第三十六話 円舞曲
「皆がお前を見ているな」
何も返さない私に、皇帝陛下が薄く笑う。
目立っているのは彼も同じだ。
ホールで踊っているのは、私達だけだった。集まった人々が囲む中で、ワルツを踊り続ける。
「アダルジーザ……考えてくれたか」
私は、その質問に答えることができなかった。
まだ覚悟はできていない。彼の后になれば、大聖堂で聖杯を受けることになるのだから。
そうすれば、私はきっと命を落とすことになる――
「アダルジーザ……」
彼の赤い瞳に射抜かれ、私は少しだけ視線を逸らした。
「もう少し……お時間をいただきたいのです」
そう静かに告げると、彼は瞳を伏せて微かに微笑んだ。どこか切なそうな表情に、胸がちくりと痛む。
彼に返事が出来る日は、いつ来るのだろうか。
そしてそれは、彼にとって望むものになるのだろうか――
彼の黒いマントが揺れるのに合わせて、私の纏う純白のドレスの裾が柔らかく広がる。
彼のリードでステップを踏みながら、ふと左の足首に付けているアンクレットに意識が向いた。
(……ナタニエル様も、おいでなのかしら)
思わず、人で溢れる会場の中に白金の髪を探してしまう。
だが、彼の姿はどこにも見当たらなかった。
「アダルジーザ」
ぐいと腰を引き寄せられ、間近に赤い瞳が迫る。
「誰のことを考えている」
私は思わず息を呑んだ。
言えるわけがない。ナタニエル様の姿を探していたなどと――
「今は……私だけを見てくれ」
それだけを呟くように言うと、彼は視線を落とした。
(皇帝陛下……)
それから私達は、演奏が終わるまで言葉を交わさずに踊り続けた。
◇
皇帝陛下は、他国の来賓と話があるからと私から離れていった。「すぐに戻る」と言ってくれたが、いつ戻るかはわからない。
大広間の端にいるクレメンテ卿の姿が目に入った。今日は王族の来賓が多いため、会場の警備に配されているそうだ。
(ここには、居づらいわね……)
私はあまりに目立っていた。
令嬢たちは遠巻きに鋭い視線を送り、男達は声を掛けるタイミングを見計らっているように感じる。
私は胸の内でため息を吐いて瞳を伏せると、静かに人の少ない窓辺へと移動した。
中庭があるはずのその硝子の向こうは、まるで宵闇のように何も見えなかった。
「アダルジーザ王女」
ふいに背後から掛けられたその声に、背筋がゾクリとした。
漆黒に染まる硝子には、白い礼装を纏ったエミディオの姿が映っている。
「エミディオ殿下……」
私はゆっくりと振り返ると、ドレスの裾を摘んで一礼した。
近付く靴音に、私はそっと後退る。
「宜しければ、一杯いかがですか」
差し出されたグラスの中には、淡い薄紅色のシャンパンが泡を立てていた。
(何を考えているの……?)
先日の一件を思い出し、警鐘を鳴らすかのように心臓が早鐘を打っている。
「遠慮させていただきますわ」と静かに返すと、彼の笑みが僅かに強張った。
「あの後……一体どうなさったんですか」
低く落ちた声。彼の鋭くなった赤い瞳に、手が微かに震える。
「まさか、誰かに――」
「失礼。アダルジーザ姫、お探ししましたよ」
「ナタニエル様……」
私は、エミディオを遮るように現れたナタニエル様に近付いた。
いつもの聖衣とは違い、白銀の装飾が施された純白の礼装を纏っている。大司教としてではなく、スフェールの王太子として参加しているのだろう。
「エミディオ殿下、あちらでドロテーア王女がお待ちですよ」
その声に、エミディオは振り返った。
離れた場所では、令嬢たちに囲まれる中、赤いドレスで着飾ったドロテーアがこちらを窺っている。
彼女は一瞬だけ私を睨むと、ツンと顔を背けた。
「じきに、テオバルドも戻るはずです。ここで一緒にご歓談されますか」
そう言って目を細めたナタニエル様に、エミディオは顔を引き攣らせた。
「婚約者が待っているので、私はこれで……」
エミディオは私を少しだけ窺い見ると、ドロテーアの元へと歩いて行った。
その後ろ姿を見送ったナタニエル様が微かなため息を落とすと、私に視線を向ける。
「アダルジーザ姫……あまりに、無防備が過ぎますよ」
僅かに硬い彼の声に、私は視線を落とした。
「テオバルドには、話していないのですか」
低く落とされた声に、私は小さく頷いた。
「アダルジーザ姫……」
「恐ろしいのです……私のせいで、また命が失われるのではないかと……」
あの日、目の前で崩れ落ちた弟の姿が浮かぶ。
兄弟で争う姿など、二度と見たくはなかった。例え、どんな理由があろうと――
涙が滲みそうになり、私は少しだけ顔を逸らした。
赤紫の瞳が私を見つめている。彼の眼差しは、憂いを帯びたように僅かな影を落としていた。
窓の外。中庭があるはずのその場所には、底の見えない闇が広がっているように見えた――




