第十二話 眠り姫
「……怒っているのか」
「怒ってなどおりませんわ」
私はテオバルドに抱かれたまま、城の廊下を進んでいた。静まり返る中に規則的な靴音が響き、彼の纏う黒い礼装とマントが衣擦れの音を立てている。
皇后宮では、私達の姿を見た侍女たちが息を呑んで廊下の両端へと避けた。私に向けられるのは、女達の嫉妬と羨望の眼差しだった。
すれ違う巡回の兵がこちらに視線を向けるも、すぐに顔は伏せられる。
(どんな噂が立てられるか……)
こめかみの奥が、じわりと痛んだ。
「アダルジーザ……バルデスから聞いたが、晩餐に私の好むものを望んだそうだな」
(それが、何……?)
部屋付きの侍女たちに図々しいと思われたくはなかったし、好きなものを答えるのが面倒だっただけだ。
私は俯いたまま、小さく頷いた。
「アダルジーザ」
再び名を呼ばれ、顔を上げる。
「んっ……?!」
突然唇が重ねられた。
避けようにも、腕の中ではどうしようもない。彼の礼装を掴もうとする指に、力を込めた。
「可愛いな……アダルジーザ」
何度も触れる柔らかな熱と甘さを帯びた掠れた声に、心臓が早鐘を打つ。
「私は……口づけも知らぬ女ですから……皇帝陛下には、退屈でしょう」
整わない息でそう言って、少しだけ睨み付ける。
力の入らない手で彼の胸を押し退けると、彼の目が僅かに細められた。
「本当に、そう思っているのか……?」
彼の腕で、そっと絨毯へと降ろされる。
廊下には、彼と私以外の誰の姿も見えない。
ふらつく足で距離を取ろうとした私を逃さぬように、彼は壁際へと迫ってきた。
(逃げられない……)
私は、思わず呼吸を忘れた。
頭の両脇の壁に、静かに彼の両手が着けられた。切れ長の赤い瞳に見下ろされ、身動き一つ取れない。
「……お戯れは、おやめくださいませ」
「戯れなどではない……お前も、わかっているはずだ」
「私が、教えてやる……」と彼の端正な顔が近付いてくる。熱を帯びた眼差しと触れる吐息に、心臓がおかしくなりそうだ。
(この、香りは……)
ふわりと香ったのは、以前にも嗅いだことのある甘さを帯びた深い香りだった。何故か、それが引き金になったかのように鼓動が一気に速まる。
間近に迫る赤い瞳に、私は目眩がした。
「アダルジーザ?!」
体から力が抜ける。
私を受け止めた温もりの中で、意識は闇の中へと沈んだ。
◇
「一体、何をなさったんですか……」
皇帝の寝室に、バルデスのため息と呆れた声が落とされた。
テオバルドの腕には、瞼を閉じたアダルジーザが抱かれている。
「何もしていない。……ただ、少し口づけただけだ」
そう返すと、テオバルドは寝台へと彼女を横たえる。
「成る程、そういうことにしておきましょう」
呆れ果てた様子のバルデスに、テオバルドは僅かに苦い顔で振り返った。
バルデスは、皇帝の寝台で眠るアダルジーザに視線を落とす。
深紅のドレスを纏い横たわるその姿は、まるで呪いをかけられ眠りについた王女のようだった。
テオバルドが選んだドレスには、僅かな乱れもない。おそらく、彼は嘘をついてはいないのだろう。
傾城傾国、魔性の姫。そんな噂を耳にしていたが、実際に接した彼女は礼儀正しく、謙虚な人物だった。類稀な美貌を持ち、皇帝に望まれながらもそれを鼻にかける様子もない。
プラータの国王を始め、王太子たちもこの美しい容姿だけでなく、彼女の在り方に魅せられたのかもしれない──彼はそう思った。
「皇帝陛下……いかがなさるおつもりですか」
「アダルジーザは、このまま私の部屋で休ませる」
「……晩餐の支度は整っておりますが」
バルデスの言葉に、テオバルドが顔を上げる。
「お前が食べると良い」
「は? 無茶を仰らないでください」
「……では、厨房の者たちで分けさせろ」とため息混じりに言ったテオバルドに、バルデスは頭を垂れた。
「皇帝陛下……」
「何だ」
短い沈黙が落ちる。
テオバルドの背後では、アダルジーザが静かに寝息を立てている。
「いえ……では、良い夜をお過ごしください」
『アダルジーザ様を、守って差し上げてください』──その言葉を、バルデスは呑み込んだ。皇后宮の様子は、既に伝えてある。
バルデスが立ち去った皇帝の寝室は静かだった。
「アダルジーザ……」
寝台に横たわるアダルジーザの傍らに、テオバルドはゆっくりと腰を下ろす。長い指が、艶やかな漆黒の髪をそっと撫でた。
「まるで、眠り姫だな……」
テオバルドは小さな寝息を立てる彼女に小さく笑うと、その額にそっと唇を寄せた。
寝台の脇にある燭台では、炎が静かに揺れている。
窓の外に昇る三日月だけが、二人を見ていた――




