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第十九話 甘い香り

 ベルナルディータ卿が辞めてから、十日が経った。


 何故か私が怪我をしたことを知っていた皇帝陛下テオバルドに、彼女を処罰しないように頼んだ。

 あの時、彼女の静止も聞かず飛び出したのは私だ。そのタイミングでナタニエル様が現れたことで、彼女は動けなくなってしまったのだろう。


 そして、皇后宮では侍女の入れ替えがあった。アニタ以外の私の部屋付き四名を含め、大がかりな異動になったようだ。


(皇帝陛下が、気にしてくださったのかしら……)


 私は、以前彼が侍女の入れ替えについて「考えておこう」と口にしていたことを思い出した。思えば、アニタも彼の計らいで来てくれたのかもしれない。


 いつの間にか、彼は私にとって()()()()()()()()から、“皇帝陛下”へと変わっていた。


 以前よりも穏やかになったはずの日常。

 けれど、私はまだ心の整理がつかないまま、日々を過ごしていた。

 私がスフェール王家の血を引いているという皇帝陛下の話を、すぐには受け入れられなかった。


 ◇


 いつもと変わらぬ日――

 午後になって、見たことのない侍女が部屋を訪れていた。


「それで、アニタは大丈夫なの?」


「はい……腹痛を訴えて寝込んでおり、部屋で休んでおります」


「そう……」


 「お見舞いに行こうかしら」と言うと、その侍女は静かに首を振った。


「病が移ってはいけませんから、会うことは禁じられております」


「わかったわ……」


 私は、窓辺から庭園を見つめた。

 その向こうには、大聖堂が白く輝いている。


(アニタが、早く良くなりますように……)


 私は、女神エルシリアを思い浮かべながらそう祈った。


「アダルジーザ様、庭園に行かれませんか」


 背後から掛けられたその言葉に、胸がざわめいた。アニタ以外に、そのような提案をしてくる者はいなかったからだろう。

 彼女の代わりに来たというこの侍女は、表情は乏しいがその瞳に冷たさは感じられなかった。


「いつも、庭園へお出になっていると伺いましたので……」


「そう……それじゃあ、庭園へ行こうかしら」


「畏まりました」


 騎士と侍女を伴い、私は東の庭園のテーブルへと着いた。

 目の前にあるのはいつもの風景だが、ひどく居心地の悪さを感じていた。後方に控えているのが、初めて見る若い騎士だったからだ。


「クレメンテ卿も、具合が良くないのかしら?」


「急用のため、本日は急遽退勤となりました」


 侍女は、淡々とそう答えた。


 私の近衛はクレメンテ卿一人になってしまった。

 もしかしたら、彼も体調を崩したのかもしれない――


 ティーポットから注がれたばかりの紅茶から、ゆらゆらと湯気が上がっている。嗅ぎ慣れない甘ったるい匂いは、テーブルに並べられた異国の焼き菓子だろう。

 私は、そっとため息を吐いた。


(それにしても、二人とも休みだなんて……)


 そう思っていたときだった。


「貴女が、アダルジーザ王女ですね」


 顔を上げると、そこには金の長髪を靡かせる若い男が立っていた。見覚えのある赤い瞳に、白い礼装を纏っている。


(この方、皇帝陛下に少し似ているわ……)


 見つめていると、男は微笑んで優雅に一礼した。


「お初にお目に掛かります、アダルジーザ王女。皇帝陛下の弟の、エミディオと申します」


 「ご一緒しても宜しいでしょうか」と微笑んだ彼は、私の返答も待たずに向かいの席へと腰掛けた。


(どういうつもりなの……)


 私はほんの微かに微笑み返すと、彼の様子を窺った。

 兄の──それもあの皇帝に囲われている私にこうして自ら近づくなんて、とても正気とは思えなかった。


「お噂には聞いていましたが、本当にお美しい……幼い頃、貴女を一度拝見して以来その女神のようなお美しさに恋焦がれていたのです」


 「純白のドレスが穢れなき貴女によくお似合いだ」と微笑まれ、思わず総毛立った。

 この男は、顔立ちは皇帝陛下と似ているが全く違う。赤い瞳の奥に、異様な熱を感じた。


「……異国の菓子は、お気に召しませんか」


 エミディオはそう言って微笑んだ。

 目の前にある見慣れない焼き菓子。鼻につく甘い香りに、とても口にする気にはなれなかった。


「……食欲がありませんの」


 私は、そう返して紅茶を口にした。


(やけに甘いわね……)


 鼻につく甘い匂いの正体はこの紅茶だったのかもしれない。私はひと口だけ飲み込むと、ティーカップをそっと置いた。

 傍らにいた侍女がティーポットをトレイに乗せ、一歩下がる。


「お口に、合いませんでしたか?」


「ええ……甘過ぎるのは苦手ですの」


 そう返すと、彼は薄く笑んだ。私の口元を見つめていた彼の視線が、私の胸元へと落ちる。


「……皇帝陛下には、まだ触れられていないとか」


 低く落とされたその言葉に、背筋が凍り付いた。


 「事実のようですね」と嬉しそうに笑ったエミディオに、私は立ち上がった。


「どうなさったのですか? これからだというのに……」


「気分がよくありませんの……部屋に戻らせていただきますわ」


「それでは、私が送らせていただきます」


 すかさず立ち上がったエミディオに、「遠慮させていただきますわ」と返す。

 だが、いつの間にか侍女も近衛騎士も姿を消していた。既に綺麗に片付けられているテーブルに、冷たい汗が落ちる。


(まずいわ……)


 薄く笑ったエミディオが、私へ一歩近付く――


 私は咄嗟に、皇后宮の部屋の窓を見上げた。


「皇帝陛下?」


「えっ? 兄上?」


 彼も、私の視線を辿って皇后宮を見上げる。


「窓辺から、皇帝陛下が見えたような……こちらにお見えになるかもしれませんわね」


 焦った表情で皇后宮を見つめるエミディオから後退ると、私は彼に背中を向けて全力で駆け出した。


「アダルジーザ王女!!」


 背後の声は、それだけを叫んだ。


 あの男は、兄であるテオバルドが余程恐ろしいのだろう。動揺してくれたおかげで、とりあえずは離れることができた。

 捕まったらおしまいだ。安全な場所まで逃げなくてはならない。

 思うようには動かない足に、すぐに上がる息。離宮で育った軟弱な体をひどく恨めしく思った。


(もっと遠くまで、逃げないと……)


 ドレスの裾を強く握り、よろけながら白い回廊へと駆け込む。

 その時、鼓動が大きく脈打った気がした。


(……体が、おかしいわ……)


 紅茶に、毒か何かを盛られたのかもしれない。もしもっと口にしていたらと、恐ろしい考えが頭をぎる。

 ふらつき始めた足で、連なる白い柱の間を必死に進んだ。

 

(ナタニエル様……)


 辿り着いたのは、大きな白い扉の前――

 私は、震える手で扉を押した。


 青い光に照らされた聖堂には、ナタニエル様が立っていた。振り返った赤紫の瞳が、見開かれる。


「アダルジーザ姫……?」


「ナタニエル様……助けて……」


 崩れ落ちた私を、彼の白い腕が受け止めた。

 ふわりと香ったのは、微かに甘い樹木の香りだった。

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