第三十話 揺れる心
私は大聖堂を訪れていた。
クレメンテ卿は、いつものように大扉の脇に静かに控えている。
(私は、どうすれば……)
大聖堂の奥。女神エルシリアは、いつものようにそこに佇んでいる。
私は、その足元に静かに跪くと、祈りを捧げた。
(私は……)
祈りの言葉が浮かばなかった。
頭の中で、色々なものが渦巻いている。
私は、毒杯を回避できるのだろうか。
もしかしたら、私が望まなければ婚礼の儀は行われないかもしれない。
けれど、もし毒杯を無事に回避できても、他の方法で命を狙われるかもしれない。
王女エメルリンダとドロテーア、大臣ザルマン。侍女たちにも、私をよく思っていないものは少なくないだろう。
そもそも、私が命を狙われる理由は何なのだろうか。皇帝陛下との婚姻を阻止する目的か、あくまで私個人を狙ったものなのか――
(わからない……)
まるで、森の中で行き先を見失ってしまったような感覚だった。
(──皇帝陛下……)
ふいに、彼の顔が浮かんだ。
プラータから奪われたときは、彼がただ恐ろしかった。
けれど、この城で過ごすうちに彼への印象は変わった。幼い頃の記憶も取り戻し、彼なりの優しさを感じられるようになった。
彼が私を手に掛けようとするとは、もう少しも思えなかった。
(もし、私が毒杯で死んだら……彼は──)
「アダルジーザ姫」
静かに響いた声に、私は瞼を開いた。
「ナタニエル様……」
気が付けば、傍らにナタニエル様が立っていた。
「随分熱心に祈られていましたね。……何か、心配事ですか」
その穏やかな声音がひどく優しく響いた。淡い微笑みを浮かべる彼に、私は立ち上がる。
「ええ……少しだけ」
「私に、出来ることはありませんか」
赤紫色の真っ直ぐな瞳。僅かに力の込められた眼差しに、私はただ微笑んだ。
彼に言えるはずもない。
私には、毒杯で命を落とす運命が待っていて、それを避けるために悩んでいるなどとは──
いや、彼なら受け止めてくれるだろうか――そんな、淡い期待が胸に灯った。
「……アダルジーザ姫?」
それでも――
「ナタニエル様……その、お気持ちだけで十分ですわ」
彼に、明かすことは出来なかった。
(なんて顔をなさるの……)
その切なそうな表情に、胸が締め付けられた。
いつも穏やかに微笑んでいるその瞳は、揺らいでいた。
その時、静かな靴音が響いた。
「アダルジーザ様、おいでだったのですね。夜会のご準備でお忙しいのでは……」
聖堂の奥から現れたのは、神官バルバラだった。いつもの淡い微笑を浮かべている。
「……ええ、そうですわね」
「そろそろ、失礼致しますわ」と一礼して、帰ろうとした時だった。
(ナタニエル様……?)
彼が私の手を掴んだ。
その温もりと眼差しに、鼓動が騒ぎ始める。
(どうして? 私……)
一瞬だけ、彼の胸に飛び込みたいと思ってしまった。今の私は、どうかしているようだ。
「あの……ナタニエル様?」
「これは――お許しください」
彼は自分でも驚いたかのように息を呑むと、手を離した。その瞳が、僅かに伏せられる。
「アダルジーザ姫……また、来てくださいますか」
彼のその声音は、祈るように響いた。
「ええ……また」
そう返すと、私は一礼して扉へと歩き出す。
触れられた手が熱く感じた。
(驚いたわ……ナタニエル様が、あんな……)
胸の高鳴りが止まず、ほのかに熱い手を握り締める。
あれ以上、彼の顔を見ていられなかった。
バルバラは、どんな顔をしていただろうか。
「アダルジーザ様、もう宜しいのですか」
「ええ……もう、部屋に戻りますわ」
私は、クレメンテ卿に開かれた扉をくぐった。
白い回廊の外では、風に白い花々が揺れていた。まるで、私の心のようだった。




