第1話 サイコパスお嬢との邂逅
寝返りの打てない不自由感に、月城カイトは目を覚ました。
覚醒するうちに視界に映るものが輪郭を持ち始める。一定の周期で鼓膜を震わせる機械音、カイトをスポットするように照らす無影灯、そしてなによりも。
カイトは腕を動かそうとして、ぎし、と今寝転がっているベッドが揺らいだことに気が付いた。
「……。はぁっ⁉」
素っ頓狂な声を上げてしまう。しかしそれは仕様のないことだった。
自由が利かないと思っていた両腕、両足は革のベルトで固定されている。しかもベルトはベッドから生えているのだ。
つまりカイトは十字架に張り付けられたような格好で拘束されていた。
ぼんやりとしていた頭が一気に回転を始める。
ここはどこだ。なぜ拘束されている。俺の持ち物は。今何時だ。昨晩は確か──。
そう。昨日は珍しく、いつもアフターをねだる姫が「明日は用があるから」と言って閉店後フリーだったのだ。そしてこれまた珍しく、いい調子で酒を飲んでしまった。酔いつぶれて歌舞伎町の大通りで意識を失い……。
ここらで、ああ俺はヘマをしたんだと天を仰いだ。
きっとロクでもない奴らに身ぐるみはがされて、おいお前いい顔してるな、どこのホストだ、たくさん貢がれてんだろ、売り子やんねえか、と脅されるのだ。
ごめんなさい、俺は酒の飲みすぎで人の道を踏み外してしまいました。
カイトは先に起こることを全て予想して、先に誰かもわからない何かに謝っておいた。
そんなとき、凛とした規則正しい靴音が部屋の外から響いてきた。終わりの始まりだ、と屈強な男が現れることを想像してじっと待ってみる。目を瞑っておいた方がいいか、それとも素直に目を覚ましたことを知らせればいいか、そんな無駄なことを考えているうちに鉄の扉の銀のドアノブがぐるりと回った。
「は」
そこから顔を出したシルエットに、カイトは間抜けな声を漏らす。
コンクリートに四方を囲まれた無機質な一室にやってきたのは、華奢な体格の、長い黒髪をたなびかせた少女、だった。黒に白のリボンという清廉なセーラー服に身を纏い、着こなしも校則一つ違わないものに見える。あの制服は、確か聖ヨハンナ女学院のものではないだろうか。本当なら相当なお嬢様だ。
そしてその後ろには色素の薄い長身痩躯の青年が、少女に追従するように数歩下がって立っている。
「あら、お目覚めだったのね」
その声は見た目にふさわしいほど可憐で、磔にされているカイトを見てすぐに飛び上がってしまいそうなものだった。「まあ、なんてこと。今すぐ外してあげます」と、言ってくれそうな。
しかしながら彼女はカイトを一瞥して、そんな優しいことを言ってくれることもなく、ただ平然と一つ笑ってみせた。
「いいお眠りでしたか? 信じられないほどの泥酔っぷりで、ここまで運ぶのは骨が折れたんです。……まあ、運んだのはわたしではないのですけれど」
カイトは呆気に取られて、はあ、と生返事をする。
つまりはどういうことだ。ここに縛り付けたのはこの少女だというのか。見かけによらない彼女の思考回路に、カイトは表情を青ざめさせる
むしろ屈強な男が現れ、先々に起こることが想定できた方がマシだったのではないだろうか。
「ところで月城カイトさん。貴方は昨晩何が起きたかお分かりですか?」
不意に尋ねられ、カイトは思考を止めた。
「いや、ええと……。俺、酔いつぶれたんだよな?」
少女の細く白い指先が、後ろに控えている青年の顎に伸びる。優雅な手つきにカイトは首を起こしながら、まじまじと眺めてしまった。そしてはっと一つのことを思い出す。
「あっ、あんた!」
青年は昨晩カイトが飲んだバーにいた隣の客だった。おごりだと言って一杯ご馳走してくれたのを覚えている。その時点でカイトは判断力を失うほど飲んでいたのは確かだが、あの一杯以降すべての記憶がはじまりのジグソーパズルのようにばらばらだ。
その焦りように青年はつんとそっぽを向き、少女は何が可笑しいのか肩を揺らす。
「貴方は間抜けにもわたしたちの策に嵌ってしまったのです。というわけで」
少女はベッドの上で身動きの取れないカイトの隣に立った。カイトは首を彼女の動向を追うべく首を右に捻る。
そしてポケットから取り出されたのは銀に光る──メス? いや、フォークだ、と認識した瞬間、少女は躊躇いを知らない調子で台にフォークを突き刺した。
「吐いてもらいましょうか。連続吸血殺人事件の全貌を」
フォークの行く先を追っていたカイトの目が、ゆっくり少女の顔へと移動する。
「……何の話だ、それは」
「しらばっくれてはいけません。わたし、あまり気が長くないんです」
少女が脅すようなことを言うと、青年は手に持っていたアタッシュケースをおもむろに開き始めた。取り出されたのは真っ白な拳銃。本物かモデルガンかはさておき、精巧な造形はよくできている。
「これは吸血鬼だけに効く特殊な銃です。……ユウリ」
少女の掛け声一つで、弾倉に弾が込められる。そして手渡されたものを少女はおもちゃを見るように眺めた。
「こうやって」
彼女は緩やかに唇で円弧を描きながら、銃口でこめかみを押さえる。
「よせ!」
カイトは咄嗟に叫んでいた。
引き金が引かれ、鼓膜を破らんとする破裂音がコンクリートに響く。少女は少し耳鳴りがするのか、軽く顔をしかめたあと、平然としてみせた。
