第二十二話 遠い記憶 ―すべての始まり―
――イーザ……。
その懐かしい呼び声が、胸の奥に響いた。
忘れていたはずの遠い日の温もりが、ゆっくりと蘇る――
十二年前、アダルジーザが六つの頃――
その日、ペルラ王国の王城には三つの王家が集っていた。
青々とした木立の間を、草を踏む小さな足音が響く。
「イーザ、どうしたんですか」
「かわいそうなの……」
涙をぽろぽろと零しながら歩いてきたアダルジーザの元に、ナタニエルとテオバルドが駆け寄る。
彼女の小さな両手で守るように包まれていたのは、翼の折れた小鳥だった。
「可哀想だが、これはもう無理だ。……俺が、楽にしてやる」
そう言って、銀の短剣を抜いたテオバルドに、アダルジーザは泣きながら首を振った。
「大丈夫ですよ。僕が助けます」
その優しい声に、アダルジーザは顔を上げた。
止まった少女の涙にナタニエルは微笑むと、両の手のひらを小鳥に翳す。
「っ……」
ナタニエルの手のひらから淡い光が溢れ出し、小鳥は驚いたように翼をばたつかせた。だが、その温もりに身を預けるようにすぐに大人しくなる。
「おい、あまり無理するなよ」
ナタニエルの額には、僅かに汗が滲んでいた。
「平気です……ほら」
小鳥が白い翼を広げた。
笑顔を見せたアダルジーザを、二人は微笑んで見つめた。
「ことりさん、げんきでね!」
翼を広げた小鳥は、アダルジーザの手のひらから飛び立つと木々の間へと消えていった。
小鳥が見えなくなっても、アダルジーザは小さな手を振り続けていた。
「うっ……」
「ナタニエル! 大丈夫か」
ふらついたナタニエルを、テオバルドが支える。それを、アダルジーザが心配そうに見上げた。
「少し、目眩がしただけです。……休めば治りますから……」
そう言うと、ナタニエルは青褪めた顔で近くの木陰にゆっくりと腰を下ろした。
「わたしも」
そう言って、アダルジーザがナタニエルに寄り添うように、隣にちょこんと座る。
それを見て、少しだけ頭を掻いたテオバルドが、アダルジーザを挟むように隣に腰を下ろした。
「なんのおはなし、してるのかなぁ」
アダルジーザの大きな瞳が、遠くで談笑している父王たちを見つめている。
二人も、その視線を追った。
「さぁな。どうせ、楽しくない話だろう」
そう答えたテオバルドに、ナタニエルはため息混じりに笑った。
「他に言い方はないんですか」
「ないな」
小さく笑う二人に、アダルジーザも笑い出す。澄んだ薄紫の瞳で、二人を見上げていた。
「こいつ、意味わかってるのか?」
「さぁ……どうでしょうか」
三人は顔を見合わせて笑い合った。
ふと、テオバルドがアダルジーザを見つめて微笑みかける。
「イーザ……お前のことは、俺が守ってやる。お前を俺の后にしてやっても良い」
「きさき?」
小首を傾げたアダルジーザに、テオバルドは頷いて笑いかけた。
「テオバルド。イーザはまだ小さいのに、勝手なことを言わないでください」
「イーザのことは、僕が守りますからね」とナタニエルが微笑むと、アダルジーザはナタニエルを見上げた。
「きさきにしてくれるの?」
「えっ?!」
目を丸くして戸惑いの表情を見せるナタニエルに、テオバルドが小さく吹き出した。
「あなたが、望むなら……」と小さく紡がれた声に、アダルジーザは無邪気に笑う。
「それじゃあ、イーザはふたりのきさきになるのね」
そう言って花のように微笑んだアダルジーザに、テオバルドは笑い、ナタニエルは困ったように微笑んだ。
木々の間を渡る風が、三人の髪を揺らす。
「イーザ……一人しか、選べないんですよ」
「お前は、どちらが良い?」
遠くからは、父王たちの微かな笑い声が聞こえる。
そっと、三人を包むように葉擦れの音が優しく響いた。
「「……イーザ?」」
返ってこない返事に、二人はアダルジーザを覗き込む。
「眠ってしまったようですね」
