第三十五話 皇帝の寵姫
「アダルジーザ様だ……」
若い騎士の囁きが落ちた。
純白のドレスの裾が衣擦れの音を立てる度、回廊に立つ騎士や兵たちは私を窺い見た。
集まる視線に、傍らを歩く皇帝陛下が無言で私の腰を抱き寄せる。
彼は前髪を後頭部に向かって流していた。露わになった額に、赤い瞳がより鋭く見える。
歩みを進めるたびに黒い礼装に施された金の装飾が灯りに煌めき、漆黒のベルベットのマントは静かに揺れた。
「アダルジーザ……私から離れるな」
彼は、前を見据えたまま低く口にした。それは、甘い響きではなかった。
(さすがに、緊張するわね……)
私は、彼の腕に添えた手にそっと力を込めた。震えを見せるわけにはいかない。
この先に、何が待っているかわからないのだから――
私たちは、大きな扉の前に立った。
見知らぬ近衛騎士が私を見て一瞬時を止めると、皇帝陛下の視線に居住まいを正して扉を開く。
「グラナード帝国皇帝陛下のご入場でございます」
私達が会場へ足を踏み入れると、ざわめきが止んだ。
磨かれた床が、シャンデリアの灯りを弾いている。会場中にひしめき合うのは、色とりどりのドレスと燕尾服。
会場の奥では優美な弦楽が奏でられ、南の庭園に面した一面の硝子張りの窓は、既に闇に染まっていた。
微かな囁き声と、美しい弦楽の調べだけが流れていく。
会場中の視線が、私達へと向けられていた。
「なんと美しい……あれが“ペルラの真珠”か……」
「所詮噂だと思っていたが……プラータの王族たちが奪い合うはずだ」
男達の視線を遮るように、皇帝陛下が向きを僅かに変えた。
私は聞こえないふりをして、彼に寄り添って会場を進んだ。
女達の視線は様々だった。呆然と見つめる者、忌々しげに睨む者、俯いたり顔を逸らしている者も多い。ただ、彼女たちは皆口を閉ざしていた。
(この容姿も、ここまで来るとまるで呪いだわ)
私は微かな笑みを浮かべ、彼にただ寄り添い歩いた。
「皇帝陛下に、ご挨拶申し上げます」
そこへ現れたのは、エメルリンダだった。
光沢のある淡いブルーのドレスが、灯りに煌めいている。淡い金の髪も相まって、彼女はまるで聖女のような清らかさを纏っていた。
「ザッフィロ王国のエメルリンダにございます。こうしてお招きいただき、誠に光栄ですわ」
「エメルリンダ王女、よく来た」
テオバルドは、色のない声で淡々とそれだけを返した。
僅かに微笑みを強張らせたエメルリンダに、空気がピンと張り詰める。
私に視線を向けた彼女の瞳が微かに揺れた。
だが、その青い瞳はゆるやかな弧を描く。
「アダルジーザ様、良い夜ですわね」
「ええ……エメルリンダ王女殿下」
私達の間に、張り詰めた沈黙が流れる。
可憐に微笑んだ彼女は、皇帝陛下を見上げた。
「皇帝陛下、宜しければ私と──」
「アダルジーザ、行くぞ」
皇帝陛下はエメルリンダの声を遮ると、私の腰を抱いて歩き出した。
一瞬だけ見えた彼女の表情。彼女は、口元だけで静かに微笑んでいた。
(私のことが憎いでしょうね)
一国の王女であり、容姿も美しい彼女がここまで無下にされることはなかったはず。私のせいだと考えるだろう。
「アダルジーザ……私と踊ってくれるか」
その控えめな声音に、私は顔を上げた。
「もし――わたくしが嫌だと申し上げたら?」
「……困るな」
僅かに目を細めてそう言った彼に、私は思わず小さく笑った。
彼も笑い返すと、私に手を差し出した。
「一曲、踊ってほしい」
「まあ……一曲だけで宜しいのですか」
手を取ってそう返すと、彼は楽しげに笑んだ。
「ずっと踊っていたいが……そうもいかない」
微笑んだ彼が私の腰を引き寄せると同時に、円舞曲の演奏が始まった。
この夜会で私の身に何が起きるのか、この時はまだ想像もしていなかった──




