第二話 死神と銀の短剣
「……私が怖いか」
落ちた低い声に、膝の上で重ねた手が震えた。
私は、グラナード帝国へ帰還する皇帝の馬車に乗せられていた。
恐る恐る視線を上げると、血の色の瞳がじっと私を見つめている。
男の装いは、戦の名残をそのまま残していた。黒い軍装に施された金の装飾は、至る所が赤く染まっている。
(本当に、死神のようだわ……)
プラータに囚われてから、この男の話を耳にしていた。
グラナードの若き皇帝は、同盟国ルハーンに押し寄せる軍勢を少数の兵で蹴散らし、前皇帝の仇であった敵将を血祭りに上げ退却させたのだと。
そして、その苛烈で冷酷な戦いぶりから、ルハーンの地で“死神皇帝”と呼ばれていると――
「答えない、か……」
男が、浅くため息を吐いたのが聞こえた。
私は震えを隠すように、血に汚れた手を膝の上でそっと握る。
恐ろしくてたまらなかったのだ。この男──グラナード帝国の皇帝テオバルドから差し出される毒杯によって、私は命を落とす運命にあるのだから。
記憶は曖昧だが、私には前世がある。
その時に読んでいたロマンス小説のヒロインが、アダルジーザだったはずだ。
だが、困ったことに物語のラストの一部分しか覚えていなかった。
(どうして、私がアダルジーザに──)
「──っ……!」
「何を考えている」
顎を持ち上げられ、銀の前髪から覗くその瞳に捉えられる。剣先のように鋭い眼差しに、心臓が凍り付きそうだ。
「震えているのか」
「あっ……!」
テオバルドの腕でそのまま抱き寄せられると、彼の膝に座らされた。
「……お召し物が、汚れてしまいますわ」
彼の広い胸板をそっと押し退けるように、私は少しだけ体を離す。
「構わん。既に血は浴びている」
彼は、私の手を取って口づけた。私を見つめる切れ長の瞳に、囚われたような心地になる。
僅かに骨張った彼の大きな手は、作り物のように美しかった。この手が、私に毒杯を差し出すのか――
瞬きも忘れていた私に、彼が薄く笑った。
「お前も同じだな……アダルジーザ」
「――んっ……!」
突然に塞がれた唇に、私は身動き一つ取れなかった。
揺れる馬車の中、彼の胸板の硬さがドレス越しに伝わる。黒い軍装を掴もうとする指は震えた。
「っ……皇帝、陛下……」
ふいに離された唇――
小さく笑った彼に、再び口づけられる。
必死に体を離そうとしても、腰に回された彼の腕はびくともしなかった。
重ねられる唇に、息が上手くできない。
視界の端、下の方に銀色が煌めいた。彼の腰のあたりだ。私は手探りで、それへと手を伸ばす。
「っ……どこに触れようとしている……」
彼の瞳が細められ、低く掠れた声が落ちる。
私は構わず銀の柄を握ると、一気に引き抜いた。
「私を殺すというのか」
楽しげに薄く笑った彼が、私を見下ろした。
私は、切っ先を自身の喉元へと向ける。
「これ以上わたくしに触れれば、死んで差し上げますわ」
そう告げると、彼の瞳が大きく揺らいだ。
車輪が砂利を弾く音だけが響いている。
息を呑んだ彼の瞳には、焦燥が滲んでいた。
「それを下ろせ。――お前の嫌がることはしないと約束する」
「それでは……腰の鞘をくださいませ」
私は、彼の瞳を見つめたままそう言った。
彼は少しだけ眉を顰めると、私を測るように見つめ返す。
「駄目だ」
「……わたくしの初めてを奪ったのですから、これくらい安いものでは」
静かにそう告げると、僅かに目を見開いた彼がくつりと笑った。
「お前はそうやって、身を守ってきたのか……」
彼の目が弧を描いた。
心臓は、早鐘を打ち続けている。
「もう、自らこのようなことは致しませんわ……誰も、わたくしの意に反して触れなければ」
私がそう言うと、軽く息を吐いた彼はベルトへと手を伸ばし、短剣の鞘を外した。
「これをお前にやろう。……ただし、護身用としてだ」
彼の瞳の奥で、何かが微かに揺れていた。
私は短剣をそっと握り締める。銀色の鞘には、大きな柘榴石が埋め込まれている。
(綺麗……テオバルドの、瞳の色みたい)
私は、その赤い宝石に目を奪われた。
彼が微かな笑みを零す。
「深窓に育ったにしては気が強いな……さすが、何人もの男を冥府へと誘った女だ」
そう言って笑った彼に胸が締め付けられた。
短剣を握る手に力が籠る。
私は、奪われることも、男達が命を落とすことも少しも望んではいなかった。
ただ、自分は無力だと思い込み、運命に流されていたのだ――
短剣を握ったまま少しだけ俯いた私に、彼は手を伸ばした。思わず身構えるも、私の頬に触れた手はとても温かい。
(私は、戦利品でしょう……?)
まるで壊れ物に触れるかのように彼の腕でそっと抱き寄せられ、胸がざわめいた。彼の胸元からは、微かな血の匂いに混じって甘く深い香りがした。
(皇帝には逆らえない……私は、どうしたら良いの……?)
毒杯で死ぬ運命など、到底受け入れられるわけがない。私は彼の腕に閉じ込められたまま、必死に生き延びるための方法を探し始めた。
でも、小説の内容を思い出そうとしても、彼に毒杯を飲まされること以外は何も思い出せない──
(グラナードの城に着いてからは……どうしよう、わからないわ……)
まるで、幼い頃の記憶のように、この小説の内容はひどくおぼろげだった。
囚われた城で眠れぬ日々を過ごしていた私は、どこか暖かな香りと温もりの中で意識が遠のいていった──
「アダルジーザ……?」
テオバルドは低くその名を呼ぶ。
だが、腕の中の花嫁は小さな寝息を立てていた。
「……あの頃のままだな」
その無垢な寝顔にテオバルドは小さく笑うと、彼女の白い額にそっと口付けた。
馬車の窓から差し込む淡い陽射しが、微かに微笑む彼の横顔を照らしていた――




