第二十八話 消えた神官
その日の夕暮れ時、カリーヌは西の庭園を訪れていた。
灰色の外套を纏った彼女は、紅く照らされる石畳を彷徨うように歩いている。その手には、大切そうに白い手紙が握られていた。
あたりを見回した彼女は、噴水の先にある木立を見つけると、その奥へと進んだ。
「カンデラリア大司教様……?」
木立の間に立つ、黒い外套を纏った人影に彼女は声を掛けた。
ひんやりと冷たい風が吹き抜け、黒と灰の外套を揺らした。
その晩、彼女は大聖堂に戻らなかった。
◇
皇帝陛下に、后として望まれた日の翌日。
私は大聖堂を訪れていた。
昼下がりの穏やかな陽射しが、女神像を柔らかく照らしている。
(あの、女性の神官がいないわ……)
先日大聖堂を訪れた時に、私をひどく敵視していた神官カリーヌ。その姿が見えなかった。
安堵する反面、今日は彼女はどうしたのだろうかという疑問が湧き上がる。
(多分、彼女はナタニエル様のことを……)
カリーヌは、おそらくナタニエル様に特別な感情を抱いているのだろう。あのやり取りの後では、ここでは働きづらくなったに違いない。
彼女の言葉で私も傷付いたが、彼女もひどく傷付いたはず――そう思うと、やりきれない気持ちになった。
「アダルジーザ姫、おいでになったのですね」
聖堂の奥から静かに現れたナタニエル様に、私は微笑みかけた。
「ナタニエル様、先日はありがとうございました」
「いえ……礼には及びませんよ」
彼はそう言って、淡く微笑んだ。
どこか憂いを帯びた表情が、ひどく美しく感じられる。
「アダルジーザ姫……先日、私がお話した件について考えていただけましたか」
(ナタニエル様……)
彼の真摯な眼差しに、胸が締め付けられる。
私を守ると言ってくれた彼と共にスフェールに行きたい気持ちもある。
けれど、私はまだ迷っていた。
「……もう少し、お時間をいただけますか」
私がそう返すと、彼は静かに頷いた。
このままこの城にいると、私は命を落とすかもしれない。正直、すぐにでも彼に縋ってしまいたかった。けれど、何故か躊躇われるのだ。
(私の命を狙うのは、誰なのか……)
毒杯を回避するだけでなく、私の命を狙う人物を知りたいのかもしれない。何故、私を殺そうとするのかを――
私は、女神エルシリアの像を見上げた。
女神はいつもと変わらず、清らかで慈愛に満ちた表情を浮かべている。
――『大司教様は、女神エルシリア様の血を引く尊い御方……』
神官カリーヌの言葉を思い出す。
「ナタニエル様……先日の、女性の神官の方はどうなさったのですか?」
「お姿が見えないので……」と付け加えると、彼の瞳が伏せられる。
雲が掛かったのか陽射しが霞み、白い女神像が翳った。
「ナタニエル様……?」
「彼女は……女神エルシリア様の身許に召されました」
静かに落とされたその言葉に、私は思わず息を止めた。彼女とは、つい先日ここで会ったばかりだというのに、どういうことなのだろうか――
「そんな……どうして、あのようなお若い方が……」
その問いに、彼からの返事はなかった。
(神官カリーヌ……)
私は静かに跪くと、女神エルシリアに彼女の冥福を祈った。
私を見下ろす白い女神は、ただ優美に微笑んでいた――
◇
皇后宮に戻る途中、侍女たちの噂話が聞こえてきた。
「お聞きになりまして? 西の庭園の話」
「庭園の外れで、若い神官が亡くなっていたんでしょう? 恐ろしいですわ」
(神官……?)
その言葉に、私は足を止めた。
「それって……殺されたってことですの?」
「神官を手に掛けるなんて、神罰が下るはず……何と恐ろしいことを」
そのとき、大きな風が吹いて、白い花々が一斉に揺れた。
「……なんでも、首の後ろに黒い刻印が刻まれていたそうですわよ――」
一人の侍女が囁いた言葉に、小さな悲鳴が上がった。
「嫌ですわ! こういう話は苦手ですの。もうやめましょう!」
その声に、「本当に、恐ろしいですわね」と侍女たちが囁き合う。
彼女たちは話しながら、回廊の奥へと消えていった。
(……神官カリーヌは、殺されたの……?)
背筋がぞくりとした。
それが事実なら、一体誰が彼女を殺したのだろうか。
それに、何故神官が、大聖堂と反対の位置にある西の庭園にいたのだろうか。首の後ろの黒い刻印とは、一体――
私が立ち止まると、クレメンテ卿が心配そうな顔をする。
「アダルジーザ様、大丈夫ですか」
「……ええ、大丈夫よ」
私は遠くから西の方角を見つめた。
ここからは見えないが、そこにはまだ行ったことのない庭園が広がっているはずだ。
どこか、風がひどく冷たく感じられた。