「ほら、人間には効きません。でも吸血鬼がこれを喰らうと傷ついてしまう、そんな代物なんです。貴方が吸血鬼でない、と主張するなら──」
少女の持つ銃の先がカイトの心臓の位置にあてがわれた。軽く身震いをする。
人の道を踏み外すどころか、俺は生きていられなくなるらしい。
「信じられませんか? ユウリを撃ってみせましょうか」
銃口が扉の方へと向く。その精度とは恐ろしいもので、カイトが見ても今引き金を引けば青年の身体に当たることは見えていた。彼のその色素の薄さや容姿の端麗さは、同族が一番理解している。
何よりも恐ろしいのは青年が一切抵抗をせず、運命を受け入れたような表情をしていることだ。
「わかった、わかった……! 俺は吸血鬼だ、間違いない!」
カイトは縋るように言った。同族が一人目の前で死ぬのを、黙って見ていられない。
「でもお前たちは一つ勘違いをしてる。俺は人を殺したことなんてない、一度も!」
吸血事件、といってなぜカイトが疑われるのだろう。ユウリと呼ばれた青年やカイトのように、人間に擬態して生きる吸血鬼は少なくない。街中でもたまに見かけるほどだ。
「神に誓う! 俺は人殺しじゃない」
息を切らして主張した。
これで「知ったことか」と言われたら終わりだが、それほど彼女は衝動的でもなさそうだとカイトは見抜いていた。だてにナンバーワンをやっていない。
「『神に誓う』? 面白いことを言いますね」
少女は声を上げて笑う。
「わたしの手を煩わせないください?」
しかしながらカイトの見立ては間違っていたらしい。
少女は表情から笑みを消し、銃口をカイトの額に向けた。引き金に指がかかる。
「残念です」
そのとき、救いの鐘とはこんな音なのだ、とカイトは知ることになった。
携帯の着信音が扉の方から聞こえる。青年はポケットからスマホを取り出すと、少女に画面がよく見えるようにした。
「お父様からですが」
「出てちょうだい」
ため息とともに告げられた指示に、青年は通話ボタンを押すとスマホの画面を耳に当てた。電話の向こうの人間の声が大きいのか、スピーカーにしているのかは不明だが会話の内容がよく聞こえる。
──四件目の殺人事件が起きた。死亡推定時刻は今日の午前三時ごろだ。今拘束している奴は、お前自身がアリバイの証人になってしまったな
少女は銃を持つ手を小さく震わせた。
「なんですって?」
通話の切られたビープ音が室内に響く。やがてそれは鳴りやみ、そのときにはカイトの頭から銃が離れていた。
何とか一命をとりとめたらしい。
少女は眉間に皺をよせ、ぎり、奥歯を歯軋りしたがすぐに取り繕うように顔面に笑みを貼り付けた。カイトはぐっと息を飲んで、続きの言葉が酷くないことを願う。
「月城カイトさん、貴方はわたしの父によって命を落とさずに済んだようです。そういうわけで、貴方には選択権を与えましょう」
選択、という言葉にカイトは強く頷いた。
「一つ、貴方はここで吸血鬼の実験体として体を弄られて過ごす」
少女の指が一本、天井に向かって突き立てられる。
「二つ、矜持を抱えてここで死ぬ」
もう一本。それは女子高生がカメラの前でするようなものとは全く違う、覇気を孕んでいた。
「三つ、わたしの従順な犬になる」
カイトは異質な三択目に動揺した。今なんて言った。
そして視線は少女から、青年へと向く。彼ももしや俺と同じ境遇で──。
「どうです? おすすめは一番です。わたしは楽しいし、吸血鬼の解明にも役立てます」
カイトは「楽しい」の単語に確信した。この少女、綺麗な見た目をしてネジが飛んでいるところがある。
「さ、三番はどういう意味だ?」
「三番ですか? 貴方って見かけによらずMなんですね」
彼女の口から飛び出た俗っぽい言葉を聞き疑う。
「端的に言えば私の小間使いです。わたしが『ヴィタメールのケーキが食べたい』と言えば、すぐさま買いに走らなくてはいけませんし、『グッチのバッグを見にいきたい』と言えば車を走らせ、荷物を率先して持ってもらいます。あとは……わたしが『殺せ』と言ったらその人は殺してもらいます」
カイトは頬を引きつらせた。こういうのを世間はサイコパス、と呼ぶ。
「やってくださいますか?」
うっすらとした笑みにカイトは「はい」か「イエス」だけを求められている。一番はおそらく苦痛を伴うだろうし、二番などもっての外。ならここは。
「三番だ。死ぬくらいなら、あんたの下僕になってやるよ」
少女は満足げに笑みを浮かべたかと思うと、左手に持っていたフォークをカイトの右手に突き刺した。
「──ぐっ⁉」
銀食器に赤い血がぬらぬらとこびりついている。カイトは身構える暇もなく襲い来た痛みに、肩で息をした。やっぱりコイツ、ただの可愛い少女じゃない。きれいな皮を被ったバケモノだ。
「わたしは『あんた』なんて名前ではありません。村前れんげ、『れんげお嬢様』と呼びなさい、カイト」
顎をするりと撫でられ、喉が引くつく。
死んだ方がマシだったか?
「ユウリ、彼の拘束を外してあげて」
少女──れんげはカイトに背を向けながら言うと、スカートを翻して去って行った。カイトはユウリから憐れみの目を向けられて、彼がカイトと同じ境遇の可哀想な吸血鬼ではないことを知った。