気が付けば、アダルジーザは小さな寝息を立てていた。その無垢な寝顔を見て、二人は顔を見合わせて小さく笑う。
柔らかな風が木々を揺らし、小鳥たちの囀りが響いていた。
◇
我がペルラにグラナードの皇帝とスフェールの国王が来訪し、私たちは城の庭園で談笑していた。
少し離れた木陰では、まだ小さなアダルジーザを、グラナードとスフェールの王子たちが見てくれている。
「アダルジーザ殿下は、見る度にお美しくおなりで……アデライド王妃殿下によく似ておいでだ」
遠い瞳で微笑んだのは、スフェール国王だった。
「目に入れても痛くないとは、このことでしょうな」と笑ったグラナードの皇帝に、私は笑い返す。
ほとんど知られていないことだが、私の第二王妃だったアデライドはスフェール国王の従姉妹だった。アダルジーザも、女神エルシリアの血を引くとされるスフェール王家の血を受け継いでいる。
「……アダルジーザ殿下に、神聖力は見られませんか」
スフェール国王からそう問われた瞬間、私の見る景色は一瞬凍り付いた。
――『陛下、どうかこの子を――イーザを守ってあげてくださいね』
ふいに、そう言って旅立ったアデライドの言葉が思い出される。
「……我が娘はただ可愛いばかりで……何の力も、持ってはおりません」
そう答えて、庭園で遊ぶアダルジーザを見つめる。心から愛した妃アデライドによく似た、まだ幼い愛娘。
だが、アデライドは娘を産んで間もなく旅立った。私は彼女との約束に従い、あの子を守らなければならない。
「アダルジーザ殿下にも、女神エルシリアの血が受け継がれています……もし、神聖力が発現したときは、私に教えていただけますか」
「もし、そのときは……」
私は静かに、それだけを返した。
アデライドの母はスフェール王家の直系だったが、その血を受け継いだはずの彼女は神聖力も魔力も全く持ってはいなかった。そのおかげで彼女を娶ることが出来たわけだが、彼女の体は神聖力を持つ娘を産むことに耐えられなかった。
代々、スフェール王家の妃は王家の血を受け継ぐ神聖力や魔力の強い女性の中から選ばれる。スフェール王家特有の、神聖力の強い子が生まれる可能性が高いためだ。妃は、それに耐えうる器でなくてはならない。
もしアダルジーザに神聖力があると知られれば、次期教皇となるナタニエル王子の妃にと望まれるかもしれない。
あの子も、アデライドと同じ運命を辿るかもしれないのだ――そう思うと、私は恐ろしかった。
(アダルジーザの神聖力が強ければ、あるいは――アデライドのように、命を落とすことはないのかもしれない……)
しかし、私はアダルジーザに神聖力があることを隠すことにした。
「――宜しければ、アダルジーザ殿下にテオバルドの后になってはいただけませんか」
口を開いたのはグラナードの皇帝だった。その申し出に私は顔を上げる。
大国のグラナード帝国であれば、あの子を安心して任せられるかもしれない。
「テオバルド殿下は、おいくつでしたかな?」
「テオバルドは、今年で十二になりました」
グラナードの王妃は五年前に亡くなった。幼くして母親を失ったテオバルド王子なら、娘を大切にし、寄り添ってくれるかもしれない――
遠目に、遊んでいる子どもたちに視線を向ける。
彼はアダルジーザに微笑みかけていた。
王子たちの間で無邪気に笑う娘の姿に、思わず笑みが零れる。
(六歳年上か……アダルジーザも懐いているし、良いかもしれぬな……)
「娘はあのようにまだ幼い。……少しだけ、時間をいただけますかな」
私の返答に、グラナードの皇帝は笑って頷いた。
庭園を渡る風が、ざわりと木立を揺らす。淡い花々の香りがあたりを包むように漂った。
遠くの木陰では、いつの間にか子どもたちが寄り添うように眠っていた。
私は、まだあどけない顔で眠る娘の幸せだけを祈っていた――
――全ては、この日に始まった。
でも、このときは誰も知らなかった。
まだ幼かったアダルジーザに、どんな運命が待ち受けているのかを――




