第四十一話 涙
その晩、私は早くから寝台に横たわっていた。
扉の外は、ティムール卿が守ってくれている。
感情の滲まない彼の瞳は何を考えているかわからないが、少なくとも私を“女”という対象として見ていないように感じた。
個人を区別していると言うよりかは、何かの感情や認識が抜け落ちている――どこかそんな風に感じられた。
(せめて、アニタが怖がらないようになると良いんだけど……)
明日は久しぶりに庭園に行くのも良い。
そう思いながら、私は瞼を閉じた。
(クレメンテ卿は、大丈夫かしら……)
もう三週間近く彼の姿を見ていなかった。
体調が良くなったら、また戻ってきてくれるのだろうか――
気付けば、私は眠りに就いていた。
それから、どのくらい経ったのだろうか――
(――誰かが、泣いているの……?)
どこからか、誰かの泣き声が聞こえた気がした。
ふと、ひやりとした風が頬を撫でた感覚に、私は身動ぎをした。
(夢……?)
微睡む頬に、何かが落ちてきた。
水滴が伝う感覚に、私は瞼を開く。
「クレメンテ卿……?」
薄暗がりの中で、彼が私を見下ろし泣いていた。
(おかしな夢ね……)
「どうして、泣いているの……?」
私は、彼の濡れた頬にそっと触れた。
涙を拭うと、彼の瞳が僅かに見開かれる。
涙は、止め処なく溢れ続けていた。
「アダル、ジーザ様……」
その絞り出すような声に、私は胸が苦しくなった。暗くてよく見えないが、ひどくやつれているように見える。
「逃げて……ください……」
「えっ……?」
私がそう言った瞬間、彼の手が私の首へと伸ばされた――
そのとき、勢い良く扉が開き、銀色の刃が閃いた。
「やめて……!!」
飛び込んできたティムール卿の湾刀が、クレメンテ卿の首に当てられている。
その首筋から血が滲んでいるのを見て、私は思わず叫んだ。
(夢じゃなかったのね……!)
「剣を下ろして!」
ティムール卿は一瞬躊躇すると、帯剣していないクレメンテ卿を見てから、湾刀を下ろした。
「ですが、この者はアダルジーザ様を――」
「待って、様子がおかしいわ」
クレメンテ卿は抵抗も言い訳もせず、涙に濡れた顔を隠すこともなく、ただそこにいた。
「クレメンテ卿……一体、どうなさったの?」
彼がこんなことをするはずがない。
それに、こんなに泣いているのは何故なのか――
廊下から差し込む灯りが、私たちを照らしている。
彼の濡れた瞳が、私を見つめた。
「殺して、ください……」
落とされた言葉に、息が止まりそうになった。
ティムール卿が、クレメンテ卿を後ろ手に拘束する。
「アダルジーザ様……お許しを……」
項垂れるクレメンテ卿の肩に、私はそっと触れた。
「わたくしは大丈夫ですわ。どうか落ち着いて」
そのとき、激しい靴音が響き、開け放たれた扉から陛下が飛び込んできた。
「アダルジーザ、無事か?!」
「陛下……」
彼の姿を見た瞬間、安堵に包まれる。
彼は、クレメンテ卿の姿に目を見開くと、私たちに駆け寄った。その後ろからは、バルデスが続く。
「クレメンテ卿、これは一体……」
「皇帝陛下――私を、早く殺してください……!」
泣きながらそう叫んだクレメンテ卿を、陛下は唖然と見つめている。
「……とにかく、クレメンテ卿を連れて行け。話はそれからだ」
ティムール卿が彼を立ち上がらせたときだった。
彼は大きく首を振った。
「このままでは私は……きっと、アダルジーザ様を殺してしまいます」
その言葉に、皆が動きを止めた。
(どういうことなの……)
「貴女を手に掛けようとするなど、私は耐えられません――」
そう言ったクレメンテ卿が、力なく崩れ落ちた。
「クレメンテ卿!」
私は、倒れた彼の傍に跪いた。
「ご安心を。眠らせただけです」
ティムール卿が、気を失ったクレメンテ卿の口に懐から取り出した布を噛ませた。
「クレメンテ卿に、何を……」
「自害を防ぐためです。皇帝陛下、いかがなさいますか」
「……地下で休ませておけ」と返した陛下が、バルデスを振り返る。
