第十六話 皇后宮の影と光
アニタが私の部屋付きになってから、数日が経った――
(やけに遅いわね……)
休憩のため、席を外させた彼女が中々戻ってこない。
「アニタはどうしたのかしら」
「さぁ……私は存じません」
正午過ぎに交代したばかりの侍女は、相変わらず冷ややかな瞳でそう言った。
「慣れない皇后宮での勤めで、疲れているのではないでしょうか」
「ゆっくり休ませて差し上げた方が宜しいかと」
珍しく饒舌に話す侍女たちに、胸がざわめく。
「少し、外の風に当たってくるわ」
僅かに肩を揺らした侍女たちを横目で見ると、私は部屋を出た。
◇
「貴女、何か勘違いをなさっているんじゃなくて?」
「バルデス様に付き添われて来るなんて、貧乏伯爵家の娘が偉そうに」
皇后宮の外れ。日の当たらないその場所で、アニタは四人の侍女に囲まれ身を竦ませていた。
「貴女、あの女に甲斐甲斐しく付き従っているそうね」
「あんな女の、腰巾着にでもなるおつもりなのかしら?」と幾つもの笑い声が響く。
「アダルジーザ様を、そんな風に仰らないでください!」
そう言い返したアニタに、侍女たちが表情を消す。冷えた空気に、アニタは少しだけ後退った。
「あの女のせいで、二つの国が滅びたんですのよ」
「皇帝陛下だけでなく、近衛騎士にも色目を使っているそうじゃないの」
「あんな、見た目だけの穢らわしい女……」と吐き捨てられた言葉に、アニタは声を上げた。
「あの方は、そんな方ではありません! 国が滅びたのだって、アダルジーザ様が悪いわけでは──」
「貴女、生意気ね」とアニタの声を遮ると、侍女の一人が箒を手にした。
「新参のくせに……わたくしが躾けをして差し上げるわ」
翡翠色の瞳が見開かれる。
アニタの頭上に箒が振り上げられた瞬間、黒い影が彼女を覆った。
◇
バシンと鈍い音と衝撃が響いた。
(痛……っ)
アニタを庇って打たれた箇所が、じくじくと痛む。
「あ――アダルジーザ様?! 私の、せいで……」
「大丈夫よ。貴女のせいではないわ」
アニタはガタガタと震えながら、涙を零した。
目の前の侍女は、真っ青な顔で箒の柄を握り締めている。
(こんなもので、この子を打とうとしていたの?!)
私は、思わず侍女たちを睨み付けた。
「あ……」
真っ青になった侍女が、震えながら後退りする。持っていた箒の柄が倒れて、石畳に乾いた音が響いた。
そのとき――
「何をなさっているんですか」
張り詰めた空気に、甘さを含んだ穏やかな声が落ちた。
振り返った侍女たちは、まるで足を縫いつけられたかのように立ち尽くしている。
彼女たちの間から、白金の光が差し込んだ。
(ナタニエル様……?)
「アダルジーザ姫!!」
赤紫の瞳が見開かれた。ナタニエル様は聖衣を翻して駆け寄ってくると、私の傍らに跪いた。
「こんな……どうなさったのですか……」
その声は震えていた。彼が私の頭に手を翳すと、白く温かな光が視界を覆う。
(この、光は……)
初めて目にした神聖力は、私の使う力と似ていると感じた。
けれど、気のせいだろう。私の力が神聖力であるはずがない。彼の光は、スフェール王家に受け継がれる、女神エルシリアの聖なる力なのだから――
「もう、大丈夫ですよ」
彼が白いハンカチを取り出し、私の頭をそっと押さえた。
「ナタニエル様、感謝致します」
(血が、出てたのね……)
赤く滲んだハンカチを、彼が隠すようにそっと仕舞う。
彼の優しく穏やかな眼差しは、普段と変わりない――そう感じて、私は安堵した。王宮での下世話な噂話は、神聖な大聖堂には流れないのかもしれない。
「そちらの方は、お怪我はありませんか」
「は、はい! 私は大丈夫です!」
淡い微笑みを浮かべた彼を、アニタは瞳を潤ませ見つめていた。
(あの方は……?)
いつの間にか、侍女たちの後方に一人の神官が立っていた。その神官は、こちらに向かって一礼すると姿を消した。
「さぁ、部屋までお送りしましょう」
彼に差し出された手を取って、私は立ち上がった。
(そういえば、ベルナルディータ卿は……)
気付けば、ここに来るまで傍らにいたはずの彼女の姿が見えなかった。
「アダルジーザ姫、どうかなさいましたか」
「いえ……何でもありませんわ」
ナタニエル様の温かな手が、私の背をそっと支えるように添えられる。
侍女たちは逃げもせず、震えながらその場に立ち尽くしていた。
青い顔で視線を伏せている彼女たちを、彼の凍てつくような視線が一瞥する。
(ナタニエル様……)
初めて見るその横顔に、私の胸はざわめいた。
私は勝手に、彼は怒ったりしないのだと決めつけていたのだ――
「アダルジーザ姫、行きましょう」
私を見て微笑んだ彼に、私は微笑み返した。
私のために彼が怒ってくれた――そのことが、嬉しくもあり、何故か胸を締め付けるようにも感じた。
◇
部屋へ戻るなり、アニタが深々と腰を折った。
「アダルジーザ様……先ほどは、私などのために本当に申し訳ございませんでした」
「謝る必要はないわ。貴女に怪我がなくて、本当に良かったと思っているのよ」
そう返すと、アニタの瞳がじわりと滲んだ。
大方、私などに仕えているせいで侍女たちから難癖を付けられたのだろう。そう考えると、私の方が申し訳ない気持ちになった。
「ですが、カンデラリア大司教様は本当に素晴らしい御方でしたね……初めてあんなに近くで拝見しました」
アニタは、「お噂通り、天使様のようでした」と恍惚とした表情で祈るように両手を組んでいる。
「神聖力って、とても綺麗なお力なのですね……王族の方でも、中々治癒はしてもらえないと聞いていたのですが」
そういえば、ペルラにいた頃にお兄様たちが狩りで怪我をした時は治癒を断られたと侍女から聞いていた。何故、私は治癒を施してもらえたのだろうか――
「私、今日という日を一生忘れません……」
ため息を零すアニタに、私は小さく笑った。
エルシリア教は、この大陸にあるほとんどの国が国教としている。
女神エルシリアの血を引くとされるスフェールの王族であるナタニエル様は、多くから崇め奉られているようだ。
(それにしても、ベルナルディータ卿はどこに行ったのかしら……)
扉の外はクレメンテ卿が一人で守ってくれている。
胸の内に巣食う靄に、私は静かにため息を吐いた。けれど、胸のざわめきは止まなかった。




