第二十六話 特別な存在
神聖な空気に満ちる大聖堂――
「アダルジーザ姫、申し訳ありません」
ナタニエル様は「すぐに戻りますから」と言って、年配の神官と共に聖堂の奥へと入っていった。
(ナタニエル様……)
私を守りたいと言ってくれた彼の言葉が、耳から離れなかった。
私は、スフェールに行くべきなのだろうか。優しく穏やかな彼の傍でなら、安心して過ごせるだろうか――
私は、聖堂に並ぶ長椅子に腰掛けて女神エルシリアの像を眺めた。
クレメンテ卿は、後方にある大聖堂に入る大扉の脇で静かに控えている。
(女神エルシリア……)
淡い光に照らされた女神像は、いつもと変わらぬ微笑を浮かべている。
本当に、私にもこの女神の血が流れているのだろうか。だとすると、この癒しの力は、彼の持つ力と同じ神聖力ということになるのでは──
(お父様は、何故隠すよう仰っていたのかしら……)
そう考えていた時だった。
静かな靴音が近付いてくる――
(ナタニエル様……?)
視線を向けると、そこには神官カリーヌが立っていた。
その大きな瞳は、私を冷たく見下ろしている。私は、膝の上で重ねた手をそっと握った。
「……どういうおつもりなのですか」
響いたその言葉が、胸にじわりと刺さるようだった。
静かに立ち上がると、彼女の眼差しが一層鋭くなる。
「祈りの間は、王族の方しか入れぬ聖域……もう、国を亡くされた貴女は入る資格がないのではありませんか?」
「ペルラは既に、滅びたのですよ?」そう言って歪んだ笑みを浮かべた彼女に、私は手を強く握り締めて俯いた。
確かに、私は国を失った。父も、弟も、すべてを失ってしまった私は、もう王女とは言えないのかもしれない。
でも──
「恥ずかしくないんですか」
「当たり前のように、祈りの間に入るなんて……」と吐き捨てるように呟かれ、私は俯いたまま象牙色のドレスの裾を見つめた。
「……カンデラリア大司教様にも、もう近付かないでいただけますか」
私は思わず顔を上げた。
先程まで薄く笑っていたはずの彼女の瞳は、暗く揺れていた。
「大司教様は、女神エルシリア様の血を引く尊い御方……とても、慈悲深い方なのです」
「――縋り付かれれば……誰にでも手を差し伸べる御方なんです」と言った彼女の声は、ひどく震えていた。
「もう……カンデラリア大司教様には、近付かないでください!」
「神官カリーヌ」
不意に差し込んだ冷たい声に、カリーヌが振り返った。彼女の背後から現れたのは、ナタニエル様だった。
「アダルジーザ姫、お待たせしました」
私に淡く微笑んだ彼は、私の傍らまで歩いてくるとカリーヌへと向き直った。
「アダルジーザ様は……私にとって、特別な存在です」
(特別な、存在……?)
その言葉に、胸が小さく鳴った。
目を見開いたカリーヌが、私たちを見つめている。その瞳はひどく揺らいでいた。
私に背を向けているナタニエル様の表情は、うかがい知れない。
「まだ紹介していませんでしたね……私の縁戚のアダルジーザ殿下です」
「カンデラリア大司教様……突然に、何を仰るのですか」
薄笑いを浮かべたカリーヌは、彼を見つめている。
「ご存じなかったでしょうが、彼女も私と同じスフェール王家の血を受け継いでいます」
(ナタニエル様も、ご存知だったのね……)
思わず、私はドレスの裾をそっと握り締めた。
「アダルジーザ殿下の母君は、私の父の従姉妹です。……既に旅立たれましたが、父は妹のように思っていたそうです」
カリーヌの唇が震えている。彼女は何も言い返せないまま、滲んだ瞳でナタニエル様を見つめていた。
「神官は皆、女神エルシリア様だけでなく、スフェール王家にも忠誠を誓っているはず……そうですね」
低く放たれた冷たい声に、カリーヌは僅かに身を竦ませた。
「理解したのなら、勤めに戻ってください」
唇を噛み締めたカリーヌは深く頭を下げると、聖衣を翻して聖堂の奥へと姿を消した。彼女が去っていく微かな靴音が、静かな聖堂に響く。
そのとき、カリーヌが消えた扉の近くに、神官バルバラが佇んでいることに気が付いた。
彼女は、静かにこちらを見つめていた。
(見られていたの……?)
どことなく気まずい気持ちになった私は、淡い微笑を浮かべている彼女から視線を逸らした。
「申し訳ありません。私が不甲斐ないばかりに……」
振り返ってそう言ったナタニエル様に、私は首を振った。
その甘さを含んだ穏やかな声は、いつもの彼のものだった。
(遠い親戚……になるのかしら……)
私は、熱くざわめいていた胸の内を冷ますように、そっとため息を吐いた。
彼も、私のことを妹のように思っているのだろうか――そう思うと、何故か胸が締め付けられた。
「貴女を守りたいと言った想いに、偽りはありません……信じていただけますか」
彼の真摯な眼差しに、私は静かに頷いた。
(特別――ナタニエル様は、私のことをどう思っているの……?)
聞けるはずもないその問いが、胸の内に渦巻いていた。
傍らでは、白い女神が私たちを見下ろしている。
ステンドグラス越しに、澄んだ光が私たちを照らしていた。