「バルデス、すぐに大聖堂に使いを――」
一体、何が起こったのか――私には、まだ受け入れることが出来なかった。
◇
グラナード城、地下の一室。
石造りのひんやりとしたその部屋に、テオバルドは立っていた――
「イーザは?!」
黒い外套を纏ったまま飛び込んできたナタニエルに、テオバルドは視線を向けた。
「今、眠っている」
泣き腫らして眠りに就いたアダルジーザを思い出し、テオバルドは視線を落とした。
「無事なんですね」とナタニエルは安堵の息を吐いて、フードを下ろす。
灰色の石壁に備え付けられた燭台では、静かに炎が揺らめいていた。
「これを見ろ」
テオバルドは、横たわるクレメンテを指した。
彼の口には布が噛まされ、両腕は後ろで拘束されている。
「この方は、イーザの近衛騎士の……」
「ああ……『殺してほしい』と泣き喚いてな。このままでは、イーザを殺してしまうと」
そのとき、眉を顰めたナタニエルは息を呑んだ。
うつ伏せに寝かされたクレメンテの首の後ろに刻まれた、黒い刻印を見つめている。
「ナタニエル、知っているのか」
「……一度だけ、見たことがあって……」
ナタニエルは何かを言い淀むように口を閉ざした。僅かに眉を顰めながら、それを見つめている。
「恐らくは……邪術の刻印です。首の後ろの刻印は、術を掛けられた人に現れるとされています」
「邪術? ……一体どのようなものだ」
「冥府の王と契約を交わして行われる邪法としか……古くから禁忌とされていますので、情報が少ないのです」
その回答に、テオバルドは眉を寄せた。
「……冥府の王との契約とは何だ」
「術者の命を――寿命を冥府の王に捧げることで、その対価を得るそうです」
「そこまでして、誰がイーザを……」
その時、クレメンテを見つめていたナタニエルは、何かを思い出したかのように顔を上げた。
(この気配は……)
夜会の夜、倒れていたアダルジーザの周りで感じた禍々しい残滓を、彼は思い出した。
「この方に掛けられている邪術は、操られる類のものかと……詳しくはわかりませんが」と口籠ったナタニエルは、テオバルドを振り返る。
「私の力だけでは、この方を救うことはできません……スフェールから神官を呼びます」
「解呪できるかはわかりませんが、出来うる限りのことはします」と付け加えたナタニエルに、テオバルドは瞼を伏せた。
「すまない。……何とか助けてやってほしい」
掠れた声のテオバルドに、ナタニエルはほんの微かに笑んで頷いた。
「バルコニーから侵入されたそうですね……彼女の部屋に、結界を張りましょう」
ナタニエルの言葉に、テオバルドは僅かに顔を上げた。
「必要ない」
「本気で言っているんですか」
低く放たれたナタニエルの声は、怒気を孕んでいた。
「……私が守る」
二人の視線が交わり、空気が張り詰める。
「あなたは……彼女がどのように育てられたのか、知らないでしょう」
冷たく響いたのは、微かに震える声。
テオバルドの眉が僅かに動いた。
「……何の話だ」
「……あなたとの婚約が進められてから、まだ幼かった彼女の人生は変わった」
燭台の炎が大きく揺らめいた。
赤紫の瞳が、テオバルドを見据える。
「……彼女は――守るために、閉じ込められていたのです」
テオバルドは険しい表情を崩さず、ナタニエルを見つめ返した。
ナタニエルは何かを言おうとして、視線を落とした。
「とにかく、結界は張って帰ります。神官もすぐに手配しますので……すべて、彼女を守るためです」
それだけを低く言い残し、ナタニエルは外套を翻した。
静まり返った部屋に、石段を登っていく音だけが響く。
(閉じ込められた……?)
テオバルドは黒い後ろ姿を見送り、微かに震える拳を握った。
彼の胸には暗い靄がかかり、二人の間の亀裂は一層深く刻まれた。
その頃――
アダルジーザの閉じられた瞼から、涙が零れ落ちた。
彼女は、深い夢の中を独り彷徨っていた。
運命が決まる、そのときが迫っていることも知らずに――




