第二十七話 テオバルドの望み
大聖堂を訪れてから、数日が経った――
「また、部屋に籠もっているのか」
私の部屋を訪れた皇帝陛下が、そう低く呟いた。
エミディオとの一件があってから、私は庭園に出るのを控えていた。大聖堂にも、あまり頻繁に行くのは憚られる。
「何かあったのか」
「元気がないようだ」と私の傍らに皇帝陛下が腰を下ろし、ソファが僅かに沈む。
彼の視線を感じながら、私は少しだけ視線を伏せた。
「……何でもありませんわ」
エミディオに触れられそうになったことを、彼には伝えていなかった。
私が彼に伝えることで、彼の剣が振るわれるかもしれない――それが、怖かった。
そのとき、彼の腕が私の体を包んだ。
「皇帝陛下……?」
そのまま彼に抱き寄せられると、膝に座らされる。重なった視線に少しだけ俯くと、抱き締められた。
「落ち着くな……ずっと、こうしていたい」
(落ち着くですって……?)
私はそれどころではないというのに、彼は浅く息を吐くと、私の髪を撫でて唇を寄せた。
腕の中で身動ぎをすると、小さな笑い声が落とされる。
「安心しろ。今日は何もしない」
そう言って弧を描いた赤い瞳に、思わず頬が熱くなる。
窓から差し込む陽射しに、彼の銀色の髪が透けていた。
「アダルジーザ……」
名を呼ばれ彼を見上げると、視線が交わる。
「大切な話がある」
私はただ黙って彼を見上げた。
僅かに流れる沈黙に、小鳥たちの囀りがやけに響く。
「アダルジーザ……私の后になってほしい」
私は小さく息を呑んだ。
(なってほしいって……私の意思を、尊重するってこと……? でも、后だなんて――)
――婚礼の儀。
その言葉を思い出して、心臓が大きく鳴った。
微笑んで金の杯を差し出す彼の姿が脳裏に浮かぶ。
「アダルジーザ、どうした……?」
その時、ノックの音が響いた。
「皇帝陛下、アダルジーザ様、失礼致します。バルデスでございます──ザルマン大臣、お待ちくださいと申し上げているでしょう!」
怒りを滲ませるバルデスの声に重なって、「侍従官は下がっていろ」と年配の男の威圧的な声が響く。
開かれた扉の向こうには、バルデスと見たことのない年配の男が立っていた。
「ザルマン。そこで止まれ」
「斬られたくなければな」と皇帝陛下は低く言い放った。
ザルマンと呼ばれた男は、扉の向こうで黙ってこちらを見つめている。
「いやはや……そちらの姫君がアダルジーザ殿下ですか。お噂に違わず……いや、それ以上のお美しさだ」
まるで値踏みするような厭らしい視線に、私を庇うように皇帝陛下が立ち上がった。
「何のつもりだ。……ここを皇后宮と知った上で、このように振る舞うとは」
「畏れながら皇帝陛下。そちらの姫君は、皇后殿下ではないでしょう」
薄く笑ったザルマンの言葉に、部屋に沈黙が落ちる。
「私の后になる女だ。異論は認めん」
鋭い眼差しを向けた皇帝陛下に、「アダルジーザ殿下との縁談がとうに消えたことは、周知の事実ですよ」とザルマンは薄く笑った。
私は彼の背に庇われながら、微かに震える手を握り締めた。
「皇帝陛下に申し上げます。近日中に、ザッフィロ王国のエメルリンダ王女殿下がお見えになります」
そう言って一礼したザルマンに、彼は微かに肩を揺らした。
(エメルリンダ……?)
ザルマンの傍らに立つバルデスは、口を噤んだまま瞳を伏せている。
「あの姫を娶るつもりはない」
「皇帝陛下、この帝国のことをお考えくださいませ」
ザルマンはそう言って、再び恭しく頭を垂れた。
「何がこの帝国にとって有益か。聡明な皇帝陛下なら、お分かりのはず」
「あんな小国、我が帝国にとって大した益はない」
「それでも……美しいばかりの姫君とは、比べるまでもありません」
私を一瞥して笑みを浮かべたザルマンに、皇帝陛下は拳を震わせた。
「何も、アダルジーザ殿下を諦めるように、と申し上げているわけではございません。……側妃というお立場でも充分かと」
「アダルジーザ殿下はあまりにお美しい。近衛騎士ですら、手を伸ばしたくなるほどだ……もし何かあったときに、皇后殿下では大事になりますからな」と笑ったザルマンに、皇帝陛下は剣の柄を握った。
ザルマンが僅かに息を呑む。
(いけない……!)
私は、柄を握る皇帝陛下の手をそっと両手で包んだ。
振り向いた彼に微笑みかけると、彼は掠れた声で私の名を呼んだ。
「これはこれは……さすがは傾城傾国。見事な手腕ですな」
(嫌な人ね……)
その粘つくような視線に、私は静かに表情を消した。
ザルマンのくすんだ色の唇がゆるりと弧を描く。その笑みが、ひどく不吉なものに思えた。
「……それでは、私はこれにて失礼致します」
ザルマンとバルデスが去った後も、彼の手は微かに震えていた。
◇
「アダルジーザ、すまない……」
皇帝陛下の覇気を失くしたような声音に、私は笑いかけた。
「どうかお気になさらず。……仕方ありませんもの」
あのザルマンの言うことは最もだ。
私は亡国の王女。私と婚姻を結んだところで、この帝国は何の利益も得られない。
(こんなに、落ち込んだりするのね……)
彼はいつも尊大で、余裕のある姿しか見たことがなかった。こうして見ると、年上の彼が少しだけ可愛く見えてくる。
「アダルジーザ……私は、お前を側妃になどするつもりはない」
真っ直ぐな赤い瞳が私を見下ろし、彼の手が私の頬に触れた。
「私が欲しいのは、お前だけだ」
そう囁かれ、彼の腕に包まれる。
私は、大人しく身を委ねた。
「アダルジーザ……」
甘く、切なげな声は掠れていた。
私はただ、その胸にそっと頬を寄せる。
(私は、どうしたら良いのかしら……)
彼との婚礼の儀で、私が受ける杯に毒が仕込まれるのだろうか――
もはや、それ以外には考えられなかった。
私が彼の伴侶になることを望まない人間は、少なくはないだろう。
(皇帝陛下の后にならなければ、私は死なないのかしら……)
彼の胸にもたれながら、私は漠然と思考を巡らせる。けれど、考えはまとまりそうになかった。
窓辺からは、柔らかな薄紅色の陽射しが差し込んでいる。
体を包む温もりと深く芳しい香りに、私は瞼を閉じた。不思議と、この腕の中から抜け出したいとはもう思わなかった。




