第三十四話 夜会前夜 ―紫玉のアミュレット―
湯浴みを終えた私は、寝台に横たわっていた。
泣き腫らしていた瞼は、アニタに冷やしてもらって落ち着いた。
燭台に炎はなく、静かな月明かりだけが部屋を照らしている。
澄んだ優しい光に、ナタニエル様の白金の髪が思い出された。
――『どうか私に、貴女を守らせてください』
彼の言葉が耳に離れない。
けれど、その返事はまだ出来ないでいた。
(ナタニエル様……)
私はペルラにいた頃からずっと、心優しく清廉な彼に憧れを抱いていた。彼だけは、他の男達と違うのだと神聖視していたのかもしれない。
ただ、この城に来て彼と再会してからは、初めて見る表情や声音に少し戸惑う自分がいた。
以前は、彼に近づくことさえどこか躊躇われたのに、今は何故か──
その時。コツン、と小さな音が響いた。
(何かしら……)
視線を向けると、窓越しに可愛らしい白い鳩が私を見つめていた。その嘴に、何か白いものを咥えている。
「珍しいわね……」
思わず微笑んだ私は静かに起き上がると、窓をそっと開ける。
バルコニーに出ると、ふわりと飛んだ鳩が私の手首に止まった。
黒く丸い瞳と目が合う。鳩は、鳴きもせず私を見つめた。
(どこかで、飼われているのかしら……)
「あなたは、どこから来たの?」
そっと羽を撫でると、鳩は気持ちよさそうに目を細めた。まるで私に差し出すかのように、咥えていた白いものが手のひらに置かれる。
(これは……?)
それはとても小さな白い布の袋だった。開けてみると、中には小さく丸められた紙が入っていた。
(紙……?)
その紙を中から取り出す。どうやら手紙のようだ。開くと、中には白金の鎖と小さな紫色の宝石が煌めいていた。
『どうかこれが、貴女の身を護ってくれますように ナタニエル』
私は思わず、バルコニーの下に視線を向けた。
そこには、木の影に紛れるように黒い外套を纏う人影が立っていた。
(まさか……)
「ナタニエル、様……?」
囁くように問うと、その人影が被っていた黒いフードを下ろし一歩進み出た。
月明かりに、露わになった白金の髪が煌めく。
「アダルジーザ姫……」
静かに落とされた、甘さを帯びた穏やかな声。赤紫の瞳がこちらを見上げている。
私の手からふわりと飛び立った白い鳩は、彼の手へと舞い降りた。
「このような時間に、申し訳ありません」
私は、首を振った。
「ナタニエル様……これは……」
私は、白い袋から白金の鎖を取り出す。ブレスレットにしては鎖が長い。アンクレットのようだ。
「アミュレットです……ささやかですが、神聖力と魔力を込めてあります」
それには、小さな雫型のパープルサファイアが煌めいていた。
(私のために……)
「ありがとうございます……ナタニエル様」
そう言って微笑むと、彼が嬉しそうに笑んだ。
初めて見るその笑顔に、胸が強く高鳴る。
「……明日、どうかお気を付けください」
囁くように、彼はそう言った。
月が雲に翳り、あたりが薄暗くなる。
(明日……きっと、夜会のことよね)
私は、彼の瞳を見つめながら頷いた。
明日の夜会には、エメルリンダやドロテーアも参加する。小説の内容を覚えていない私には、何が起きるのか想像も出来なかった。
「風が冷えてきました。……そろそろ中にお戻りを」
何故か名残惜しく感じて、彼を見つめる。
「アダルジーザ姫……」
彼は何かを言いかけて、静かに言葉を飲み込んだ。
バルコニーの下で、彼がふわりと微笑む。微かな月明かりに照らされた微笑みは、ひどく儚く見えた。
「……おやすみなさい、良い夢を」
「おやすみなさい……ナタニエル様」
私は、彼に微笑み返すと部屋へと戻った。
窓を閉めると、そこには静寂が待っていた。まるで、先程の出来事がすべて夢のように思えた。
手を開くと、手のひらの上で白金のアンクレットが煌めいた。
(この宝石、ナタニエル様の……)
赤みを帯びた紫色の宝石は、彼の瞳の色によく似ていた。
私は思わず振り返った。
もう、彼はきっと帰ってしまっただろう。
窓の外には、ただ静かに上弦の月が浮かんでいた――




