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第二十五話 ナタニエルの願い

 光に照らされた祈りの間で、私は立ち尽くしていた。


「アダルジーザ姫?」


 ──『聖杯に触れることができるのは、大司教である私だけですから』


 ナタニエル様のその言葉が、耳の奥に焼き付いてしまったかのように響いている。


(そんな……ナタニエル様が私を……?)


 そんなはずはないのに、微かに指が震える。


「大丈夫ですか」


 私は、ナタニエル様を見上げた。

 彼はほんの僅かに眉を顰め、心配そうに私を見つめている。

 天の使いのように見えていたはずの彼の顔が、何故か美しい悪魔のように見えてくる──


「急にどうされたのですか……聖杯のことをお尋ねになるなんて」


 私は、少しだけ後ろに下がった。


「いえ……ただ、気になって……」


「そうですか」


 彼が淡く微笑む。


「聖杯は、厳重に保管しています。保管庫の鍵は、大司教である私しか開けることはできません」


 「儀式の時には、お見せすることが出来るのですが……」と僅かに視線を落とした彼に、私は顔を上げる。


「儀式の時というと……いつ見られるのでしょうか」


 私の問いに、ナタニエル様は逡巡した。


「戴冠の儀と……他には、婚礼の儀ですね」


 私は、小さく息を呑んだ。


(婚礼? まさか、私は皇帝陛下と……)


 胸が静かに早鐘を打ち始める。


「その儀式の時には――誰が触れることが出来るのですか?」


「大司教と、皇帝と……婚礼の儀であれば、花嫁が聖杯を受けます」


 その言葉に、心臓が大きく鳴った。

 私は、皇帝陛下との婚礼の儀で毒杯を飲まされるのだろうか。そしてそこで、皇帝陛下に毒杯を差し出すのが、彼だというのか──


「……他の方は、触れられないのですか」


「原則として、触れることは禁じていますが……」


 甘さを帯びた低い声が落ちる。

 私は、重ねていた手を握り締めた。


「果実酒を、注ぐのは……?」


 私の問いに、彼は一瞬止まった。その瞳が、いぶかしげに私を見る。


「随分と、聖杯に関心があられるのですね……果実酒は神官たちが注ぎますが」


 その言葉に、私は安堵の息を吐いた。


(やっぱり……ナタニエル様が、そんなことをなさるはずないもの……)


「アダルジーザ姫……」


 ナタニエル様の指が、そっと私の頬に触れた。


(えっ……?)


 見上げた彼から、ふわりと香の香りが漂う。微かに甘い、樹木の芳しい香りだ。


「失礼を……思わず、触れてしまいました」


 頬を僅かに染めた彼は、白いハンカチを取り出すと私の頬をそっと押さえた。交わった視線に、彼の瞳が少しだけ伏せられる。


(どうして、涙が……)


 涙が零れていたことに、私は気付いていなかった。私を手に掛けるのは彼ではないのだと、安心したからだろうか――


「ナタニエル様……ありがとう、ございます……」


 そう言って瞬きをすると、また涙が零れた。

 彼が、困ったように微かに笑む。


「まるで、幼い頃のようですね……」


 甘く、穏やかな声音。

 その微笑みに、何故だか胸が締め付けられた。


(覚えていて、くださっているんだわ……)


 まだ幼かったあの日、小鳥を助けてくれた優しい微笑みと白い光の温もりを思い出す。


 ハンカチを押さえてくれている彼の手に、思わずそっと触れる。彼の手が、微かに震えた。

 私は、その温もりに静かに瞼を閉じた。


 ひと時の、沈黙が流れる。


「アダルジーザ姫……スフェールにおいでになりませんか」


 静かに紡がれたその言葉に、私は瞼を開いた。


「ここは、貴女にとってあまりに危険です……この大聖堂でさえ、貴女を一人には出来ません」


 ナタニエル様の言葉に、案内をしてくれた神官の姿が浮かぶ。

 この特別な場所には、クレメンテ卿を伴うことは出来なかった。


「……私は、貴女が心配なのです。スフェールに来ていただければ、貴女を守ることができます」


「ナタニエル様……」


「アダルジーザ姫……どうか私に、貴女を守らせてください」


 私を真っ直ぐに見つめる彼の瞳の奥は、微かに揺れていた。

 そして、開かれたままの扉の向こうから私たちを見つめる影があったことを、私たちは知らなかった――

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