第三十三話 夜会前夜 ―柘榴石のネックレス―
夜会の前日。
空が薄紅色に染まる頃――
私は、部屋の姿見の前に立っていた。
纏っているのは、夜会のために仕立てられた純白の絹のドレスに、テオバルドから贈られた柘榴石のティアラとネックレス。
赤いドレスでないことに安堵したが、白を纏うことで逆にティアラとネックレスの赤が目立っているように見える。
「アダルジーザ、良いか」
ノックと共に響いた声に返事をすると、皇帝陛下が入ってきた。
振り返ると、彼が小さく息を呑んだ。揺れる赤い瞳が私を食い入るように見つめている。
「美しいな……よく、似合っている」
その眼差しに、私まで熱に浮かされたような心地になる。
思わず視線を逸らすと、彼は私の手を取って口付けた。間近で熱い眼差しに見つめられて、心臓が大きく鳴った。
「柘榴石が際立つな」と呟いた彼に思わず視線を伏せる。
何故か、彼の瞳が見られなかった。
「……誰にも見せたくない」
掠れた囁きが落ちて、ぐいと腰を引き寄せられる。淡く香る彼の香りに、胸が高鳴り始める。
「皇帝陛下……」
「まだ、踊ったことがなかっただろう」
彼が微笑んだ。
手を取られ、そのリードで流れるようにステップを踏み始める。男性相手にワルツを踊るのは、父以外で初めてのことだった。
「中々の腕前だ」
「恐れ入りますわ。ダンスは不慣れですの」
「そうは見えないが……世辞ではないぞ」
そう言って楽しげに笑った彼に、私は視線を伏せた。
――『アダルジーザは、ワルツが上手だな』
そう言って笑った父を思い出したのだ。
込み上げてきたものが溢れそうになり、私は思わず俯く。
もう、全ては失われてしまった。
優しかった父も、私を慕ってくれた可愛い弟も、美しかった国も、全ては幻であったかのように消えてしまった。
(私が――お父様に逆らって、プラータの王太子妃になっていれば、まだペルラはあったのかしら)
そうすれば、父も弟も民の命も、失われることはなかったのかもしれない――
心の奥底で凍らせていたはずの感情が、せきを切ったかのように溢れ出す。
「アダルジーザ……泣いているのか?」
ステップが止められた。
心配そうに覗き込んでくる彼から顔を逸らした。
「平気ですわ……少し、昔のことを思い出して……」
そう言って背を向けようとすると、彼の腕に抱き締められた。その腕は、まるで壊れ物に触れるようにひどく優しかった。
「どこが平気なんだ……こんなに震えているのに」
その優しい声音に、涙が止まらなくなる。
こんな風に泣いたのは、いつ以来だろうか――
「アダルジーザ……」
彼の長い指が、溢れた涙を掬った。
「……好きなだけ泣くと良い」
(どうして、貴方まで辛そうな顔を……)
そっと頬に触れた手の温もりに、彼の胸に縋り付いた。黒い礼装に顔を押し付けると、背中を彼の手が撫でる。
私は彼の胸で子どものように泣いた。
そうして、どれくらい経ったのだろうか――
「アダルジーザ……落ち着いたか?」
彼の低く穏やかな声が落ち、そっと顔を上げる。そこには、まだ僅かに不安気な彼の顔があった。
「……陛下のお召し物を、濡らしてしまいましたわ……」
「そんなこと、気にする必要はない」と彼は微かに笑んだ。
見たことのない、憂いを帯びた優しい眼差しだった。
「イーザ……」
掠れた声が、私の愛称を紡いだ。
けれど、何かを言い淀んだかのように、彼は視線を落とす。
「アニタを呼ぼう。……体を温めて、ゆっくり休め」
彼はそう言うと、私の額にそっと口づけた。
「皇帝陛下……」
離された温もりに、何故か寂しさを感じる。
赤い瞳を見上げると、彼は少しだけ困ったように微笑み、私の頭を撫でた。
窓の外には、いつの間にか上弦の月が昇っていた――




