かせて現れたのは陛下だった。
ナタニエル様の手が差し出され、私は静かに立ち上がる。
「珍しいですね……テオバルド」
そう言ったナタニエル様に鋭い視線を向けると、陛下は私を見つめた。
「……泣いていたのか」
落とされたのは、僅かに掠れた声。
陛下の黒い手袋に包まれた指先が、私の涙を掬った。
「来い、イーザ。……涙なら、私が拭ってやる」
「陛下……」
「イーザ、貴女のことは私が守ります」
ナタニエル様が、私の左手を握った。
いつになく強く握られた手に、思わず彼を振り返る。
「ナタニエル様……」
彼の赤紫の瞳の奥は、揺れていた。見たことのないその表情に、胸が締め付けられる。
「その手を離せ」
陛下が私の右手首を掴んだ。その赤い瞳は焦燥に揺らいでいる。
「あんな危険な城に帰すことは出来ません」
「私の部屋なら安全だ」
その言葉に、ナタニエル様が眉を顰める。
「そんなこと……許されるはずがありません」
険しい表情のナタニエル様に、陛下は薄く笑った。
「イーザは私の后になる女だ。何の問題がある」
「まだなってもいないのに、何を……」
眉を顰めているナタニエル様に、陛下は小さく笑った。
「生憎だが、イーザは私の部屋で過ごしたことがある……今更気にすることもあるまい」
(なっ……)
思わず陛下を少しだけ睨むと、彼は意地の悪い笑みを薄く浮かべた。
「それは……真実なのですか」
低く落とされたナタニエル様の声は、微かに震えている。
胸がぎゅっと締め付けられるような感覚に、私は少しだけ俯いた。
「気を失ったから、運んだだけだ」
その言葉に、ナタニエル様の目がほんの僅かに見開かれる。
私が彼を見上げると、まるで何かを思い出したかのように、その頬はほのかに色付いた。
(ナタニエル様……?)
彼に視線を逸らされて、私の胸はざわめいた。
僅かに伏せられた赤紫の瞳は、ひどく揺れている。
「イーザ」
陛下からぐいと腕を引かれ、私は振り返った。
ステンドグラス越しの澄んだ光の中で、赤い瞳が私を見下ろしている。
「我が后となれ」
心臓が、大きく鳴った。
何故か手が震える。
「イーザ、大丈夫ですか」
心配そうに紡がれた声に振り返る。
女神エルシリアを背に立つナタニエル様の姿に、胸がひどくざわめいた。その紫玉のような瞳は、切なげに私を見つめている。
(――私、は……)
ふいに頭の中に流れ込んできた情景に、ひどい目眩がした。
白い女神像の前に、私たちは立っていて――
「「イーザ!」」
澄んだ光の中で、私の意識は霞んでいく。
無意識に、彼の手を強く握り締めた――
(私は、この場所で杯を……)
小説の結末を、思い出した。
『囚われの王女アダルジーザ』の、最期を――




