8 魔王
魔王って、あの魔王ですか。
武田信玄が比叡山焼討ちを非難する手紙を織田信長に送った際、天台座主沙門信玄と署名した。当時の天台座主は覚恕法親王なので、いかなる意味で僭称したのかは分からない。ただ、焼討ちにより覚恕は甲斐国に走って信玄の庇護下にあった。なので、天台宗は自分が保護しており、その総本山である比叡山延暦寺を焼討ちするとは何事だと糾弾する目的で使ったのであろう。
これに対する信長の返書に書かれていた署名が、第六天魔王だった。他化自在天とも言われる第六天は、男女は相まみえるだけで性欲を満足させ、子を望めば膝の上に顕現するという。
その第六天の魔王とは、欲天の王者であり、無欲となって菩薩となり、輪廻転生を抜け出そうという仏教の考えから言えば、正反対の存在、すなわち、仏敵である。つまり、天台座主の僭称に対して、自分は仏敵ですと答えているわけである。そして、これは宣教師ルイス・フロイスが紹介している話であるので、信長から直接聞いた話である可能性がある。もしかしたら、俺は天台座主だぞ、そうか、それなら、こちらは魔王だ、仏敵だぞ、畏れ入ったかのような笑い話だったのかもしれない。この叡山焼討ちをきっかけに両者の関係が冷えていくのだが、この当時の信玄と信長は縁戚関係にあり、関係はよかったからである。もっとも、他にこのことを書いた当時の資料は存在しないのであるが、その略が魔王である。
もっとも、仏典には随分前から出てくるが、その語を英語のdevil kingあたりの訳として転用したものだから、悪魔の王である。ということは、悪魔なのか。
「違うのう」
さいですか。しかし、こんなに優しくしてくれるのは、自分の魂を奪うためだろうか。メフィストフェレスだって、誘惑の甘言を労していたではないか。
「そんな下賤の者と一緒にするでない」
そりゃ、すいません。
そういえば、魔王というのは、昔の神だという話があった。ベルゼブブなどもそうらしいが、サタンも神に仕える使徒だったのが堕したものである。実際、ルシフェルという別名は明けの明星、つまり、金星を意味し、天上に身を置いていた時代の名残だというのである。
「そいつらとは出自は異なるの」
では、何者なんだ。
「人間だったな」
そうなんですか。それで、自分のようなものにも優しいのか。しかし、魔界の王だから、王に噓はない。そりゃ、魔力あるよね。威嚇どころか、召喚魔法が使えても不思議はない。ということは、トイフェルシアって、魔界か。
「ようやく、気づいたか」と言われて、自分が脳内暴走の虜になっていたことに気づく。
まずい、魔王と対等に話をしていた。
「何を固まっている」と、面白そうに魔王が聞いてくる。
「あまりの畏れ多さに」
「嘘つき」と、ずっと観察していたらしいアリエルが突っ込む。
綺麗な顔をしていても、結構、言いたい放題だなと思う。
「アリエルが綺麗だと」
魔王の言葉に、アリエルが固まる。
ですから、陛下、プライヴァシーというものがありまして、そういうものをさらけ出すのは、人として…、いや、人ではなかった。でも、元は人間だと…。
「私が綺麗ですって」と、再起動したアリエルがほほ笑む。
「とても綺麗です」
そこに嘘はない。
「結構な年齢だぞ」
えっ、そうなの。
「うるさい!」と、アリエルが速攻で怒鳴る。
まさかの百歳越えとか。いや、精霊っていうのだから、もっとかもしれない。
「せっかく、綺麗と言ってもらったのに、そんな罵声をさらすとは」
魔王がからかう。
「うるさいったら、うるさい!」
アリエルは、魔王に怒鳴りながら、こちらにほほ笑むという高等技術を披露する。
しかし、こっちに好意を持ってくれたら、ついてきてくれないかなと思う。多分、ファーレンドルフ家は、辺境伯の配下の地方領主か、その地方領主に仕える騎士であろう。どれほどの力を持っているか分からないが、アリエルの口ぶりだと、その家族や領民のすべてが魔法が使えるのだろう。そういう中で、勇者とはいえ、魔力がない自分の居場所があるとも思えない。魔力がないと分かったら、家を追い出されるかもしれない。しかも、三男である。次男なら、長男に何かあった時のスペアという考え方もできるが、三男は微妙である。
しかし、アリエルが来てくれるのなら、話が大いに違ってくる。
もちろん、魔王が来てくれたら、大抵の魔物は瞬殺だろう。ただ、魔王というのは、過剰戦力だし、人間界で受け入れてもらえるかという問題がある。第一、魔界の再建を優先すると言いきっているのだから、共闘は難しいだろう。
その点、アリエルは大精霊だ。こちらの常識は知らないが、勇者に精霊がつくのはよくあると魔王が言うぐらいだから、悪くは見られないだろう。むしろ、好意的に見られるはずだ。
「それに、こいつは白だ」と、魔王が話題を変える。
こちらの思惑を考慮してくれているのかどうかは知らない。
「そうだけど…」と、話の展開についていけないアリエルが不承不承頷く。
「白は珍しい」
「だから、選びました。勇者にふさわしいゼーレだわ」と、アリエルが力強く答える。切り替えが早い。
「あのう、白って」と、聞いてみる。
「お前のゼーレの色が白いということだ」
意味が分からない。
「白いというのは、喜んでいるということなの」と、アリエル。
心なしか、声が優しい。
「死んだというのが分かって、喜ぶ呑気ものは少ないからな」
呑気ものって…、ま、苦しみから解放されて喜んではいたけど…。
「そういう呑気ものが勇者になったのに、魔法が使えないのは可哀そうだろうが」
えっ、ありがとう。もしかして、同情されているのかな。魔王とは言うけれど、本当は優しいのだろうか。そういえば、さっきからいろいろと助けてもらっている。
「ヨアヒムが手伝えばいいでしょ」
おっ、一緒に転生させることにしたか。
「こいつは白い。勇者になる。しかも、記憶持ちだ。そして、アリエルに惚れている」
魔王が叩き込むように攻めていく。
しかし、綺麗と言っただけで、惚れたということになるのだろうか。
「うーん」と、アリエルは悩んだが、「でも、忙しい」と口にした。
「オベロンに聞いてみよう」と魔王が言う。
アリエルは、口に手を当てて、何てことをという表情をした。